国語 / 晋語九
趙簡子田于螻,史黯聞之,以犬待于門。簡子見之,曰:「何為?」曰:「有所得犬,欲試之茲囿。」簡子曰:「何為不告?」對曰:「君行臣不從,不順。主將適螻而麓不聞,臣敢煩當日。」簡子乃還。
新字:趙簡子田于螻,史黯聞之,以犬待于門。簡子見之,曰:「何為?」曰:「有所得犬,欲試之茲囿。」簡子曰:「何為不告?」対曰:「君行臣不従,不順。主将適螻而麓不聞,臣敢煩当日。」簡子乃還。
書き下し
趙簡子螻(ろう)に田(かり)す。史黯(しあん)之を聞き、犬を以て門に待つ。簡子之を見て曰く、「何をか為す」と。曰く、「得たる所の犬有り。之を茲(こ)の囿(ゆう)に試みんと欲す」と。簡子曰く、「何為れぞ告げざる」と。対えて曰く、「君行きて臣従わざるは、順ならず。主将に螻に適かんとして麓(ろく)聞かず。臣敢えて当日(とうじつ)を煩わさんや」と。簡子乃ち還る。
現代語訳
趙簡子が螻(晋の君の御料の狩り場)で狩りをしようとした。史黯(晋の太史、史墨)はそれを聞き、猟犬を連れて狩り場の門で待っていた。簡子はそれを見て言った。「何をしているのか。」史黯は言った。「手に入れた犬がおりまして、この狩り場で試してみたいのです。」簡子が「なぜ私に断らなかったのか」と言うと、史黯は答えた。「主君がなさることに臣下が従わないのは、順当ではありません。主君は螻に行かれるのに、狩り場の番人にさえお知らせになっていません。臣下の私が、どうしてあなたの当番の者を煩わせて申し出たりいたしましょう。」簡子はそこで引き返した。
解説
晋の卿趙簡子が、晋の君の狩り場である螻で勝手に狩りをしようとしたとき、史官の史黯が遠回しに諫めた話である。韋昭は螻を晋君の囿、麓をその苑囿の番人とする。史黯は犬を連れて門で待ち、自分もここで犬を試したいと言う。簡子が、なぜ自分に断らないのかと咎めると、史黯は、主君が君の囿に入るのに番人に知らせない以上、臣もそれにならって主君の当番を煩わせないのだと答えた。上の者が筋を踏まずに振る舞えば、下の者も同じように振る舞う。その理を、簡子自身のしたことを鏡のように映して見せたのである。簡子はすぐに悟って引き返した。晋の公室をしのぐ力を持つ卿の、ささいな越権を見逃さなかった点に、この史官の目がある。自分が守らない手順を部下にだけ求めていないかを問う章である。
この章句が説くこと
国語晋語諫言順史黯
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