国語 / 晋語九
下邑之役,董安于多。趙簡子賞之,辭,固賞之,對曰:「方臣之少也,進秉筆,贊為名命,稱於前世,立義於諸侯,而主弗志。及臣之壯也,耆其股肱以從司馬,苛慝不產。及臣之長也,端委韠帶以隨宰人,民無二心。今臣一旦為狂疾,而曰『必賞女』,與余以狂疾賞也,不如亡!」趨而出,乃釋之。
新字:下邑之役,董安于多。趙簡子賞之,辞,固賞之,対曰:「方臣之少也,進秉筆,賛為名命,称於前世,立義於諸侯,而主弗志。及臣之壮也,耆其股肱以従司馬,苛慝不産。及臣之長也,端委韠帯以随宰人,民無二心。今臣一旦為狂疾,而曰『必賞女』,与余以狂疾賞也,不如亡!」趨而出,乃釈之。
書き下し
下邑(かゆう)の役に、董安于(とうあんう)多(た)なり。趙簡子之を賞す。辞す。固く之を賞す。対えて曰く、「臣の少(わか)きに方(あた)りてや、進みて筆を秉(と)り、名命を為すを賛(たす)け、前世に称せられ、義を諸侯に立つ。而るに主志(しる)さず。臣の壮なるに及びてや、其の股肱を耆(いた)して以て司馬に従い、苛慝(かとく)産せず。臣の長ずるに及びてや、端委韠帯(たんいひつたい)して以て宰人に随い、民二心無し。今臣一旦狂疾を為して、『必ず女(なんじ)を賞せん』と曰う。余に与うるに狂疾を以て賞するや、亡(な)きに如かず」と。趨りて出づ。乃ち之を釈(ゆる)す。
現代語訳
下邑の戦いで、趙簡子の家臣董安于は大きな手柄を立てた。簡子が褒美を与えようとすると、董安于は辞退した。簡子がなおも強いて与えようとすると、董安于は答えた。「私が若かったころは、筆を執って主君の命令の文を作るのを手伝い、それは前の代にも称えられ、諸侯の間に義を立てました。けれども主君はそれを覚えておいでになりませんでした。壮年になると、手足の力を尽くして司馬(軍事をつかさどる官)に従い、ひどい悪事が起こらないようにしました。年をとってからは、礼服と冠を身につけ、礼の飾りをつけて宰官に従い、民が二心を抱かないようにしてきました。いま私がひとたび狂ったように暴れ回ったところ、『必ずお前に褒美をやろう』とおっしゃる。狂ったふるまいで褒美を受けるくらいなら、逃げ去ったほうがましです。」そう言って小走りに退出した。簡子はそこで褒美を与えるのをやめた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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国語・晋語九趙簡子、尹鐸をして晋陽を為めしめて曰く、「必ず其の塁培(るいばい)を墮(こぼ)て。吾将に往かんとす。若し塁培を見ば、是れ寅(いん)と吉射(きつえき)とを見るなり」と。尹鐸往きて之を増す。簡子晋陽に如き、塁を見て怒りて曰く、「必ず鐸を殺して後に入らん」と。大夫之を辞(こ)う。可(き)かずして曰く、「是れ余の讎を昭らかにするなり」と。郵無正(ゆうむせい)進みて曰く、「昔先主文子(ぶんし)は少くして難に釁(はな)れ、姫氏に公宮に従う。孝徳有りて以て出でて公族に在り、恭徳有りて以て升りて位に在り、武徳有りて以て羞(すす)みて正卿と為り、温徳有りて以て其の名誉を成す。趙氏の典刑を失い、其の師保を去るも、其の身に基(はじ)めて、以て其の所を克く復す。景子(けいし)に及び、公宮に長じ、未だ教訓に及ばずして嗣ぎ立つ。亦能く其の身を纂修して以て先業を受け、国に謗り無し。徳に順いて以て子に学(おし)え、言を択びて以て子に教え、師保を択びて以て子を相(たす)く。今吾子位を嗣ぐに、文の典刑有り、景の教訓有り、之に重ぬるに師保を以てし、之に加うるに父兄を以てす。子皆之を疏(うと)んじ、以て此の難に及ぶ。夫れ尹鐸曰く、『楽しみを思いて喜び、難を思いて懼るるは、人の道なり。委土も以て師保と為すべし。吾何為(なんす)れぞ増さざらん』と。是を以て之を修む。庶(こいねが)わくは曰く、以て鑑みて趙宗を鳩(やす)んずべきか、と。若し之を罰せば、是れ善を罰するなり。善を罰すれば必ず悪を賞す。臣何をか望まん」と。簡子説(よろこ)びて曰く、「子微(な)かりせば、吾幾(ほとん)ど人為らざらん」と。免難の賞を以て尹鐸を賞す。初め、伯楽(はくらく)と尹鐸と怨み有り。其の賞を以て伯楽氏に如きて曰く、「子吾が死を免る。敢えて禄を帰さざらんや」と。辞して曰く、「吾は主の為に図る、子の為に非ざるなり。怨みは怨みの若(ごと)し」と。
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『春秋左氏伝』定公十四年 董安于の死十四年春、衛侯、公叔戌と其の黨とを逐ふ。故に趙陽宋に奔り、戌來奔す。梁嬰父、董安于を惡み、知文子に謂ひて曰く、「安于を殺さずんば、終に政を趙氏に為さしめん。趙氏必ず晉國を得ん。盍ぞ其の先づ難を發せしを以て、趙氏を討ぜざる」と。文子、人をして趙孟に告げしめて曰く、「范・中行氏は信に亂を為すと雖も、安于則ち之を發せり。是れ安于亂を謀るに與れるなり。晉國に命有り、『禍を始むる者は死す』と。二子既に其の罪に伏せり。敢へて以て告ぐ」と。趙孟之を患ふ。安于曰く、「我死して晉國寧く、趙氏定まらば、將た焉んぞ生を用ゐん。人誰か死せざらん。吾死すること莫(おそ)し」と。乃ち縊れて死す。趙孟諸を市に尸(さら)し、而して知氏に告げて曰く、「主、罪人を戮せよと命ず。安于既に其の罪に伏せり。敢へて以て告ぐ」と。知伯、趙孟に從ひて盟ひ、而る後趙氏定まる。安于を廟に祀る。頓子牂、晉に事へんと欲し、楚に背きて陳の好を絕つ。二月、楚、頓を滅ぼす。
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国語・晋語九鉄(てつ)の戦いに、趙簡子曰く、「鄭人我を撃つ。吾弢(とう)に伏して衉血(かんけつ)すれども、鼓音衰えず。今日の事、我に若く莫きなり」と。衛の荘公右と為りて曰く、「吾九たび上り九たび下り、人を撃ちて尽く殪(たお)す。今日の事、我に加うる莫きなり」と。郵無正御して曰く、「吾が両鞁(りょうひ)将に絶えんとす。吾能く之を止む。今日の事、我は上の次なり」と。駕して材(ざい)を乗(ふ)むに、両鞁皆絶ゆ。
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史記 趙世家晋君、籍秦をして邯鄲を囲ましむ。荀寅・范吉射、午と善し。秦を助くるを肯ぜずして乱を作さんと謀る。董安于之を知る。十月、范・中行氏趙鞅を伐つ。鞅晋陽に奔る。晋人之を囲む。范吉射・荀寅の仇人魏襄等、荀寅を逐ひて梁嬰父を以て之に代へ、吉射を逐ひて范皋繹を以て之に代へんと謀る。荀櫟、晋侯に言ひて曰く、「君、大臣に命ず、乱を始むる者は死せんと。今三臣乱を始むるに、而も独り鞅を逐ふ。刑を用ふること均しからず。請ふ皆之を逐はん」と。十一月、荀櫟・韓不佞・魏哆、公の命を奉じて以て范・中行氏を伐つも、克たず。范・中行氏反りて公を伐つ。公之を撃ち、范・中行敗走す。丁未、二子朝歌に奔る。韓・魏、趙氏を以て請ふを為す。十二月辛未、趙鞅絳に入り、公宮に盟ふ。其の明年、知伯文子、趙鞅に謂ひて曰く、「范・中行信に乱を為すと雖も、安于之を発す。是れ安于与に謀るなり。晋国に法有り、乱を始むる者は死す。夫れ二子已に罪に伏して、而も安于独り在り」と。趙鞅之を患ふ。安于曰く、「臣死して、趙氏定まり、晋国寧からば、吾が死晩し」と。遂に自殺す。趙氏以て知伯に告げ、然る後に趙氏寧し。孔子、趙簡子の晋君に請はずして邯鄲の午を執へ、晋陽を保つを聞く。故に春秋に書して曰く「趙鞅晋陽を以て畔く」と。趙簡子に臣有り、周舍と曰ふ。直諫を好む。周舍死す。簡子朝を聴く毎に、常に悦ばず。大夫罪を請ふ。簡子曰く、「大夫罪無し。吾聞く、千羊の皮は一狐の腋に如かずと。諸大夫朝するも、徒だ唯唯を聞き、周捨の鄂鄂を聞かず。是を以て憂ふるなり」と。簡子此に由りて能く趙の邑を附けて晋人を懐けしむ。晋の定公十八年、趙簡子、范・中行を朝歌に囲む。中行文子邯鄲に奔る。明年、衛の霊公卒す。
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国語・晋語七悼公張老をして卿たらしめんとす。辞して曰く、「臣は魏絳に如かず。夫れ絳の智は能く大官を治め、其の仁は以て公室を利して忘れざるべく、其の勇は刑に疚(や)ましからず、其の学は其の先人の職を廃せず。若し卿位に在らば、外内必ず平らかならん。且つ雞丘の会に、其の官犯さずして辞順(したが)えり。賞せざるべからざるなり」と。公之に五たび命ず。固く辞す。乃ち司馬たらしむ。魏絳をして新軍に佐たらしむ。
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国語・晋語九少室周(しょうしつしゅう)、趙簡子の右為(た)り。牛談(ぎゅうだん)の力有るを聞き、之と戯(たわむ)れんことを請う。勝たず。右を致す。簡子之を許し、少室周をして宰と為さしめて曰く、「賢を知りて譲る、以て訓(おし)うべし」と。
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