国語 / 晋語四
文公學讀書於臼季,三日,曰:「吾不能行也咫,聞則多矣。」對曰:「然而多聞以待能者,不猶愈也?」
新字:文公学読書於臼季,三日,曰:「吾不能行也咫,聞則多矣。」対曰:「然而多聞以待能者,不猶愈也?」
書き下し
文公読書を臼季(きゅうき)に学ぶ。三日にして、曰く、「吾行うこと能わざるや咫(し)なるも、聞くことは則ち多し」と。対えて曰く、「然れども多く聞きて以て能くする者を待つは、猶愈(まさ)らずや」と。
現代語訳
文公は臼季(胥臣)について書物の読み方を学んだ。三日たって、文公は言った。「わたしが実行できることはほんのわずかなのに、耳にしたことばかりが多くなった。」臼季は答えた。「そうであっても、多くを聞いておいて、それを実行できる者の登場を待つのは、何も学ばないよりはまさっているのではありませんか。」
解説
文公が胥臣(臼季)に書物を学び、三日で音を上げる場面である。長い亡命生活を経て国君となった文公にとって、書を読むのは容易ではなかったのだろう。聞いたことは多くなったが、実行できることはわずかだ、という嘆きは、学ぶ者なら誰もが覚えのある感覚である。これに対して胥臣は、たとえ自分で実行できなくても、多くを聞いて知っておけば、それを実行できる人材を見いだして任せることができる、何も学ばないよりはずっとよい、と答えた。韋昭注も、能ある者に行わせるのは学ばないよりまさると解いている。君主の学問は、自ら何でもこなすためではなく、人を見分け、任せるためにある、という考え方がここにある。わずか数十字の短い問答だが、上に立つ者の学び方をよく言い当てている。知っていれば、できる人を見つけて頼むことができる。すべてを自分で実行できなくても、学ぶ意味は十分にある。
この章句が説くこと
国語晋語学問読書胥臣
関連する章句
-
歎異抄・第十二条経釈を読み学せざる輩、往生不定の由のこと。この条、すこぶる不足言の義と言いつべし。 他力真実の旨を明かせる諸の聖教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや。 まことにこの理に迷えらん人は、いかにもいかにも学問して、本願の旨を知るべきなり。 経釈を読み学すといえども、聖教の本意を心得ざる条、もっとも不便のことなり。
-
人物志・體別夫れ學は材を成す所以なり、疏は情を推す所以なり。偏材の性は、移轉すべからず。
-
言志四録・南洲手抄学之を古訓に稽へ、問之を師友に質すは、人皆之を知る。学必ず之を躬に学び、問必ず諸を心に問ふは、其れ幾人有らんか。
-
言志四録・南洲手抄朝にして食はずば、昼にして饑う。少うして学ばずば、壮にして惑ふ。饑うるは猶忍ぶ可し、惑ふは奈何ともす可からず。
-
論語・為政篇子曰く、異端を攻むるは、斯れ害のみ。
-
説苑・建本子思曰わく、学は才を益す所以なり、礪は刃を致す所以なり。吾嘗て幽処して深く思うも、学の速やかなるに若かず。吾嘗て跂ちて望むも、高きに登りて博く見るに若かず。故に風に順いて呼べば、声疾しきを加えざれども聞く者衆し。丘に登りて招けば、臂長きを加えざれども見る者遠し。故に魚は水に乗り、鳥は風に乗り、草木は時に乗る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る