国語 / 晋語二
旦而里克見丕鄭,曰:「夫史蘇之言將及矣!優施告我,君謀成矣,將立奚齊。」丕鄭曰:「子謂何?」曰:「吾對以中立。」丕鄭曰:「惜也!不如曰不信以疏之,亦固太子以攜之,多為之故,以變其志,志少疏,乃可閒也。今子曰中立,況固其謀也,彼有成矣,難以得閒。」里克曰:「往言不可及也,且人中心唯無忌之,何可敗也!子將何如?」丕鄭曰:「我無心。是故事君者,君為我心,制不在我。」里克曰:「弒君以為廉,長廉以驕心,因驕以制人家,吾不敢。抑撓志以從君,為廢人以自利也,利方以求成人,吾不能。將伏也!」明日,稱疾不朝。三旬,難乃成。 驪姬以君命命申生曰:「今夕君夢齊姜,必速祠而歸福。」申生許諾,乃祭于曲沃,歸福于絳。公田,驪姬受福,乃寘鴆于酒,寘堇于肉。公至,召申生獻,公祭之地,地墳。申生恐而出。驪姬與犬肉,犬斃;飲小臣酒,亦斃。公命殺杜原款。申生奔新城。 杜原款將死,使小臣圉告于申生,曰:「款也不才,寡智不敏,不能教導,以至于死。不能深知君之心度,棄寵求廣土而竄伏焉;小心狷介,不敢行也。是以言至而無所訟之也,故陷於大難,乃逮于讒。然款也不敢愛死,唯與讒人鈞是惡也。吾聞君子不去情,不反讒,讒行身死可也,猶有令名焉。死不遷情,彊也。守情說父,孝也。殺身以成志,仁也。死不忘君,敬也。孺子勉之!死必遺愛,死民之思,不亦可乎?」申生許諾。
新字:旦而里克見丕鄭,曰:「夫史蘇之言将及矣!優施告我,君謀成矣,将立奚斉。」丕鄭曰:「子謂何?」曰:「吾対以中立。」丕鄭曰:「惜也!不如曰不信以疏之,亦固太子以攜之,多為之故,以変其志,志少疏,乃可閒也。今子曰中立,況固其謀也,彼有成矣,難以得閒。」里克曰:「往言不可及也,且人中心唯無忌之,何可敗也!子将何如?」丕鄭曰:「我無心。是故事君者,君為我心,制不在我。」里克曰:「弒君以為廉,長廉以驕心,因驕以制人家,吾不敢。抑撓志以従君,為廃人以自利也,利方以求成人,吾不能。将伏也!」明日,称疾不朝。三旬,難乃成。 驪姫以君命命申生曰:「今夕君夢斉姜,必速祠而帰福。」申生許諾,乃祭于曲沃,帰福于絳。公田,驪姫受福,乃寘鴆于酒,寘堇于肉。公至,召申生献,公祭之地,地墳。申生恐而出。驪姫与犬肉,犬斃;飲小臣酒,亦斃。公命殺杜原款。申生奔新城。 杜原款将死,使小臣圉告于申生,曰:「款也不才,寡智不敏,不能教導,以至于死。不能深知君之心度,棄寵求広土而竄伏焉;小心狷介,不敢行也。是以言至而無所訟之也,故陥於大難,乃逮于讒。然款也不敢愛死,唯与讒人鈞是悪也。吾聞君子不去情,不反讒,讒行身死可也,猶有令名焉。死不遷情,彊也。守情説父,孝也。殺身以成志,仁也。死不忘君,敬也。孺子勉之!死必遺愛,死民之思,不亦可乎?」申生許諾。
書き下し
旦(あした)にして里克丕鄭(ひてい)に見(まみ)えて曰く、「夫(か)の史蘇(しそ)の言将に及ばんとす。優施我に告ぐ、君の謀成れり、将に奚斉を立てんとすと」。丕鄭曰く、「子何とか謂える」と。曰く、「吾対(こた)うるに中立を以てす」と。丕鄭曰く、「惜しいかな。如かず、信ぜずと曰いて以て之を疏(うと)んじ、亦太子を固めて以て之を携(はな)し、多く之が故を為して以て其の志を変ぜしめんには。志少しく疏なれば、乃ち間(かん)すべきなり。今子中立と曰う、況(ま)すます其の謀を固むるなり。彼成ること有り、以て間を得難し」と。里克曰く、「往言は及ぶべからざるなり。且つ人の中心唯だ之を忌むこと無し、何ぞ敗るべけんや。子将に何如(いかん)せんとする」と。丕鄭曰く、「我は心無し。是の故に君に事うる者は、君を我が心と為す。制は我に在らず」と。里克曰く、「君を弑して以て廉と為し、廉を長じて以て心を驕らせ、驕に因りて以て人の家を制するは、吾敢えてせず。抑(そもそも)志を撓(たわ)めて以て君に従い、人を廃するを為して以て自ら利するなり。方(みち)を利して以て人を成すを求むるは、吾能わず。将に伏せんとす」と。明日、疾と称して朝せず。三旬にして、難乃ち成る。 驪姫君命を以て申生に命じて曰く、「今夕君斉姜(せいきょう)を夢む。必ず速やかに祠(まつ)りて福を帰(おく)れ」と。申生許諾し、乃ち曲沃(きょくよく)に祭り、福を絳(こう)に帰る。公田(かり)す。驪姫福を受け、乃ち鴆(ちん)を酒に寘(お)き、堇(きん)を肉に寘く。公至り、申生を召して献ぜしむ。公之を地に祭るに、地墳(ふく)る。申生恐れて出ず。驪姫犬に肉を与うるに、犬斃(たお)る。小臣に酒を飲ましむるに、亦斃る。公命じて杜原款(とげんかん)を殺さしむ。申生新城に奔る。 杜原款将に死せんとし、小臣圉(ぎょ)をして申生に告げしめて曰く、「款や不才にして、智寡く敏ならず、教導する能わずして、以て死に至る。深く君の心度を知りて、寵を棄て広土を求めて竄伏(ざんぷく)せしむる能わず。小心狷介(けんかい)にして、敢えて行かざるなり。是を以て言至りて之を訟(うった)うる所無きなり。故に大難に陥り、乃ち讒に逮(およ)べり。然れども款や敢えて死を愛(お)しまず、唯だ讒人と是の悪を鈞(ひと)しくするのみ。吾聞く、君子は情を去らず、讒に反(かえ)さず。讒行われて身死すとも可なり、猶令名有りと。死して情を遷(うつ)さざるは、彊なり。情を守りて父を説(よろこ)ばしむるは、孝なり。身を殺して以て志を成すは、仁なり。死して君を忘れざるは、敬なり。孺子(じゅし)之を勉めよ。死して必ず愛を遺し、死して民の思いとならば、亦可ならずや」と。申生許諾す。
現代語訳
夜が明けると、里克は丕鄭(晋の大夫)に会って言った。「あの史蘇(晋の卜官)の予言が、いよいよ現実になろうとしている。優施が私に告げた、殿の計画は定まり、奚斉を立てるつもりだと」。丕鄭は言った。「あなたは何と答えたのです」。里克は言った。「中立を保つと答えた」。丕鄭は言った。「惜しいことをしました。そんな話は信じないと突っぱねて相手の自信をぐらつかせ、また太子をしっかり支えて驪姫の一派を切り離し、あれこれ策をめぐらしてその意志を変えさせる、そうすべきでした。相手の気持ちが少しでも揺らげば、そこに割って入ることができたのです。ところがあなたは中立と言った。それはかえって相手の計画を固めてやったようなものです。もう手はずは整っているでしょうから、割って入るのは難しい」。里克は言った。「口にした言葉は取り返しがつかない。しかも、あの人は心の底で何ひとつ憚ることがないのだから、どうして打ち破れよう。あなたはどうするつもりか」。丕鄭は言った。「私には自分の心というものがありません。君に仕える者は、君の心をわが心とするものです。決めるのは私ではありません」。里克は言った。「君を弑しておきながら、それを潔い正義だと称し、その正義を誇って心をおごらせ、おごりのままに人の家の父子を裁くようなことは、私にはあえてできない。かといって、志を曲げて君に従い、太子を廃して自分の利を図るのも、また道にかなうふりをして太子を守り立てようとするのも、私の力ではできない。身を隠すほかはない」。翌日、里克は病と称して朝廷に出なかった。三十日後、ついに難事が起こった。 驪姫は献公の命令と偽って申生に命じた。「今夜、殿が斉姜(申生の亡き母)の夢をご覧になりました。必ず急いで祭りをして、お下がりの肉を送りなさい」。申生は承知し、曲沃(申生の居城)で祭りを行い、その肉を都の絳に届けた。献公は狩りに出ていた。驪姫は肉を受け取ると、酒に鴆(毒)を入れ、肉に堇(とりかぶと)を仕込んだ。献公が戻ると、申生を呼んで肉と酒を献上させた。献公が口にする前にまず地に注いで祭ると、地面が盛り上がった。申生は恐れて退出した。驪姫が犬に肉を与えると、犬は死んだ。小臣(宮中の近侍)に酒を飲ませると、これも死んだ。献公は命じて、申生の守り役杜原款を殺させた。申生は新城(曲沃)に逃げた。 杜原款は死を前にして、小臣の圉を遣わして申生に告げさせた。「私は才がなく、知恵も乏しく聡くもなく、あなたを導くことができずに、こうして死ぬことになりました。殿のお心の内を深く測って、あなたに地位を捨てさせ、広い他国に逃れて身を隠させることもできませんでした。私は気が小さく、かたくなに分を守る性分で、あえて逃げることもしませんでした。そのため讒言が襲ってきても、申し開きをする手立てがなかったのです。こうして大難に陥り、讒言の害がここまで及びました。けれども私は死を惜しみはしません。ただ無念なのは、讒言する者と同じ悪名を負うことだけです。私はこう聞いています。君子は君を慕う情を捨てず、讒言に言い返して身の潔白を争わない。讒言が通って身が死んでも構わない、なお良い名が残るのだと。死んでも情を変えないのは強さです。情を守って父を喜ばせるのは孝です。身を殺して志を成し遂げるのは仁です。死んでも君を忘れないのは敬です。若君よ、どうか努めてください。死んで必ず慕わしさを残し、死んで民に思い慕われるなら、それもまた良いことではありませんか」。申生は承知した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 晋世家地に祭れば、地墳(ふく)る。犬に与ふれば、犬死す。小臣に与ふれば、小臣死す。驪姫泣きて曰く、「太子何ぞ忍びなるや。其の父にして弑して之に代はらんと欲す。況んや他人をや。且つ君老いたり。旦暮の人なり。曾ち待つこと能はずして之を弑せんと欲す」と。献公に謂ひて曰く、「太子の然る所以は、妾及び奚斉の故を以てするに過ぎず。妾願はくは子母之を他国に辟けん。若しくは早く自殺せん。徒らに母子をして太子の魚肉とする所と為らしむること毋からん。始め君之を廃せんと欲するや、妾猶ほ之を恨む。今に至りて、妾殊に此に自失す」と。太子之を聞き、新城に奔る。献公怒り、乃ち其の傅杜原款を誅す。或ひと太子に謂ひて曰く、「此の薬を為る者は乃ち驪姫なり。太子何ぞ自ら辞して之を明らかにせざる」と。太子曰く、「吾が君老いたり。驪姫に非ずんば、寝ぬるも安からず、食らふも甘からず。即し之を辞せば、君且に之を怒らんとす。不可なり」と。或ひと太子に謂ひて曰く、「他国に奔るべし」と。太子曰く、「此の悪名を被りて以て出づれば、人誰か我を内れん。我自殺せんのみ」と。十二月戊申、申生新城に自殺す。此の時重耳・夷吾来朝す。人或いは驪姫に告げて曰く、「二公子驪姫の太子を譖殺せしを怨む」と。驪姫恐れ、因りて二公子を譖す、「申生の薬胙は、二公子之を知れり」と。二子之を聞きて恐れ、重耳は蒲に走り、夷吾は屈に走り、其の城を保ちて、自ら備へ守る。初め、献公士蒍をして二公子の為に蒲・屈の城を築かしむるも、就らず。夷吾以て公に告ぐ。公士蒍を怒る。士蒍謝して曰く、「辺城は寇少なし。安んぞ之を用ひん」と。退きて歌ひて曰く、「狐裘蒙茸たり、一国に三公あり、吾誰にか適従せん」と。卒に城を就す。申生の死するに及びて、二子も亦た帰りて其の城を保つ。二十二年、献公二子の辞せずして去るを怒り、果たして謀有りとし、乃ち兵をして蒲を伐たしむ。蒲人の宦者勃鞮重耳に命じて促して自殺せしめんとす。重耳垣を踰ゆ。宦者追ひて其の衣袪を斬る。重耳遂に翟に奔る。人をして屈を伐たしむ。屈の城守りて、下すべからず。
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『春秋左氏伝』僖公四年 申生、新城に縊る冬、叔孫戴伯師を帥ゐて、諸侯の師に會して陳を侵す。陳成ぎ、轅濤塗を歸す。初め、晉の獻公驪姬を以って夫人と爲さんと欲し、之を卜するに吉ならず、之を筮するに吉なり。公曰く、「筮に從はん」と。卜人曰く、「筮は短く龜は長し、長きに從ふに如かず。且つ其の繇に曰く、『專らにすれば之れ渝り、公の羭を攘む。一薰一蕕、十年にして尚ほ猶ほ臭有り』と。必ず不可なり」と。聽かずして、之を立つ。奚齊を生み、其の娣卓子を生む。將に奚齊を立てんとするに及び、既に中大夫と謀を成す。姬大子に謂ひて曰く、「君齊姜を夢む。必ず速やかに之を祭れ」と。大子曲沃に祭り、胙を公に歸る。公田す。姬諸を宮に寘くこと六日。公至る。毒して之を獻ず。公之を地に祭れば、地墳る。犬に與ふれば、犬斃る。小臣に與ふれば、小臣も亦た斃る。姬泣きて曰く、「賊は大子に由る」と。大子新城に奔る。公其の傅杜原款を殺す。或ひと大子に謂ふ、「子辭せば、君必ず辯かん」と。大子曰く、「君は姬氏に非ざれば、居安からず、食飽かず。我辭せば、姬必ず罪有らん。君老いたり、吾又樂しまず」と。曰く、「子其れ行かんか」と。大子曰く、「君實に其の罪を察せず。此の名を被りて以って出づれば、人誰か我を納れん」と。十二月、戊申、新城に縊る。姬遂に二公子を譖して曰く、「皆之を知る」と。重耳蒲に奔り、夷吾屈に奔る。
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『春秋左氏伝』桓公十六年 急子と寿、身代わりの死十六年春正月、曹に會す。鄭を伐たんことを謀るなり。夏、鄭を伐つ。秋七月、公鄭を伐つより至る。飲至の禮を以てするなり。冬、向に城く。書するは、時なればなり。初め、衛の宣公夷姜に烝し、急子を生む。諸を右公子に屬す。之が為に齊に娶る。而して美なり。公之を取り、壽及び朔を生む。壽を左公子に屬す。夷姜縊る。宣姜と公子朔と急子を構ふ。公諸を齊に使ひせしめ、盜をして諸を莘に待たしめ、將に之を殺さんとす。壽子之に告げ、行らしめんとす。可かず。曰く、「父の命を棄てば、惡んぞ子を用ゐん。父無きの國有らば則ち可なり」と。行くに及び、飲ましむるに酒を以てす。壽子其の旌を載せて以て先んず。盜之を殺す。急子至りて曰く、「我を之れ求むるなり。此何の罪かある。請ふ我を殺せ」と。又之を殺す。二公子故に惠公を怨む。十一月、左公子泄・右公子職、公子黔牟を立つ。惠公齊に奔る。
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史記 楚世家無忌又日夜太子建を王に讒して曰く、「無忌秦の女を入れしより、太子怨み、亦た王に望むこと無き能はず。王少しく自ら備へよ。且つ太子城父に居り、兵を擅にし、外に諸侯と交はり、且に入らんと欲す」と。平王其の傅伍奢を召して之を責む。伍奢無忌の讒を知り、乃ち曰く、「王奈何ぞ小臣を以て骨肉を疎んずる」と。無忌曰く、「今制せずんば、後に悔いん」と。是に於て王遂に伍奢を囚ふ。乃ち司馬奮揚をして太子建を召さしめ、之を誅せんと欲す。太子之を聞き、亡げて宋に奔る。無忌曰く、「伍奢に二子有り。殺さざる者は楚国の患と為らん。盍ぞ其の父を免すを以て之を召さざる。必ず至らん」と。是に於て王使ひをして奢に謂はしむ、「能く二子を致さば則ち生きん。能はずんば将に死せん」と。奢曰く、「尚は至らん。胥は至らず」と。王曰く、「何ぞや」と。奢曰く、「尚の人と為りは、廉にして、節に死し、慈孝にして仁なり。召されて父を免すと聞かば、必ず至りて、其の死を顧みず。胥の人と為りは、智にして謀を好み、勇にして功を矜る。来たらば必ず死するを知る。必ず来たらず。然れども楚国の憂ひと為る者は必ず此の子ならん」と。是に於て王人をして之を召さしめて曰く、「来たれ。吾爾の父を免さん」と。伍尚伍胥に謂ひて曰く、「父免さるると聞きて奔ること莫きは、不孝なり。父戮せられて報ゆること莫きは、無謀なり。能を度りて事に任ずるは、知なり。子其れ行け。我其れ帰りて死せん」と。伍尚遂に帰る。伍胥弓を彎き矢を属け、出でて使者を見て曰く、「父罪有り。何を以て其の子を召すことを為す」と。将に射んとす。使者還り走る。遂に出でて呉に奔る。伍奢之を聞きて曰く、「胥亡ぐ。楚国危ふきかな」と。楚人遂に伍奢及び尚を殺す。十年、楚の太子建の母居巣に在り、呉に開く。呉公子光をして楚を伐たしめ、遂に陳・蔡を敗り、太子建の母を取りて去る。楚恐れ、郢に城く。初め、呉の辺邑卑梁と楚の辺邑鐘離の小童と桑を争ふ。両家交々怒りて相攻め、卑梁の人を滅ぼす。卑梁の大夫怒り、邑の兵を発して鐘離を攻む。楚王之を聞きて怒り、国の兵を発して卑梁を滅ぼす。
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