国語 / 周語下
「人有言曰:『無過亂人之門。』又曰:『佐饔者嘗焉,佐鬬者傷焉。』又曰:『禍不好,不能為禍。』《詩》曰:『四牡騤騤,旟旐有翩,亂生不夷,靡國不泯。』又曰:『民之貪亂,寧為荼毒。』夫見亂而不惕,所殘必多,其飾彌章。民有怨亂,猶不可遏,而況神乎?王將防鬬川以飾宮,是飾亂而佐鬬也,其無乃章禍且遇傷乎?自我先王厲、宣、幽、平而貪天禍,至于今未弭。我又章之,懼長及子孫,王室其愈卑乎?其若之何? 「自后稷以來寧亂,及文、武、成、康而僅克安民。自后稷之始基靖民,十五王而文始平之,十八王而康克安之,其難也如是。厲始革典,十四王矣。基德十五而始平,基禍十五其不濟乎!吾朝夕儆懼,曰:『其何德之修,而少光王室,以逆天休?』王又章輔禍亂,將何以堪之?王無亦鑒于黎、苗之王,下及夏、商之季,上不象天,而下不儀地,中不和民,而方不順時,不共神祇,而蔑棄五則。是以人夷其宗廟,而火焚其彝器,子孫為隸,下夷於民,而亦未觀夫前哲令德之則。則此五者而受天之豐福,饗民之勳力,子孫豐厚,令聞不忘,是皆天子之所知也。
新字:「人有言曰:『無過乱人之門。』又曰:『佐饔者嘗焉,佐闘者傷焉。』又曰:『禍不好,不能為禍。』《詩》曰:『四牡騤騤,旟旐有翩,乱生不夷,靡国不泯。』又曰:『民之貪乱,寧為荼毒。』夫見乱而不惕,所残必多,其飾弥章。民有怨乱,猶不可遏,而況神乎?王将防闘川以飾宮,是飾乱而佐闘也,其無乃章禍且遇傷乎?自我先王厲、宣、幽、平而貪天禍,至于今未弭。我又章之,懼長及子孫,王室其愈卑乎?其若之何? 「自后稷以来寧乱,及文、武、成、康而僅克安民。自后稷之始基靖民,十五王而文始平之,十八王而康克安之,其難也如是。厲始革典,十四王矣。基徳十五而始平,基禍十五其不済乎!吾朝夕儆懼,曰:『其何徳之修,而少光王室,以逆天休?』王又章輔禍乱,将何以堪之?王無亦鑒于黎、苗之王,下及夏、商之季,上不象天,而下不儀地,中不和民,而方不順時,不共神祇,而蔑棄五則。是以人夷其宗廟,而火焚其彝器,子孫為隸,下夷於民,而亦未観夫前哲令徳之則。則此五者而受天之豊福,饗民之勲力,子孫豊厚,令聞不忘,是皆天子之所知也。
書き下し
「人言える有り、曰く、『乱人の門を過ぐること無かれ』と。又曰く、『饔(よう)を佐(たす)くる者は嘗め、鬬(たたか)いを佐くる者は傷つく』と。又曰く、『禍いは好まざれば、禍いを為す能わず』と。詩に曰く、『四牡(しぼ)騤騤(きき)たり、旟旐(よちょう)翩(へん)たる有り。乱生じて夷(たい)らがず、国として泯(ほろ)びざる靡(な)し』と。又曰く、『民の乱を貪る、寧(やす)んじて荼毒(とどく)を為す』と。夫れ乱を見て惕(おそ)れざれば、残(そこな)う所必ず多く、其の飾り弥(いよいよ)章(あきら)かなり。民の怨乱有るすら、猶お遏(とど)むべからず、而るを況んや神をや。王将に鬬う川を防ぎて以て宮を飾らんとす。是れ乱を飾りて鬬いを佐くるなり。其れ乃ち禍いを章かにし且つ傷に遇うこと無からんや。我が先王厲・宣・幽・平より天の禍いを貪り、今に至るまで未だ弭(や)まず。我又之を章かにせば、懼らくは長く子孫に及び、王室其れ愈(いよいよ)卑しからん。其れ之を若何せん。 「后稷より以来乱を寧んじ、文・武・成・康に及びて僅かに克く民を安んず。后稷の始めて基(もとい)して民を靖んじてより、十五王にして文始めて之を平らげ、十八王にして康克く之を安んず。其の難きや是くの如し。厲始めて典を革(あらた)めてより、十四王なり。徳を基すること十五にして始めて平らぐ。禍いを基すること十五、其れ済(な)らざらんか。吾朝夕儆懼(けいく)して曰く、『其れ何の徳をか之れ修めて、少しく王室を光らし、以て天の休(さいわい)を逆(むか)えん』と。王又禍乱を章かにし輔(たす)く、将に何を以てか之に堪えん。王亦黎・苗の王に鑑み、下りて夏・商の季に及ぶこと無からんや。上は天に象(のっと)らず、而して下は地に儀らず、中は民に和せず、而して方は時に順わず、神祇を共(うやま)わず、而して五則を蔑棄す。是を以て人其の宗廟を夷(たいら)げ、而して火其の彝器(いき)を焚き、子孫隷と為り、下りて民に夷(ひと)しく、而して亦未だ夫の前哲令徳の則を観ず。此の五者に則りて天の豊福を受け、民の勲力を饗(う)け、子孫豊厚にして、令聞忘れられず。是れ皆天子の知る所なり。
現代語訳
(太子晋は続けた。)「人のことわざに『乱暴な人の門の前を通るな』とあり、また『料理を手伝う者は味見をし、喧嘩を手伝う者は傷を負う』とあり、また『禍いは自分が好まなければ禍いにならない』とあります。『詩』には『四頭立ての馬は勇ましく駆け、鳥や亀蛇を描いた旗がはためく。乱が起こって治まらず、滅びない国はない』とあり、また『民が乱を貪るようになれば、平然とむごい毒をふるう』とあります。そもそも乱を見ても恐れなければ、損なわれるものは必ず多く、取り繕えば取り繕うほど、かえって過ちが目立つのです。民が怨んで乱れることさえ抑えきれないのに、まして神の怒りならなおさらです。王は争う川をせき止めて宮殿を取り繕おうとしておられますが、これは乱を取り繕い、争いに手を貸すことです。禍いを目立たせ、傷を負うことにならないでしょうか。わが先王の厲王・宣王・幽王・平王のころから、周は天の禍いを求めるようなことを重ね、今に至るまでやんでいません。私たちがさらにそれを目立たせれば、禍いが長く子孫にまで及び、王室はますます衰えてしまうのではないかと恐れます。いったいどうなさるおつもりですか。 「后稷(周の始祖)以来、乱を鎮めてきて、文王・武王・成王・康王に至ってようやく民を安らかにできました。后稷が初めて基を築いて民を治めてから、十五代の王を経て文王がはじめて天下を平らげ、十八代の王を経て康王がようやく安定させたのです。これほどに難しいことでした。厲王が初めて先王の法を改めてから、今で十四代の王になります。徳の基を築いて十五代でようやく平らいだのですから、禍いの基を築いて十五代目となれば、もはや立ち行かないのではないでしょうか。私は朝夕戒め恐れて、『どんな徳を修めれば、わずかでも王室を輝かせ、天の恵みを迎えることができるだろうか』と考えております。それなのに王がさらに禍乱を目立たせて助長なさるなら、どうやって持ちこたえられましょう。王よ、黎や苗の王(古の乱れた君主)に、下っては夏や殷の末世に鑑みられてはいかがですか。彼らは上は天にのっとらず、下は地にならわず、中ほどでは民と和さず、四方では時節に従わず、天地の神々を敬わず、五つの法則をないがしろにしました。そのため人々はその宗廟を平らげ、火はその祭器を焼き、子孫は奴隷となって民と同じ身分に落ち、先の賢人たちの良き徳の法を見ることもありませんでした。反対にこの五つの法則に従った者は、天の豊かな福を受け、民の働きを享受し、子孫は栄え、良い名声が忘れられることはありませんでした。これはみな天子がご存じのことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 張丞相列伝帝、太子を廃して、戚姫の子如意を立てて太子と為さんと欲するに及び、大臣固く之を争へども、能く得る莫し。上、留侯の策を以て即ち止む。而して周昌廷に之を争ふこと彊し。上其の説を問ふ。昌は人と為り吃(ども)りにして、又盛んに怒りて曰く、「臣の口は言ふこと能はず。然れども臣期期として其の不可なるを知る。陛下太子を廃せんと欲すと雖も、臣期期として詔を奉ぜず」と。上欣然として笑ふ。既に罷むるや、呂后東箱に耳を側てて聴き、周昌を見て、為に跪きて謝して曰く、「君微(な)かりせば、太子幾(ほと)んど廃せられん」と。是の後戚姫の子如意、趙王と為り、
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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