国語 / 周語上
襄王使太宰文公及內史興賜晉文公命,上卿逆於境,晉侯郊勞,館諸宗廟,饋九牢,設庭燎。及期,命于武宮,設桑主,布几筵,太宰莅之,晉侯端委以入。太宰以王命命冕服,內史贊之,三命而後即冕服。既畢,賓、饗、贈、餞如公命侯伯之禮,而加之以宴好。內史興歸,以告王曰:「晉不可不善也。其君必霸,逆王命敬,奉禮義成。敬王命,順之道也;成禮義,德之則也。則德以導諸侯,諸侯必歸之。且禮所以觀忠、信、仁、義也,忠所以分也,仁所以行也,信所以守也,義所以節也。忠分則均,仁行則報,信守則固,義節則度。分均無怨,行報無匱,守固不偷,節度不攜。若民不怨而財不匱,令不偷而動不攜,其何事不濟!中能應外,忠也;施三服義,仁也;守節不淫,信也;行禮不疚,義也。臣入晉境,四者不失,臣故曰:『晉侯其能禮矣,王其善之!』樹於有禮,艾人必豐。」 王從之,使於晉者,道相逮也。及惠后之難,王出在鄭,晉侯納之。 襄王十六年,立晉文公。二十一年,以諸侯朝王于衡雍,且獻楚捷,遂為踐土之盟,於是乎始霸。
新字:襄王使太宰文公及内史興賜晋文公命,上卿逆於境,晋侯郊労,館諸宗廟,饋九牢,設庭燎。及期,命于武宮,設桑主,布几筵,太宰莅之,晋侯端委以入。太宰以王命命冕服,内史賛之,三命而後即冕服。既畢,賓、饗、贈、餞如公命侯伯之礼,而加之以宴好。内史興帰,以告王曰:「晋不可不善也。其君必覇,逆王命敬,奉礼義成。敬王命,順之道也;成礼義,徳之則也。則徳以導諸侯,諸侯必帰之。且礼所以観忠、信、仁、義也,忠所以分也,仁所以行也,信所以守也,義所以節也。忠分則均,仁行則報,信守則固,義節則度。分均無怨,行報無匱,守固不偸,節度不攜。若民不怨而財不匱,令不偸而動不攜,其何事不済!中能応外,忠也;施三服義,仁也;守節不淫,信也;行礼不疚,義也。臣入晋境,四者不失,臣故曰:『晋侯其能礼矣,王其善之!』樹於有礼,艾人必豊。」 王従之,使於晋者,道相逮也。及恵后之難,王出在鄭,晋侯納之。 襄王十六年,立晋文公。二十一年,以諸侯朝王于衡雍,且献楚捷,遂為践土之盟,於是乎始覇。
書き下し
襄王太宰文公及び内史興をして晋の文公に命を賜わしむ。上卿境に逆(むか)え、晋侯郊労し、諸(これ)を宗廟に館せしめ、九牢を饋(おく)り、庭燎(ていりょう)を設く。期に及び、武宮に命じ、桑主を設け、几筵(きえん)を布き、太宰之に莅(のぞ)む。晋侯端委(たんい)して以て入る。太宰王命を以て冕服を命じ、内史之を賛(たす)け、三たび命じて而る後に冕服に即く。既に畢(おわ)り、賓・饗・贈・餞(せん)は公の侯伯に命ずるの礼の如くにして、之に加うるに宴好を以てす。内史興帰り、以て王に告げて曰く、「晋は善くせざる可からざるなり。其の君必ず霸たらん。王命を逆うること敬にして、礼を奉ずること義成る。王命を敬するは、順の道なり。礼義を成すは、徳の則なり。徳に則りて以て諸侯を導かば、諸侯必ず之に帰せん。且つ礼は忠・信・仁・義を観る所以なり。忠は分かつ所以なり、仁は行う所以なり、信は守る所以なり、義は節する所以なり。忠もて分かてば則ち均しく、仁もて行えば則ち報いられ、信もて守れば則ち固く、義もて節すれば則ち度あり。分かつこと均しければ怨み無く、行いて報いらるれば匱(とぼ)しからず、守ること固ければ偸(うす)からず、節すること度あれば携(はな)れず。若し民怨みずして財匱しからず、令偸からずして動くに携れずんば、其れ何事か済(な)らざらん。中能く外に応ずるは、忠なり。三を施して義に服するは、仁なり。節を守りて淫せざるは、信なり。礼を行いて疚(やま)しからざるは、義なり。臣晋の境に入るに、四者失わず。臣故に曰く、『晋侯其れ能く礼あり、王其れ之を善くせよ』と。有礼に樹(う)うれば、人に艾(むく)ゆること必ず豊かなり」と。 王之に従い、晋に使いする者、道に相逮(およ)ぶ。恵后の難に及び、王出でて鄭に在り、晋侯之を納る。 襄王十六年、晋の文公を立つ。二十一年、諸侯を以て王に衡雍(こうよう)に朝し、且つ楚の捷(しょう)を献じ、遂に践土(せんど)の盟を為す。是に於いてか始めて霸たり。
現代語訳
襄王は太宰の文公(王子虎)と内史興(叔興父)を遣わして、晋の文公(重耳)に諸侯としての命を授けさせた。晋では上卿が国境まで出迎え、晋侯は自ら都の郊外で使者をねぎらい、宗廟を宿舎にあて、牛・羊・豕を九組贈り、庭にかがり火を焚いてもてなした。当日になると、武公の廟で命を受けることとし、父献公の桑の位牌を設け、机と敷物を並べ、太宰がその場に臨んだ。晋侯は士の礼服である玄端の衣と委貌の冠を着けて入った。太宰が王命によって冕冠と礼服を授け、内史がその儀を助けた。三たび命じられてから、晋侯はようやく冕服を身に着けた。儀式が終わると、使者を賓として遇する礼、饗宴、贈り物、見送りの宴は、公が侯伯を命ずるときの礼のとおりに行い、さらに宴を開いて親しみを加えた。内史興は帰ると王に告げた。「晋とは親しくしないわけにはまいりません。その君主は必ず覇者となるでしょう。王命を迎えるにあたって敬い、礼を奉じてその義を全うしました。王命を敬うのは順の道であり、礼の義を全うするのは徳の法です。徳を法として諸侯を導けば、諸侯は必ず晋に帰服するでしょう。そもそも礼とは、忠・信・仁・義を見るためのものです。忠は物事を分け与えるためのもの、仁は施し行うためのもの、信は守るためのもの、義は節度を保つためのものです。忠をもって分ければ公平になり、仁をもって行えば報いられ、信をもって守れば堅固になり、義をもって節すれば度にかないます。分け方が公平なら怨みがなく、施して報いられれば乏しくならず、守りが堅ければ薄情にならず、節度にかなえば人心が離れません。もし民が怨まず、財が乏しくならず、命令がおろそかにされず、動いても人心が離れないならば、何事も成し遂げられないことはありません。内なる心が外の礼にかなうのが忠であり、三たび辞退して礼服を正しく受けたのが仁であり、節度を守って度を越さないのが信であり、礼を行って少しの瑕もないのが義です。わたしが晋の国境に入ってから、この四つを一つも失いませんでした。ですからわたしは『晋侯は礼をよく行う。王はこれと親しくなさいませ』と申し上げるのです。礼ある者に恩を植えれば、報いは必ず豊かです」 王はこれに従い、晋へ遣わす使者が道に相次いだ。やがて恵后(襄王の継母)の子の王子帯が起こした乱で、王は都を出て鄭に身を寄せたが、晋侯が王を都に迎え入れた。 襄王の十六年、晋の文公が立った。二十一年、文公は諸侯を率いて衡雍で王に朝見し、楚から得た戦果を献上し、さらに践土で盟約を結んだ。こうして文公は初めて覇者となったのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』昭公二年 忠信は礼の器夏、四月、韓須齊に如きて女を逆ふ。齊の陳無宇女を送り、少姜を致す。少姜晉侯に寵有り、晉侯之を少齊と謂ふ。陳無宇を卿に非ずと謂ひて、諸を中都に執ふ。少姜之が為に請ひて曰く、「送るは逆ふるの班に從ふ。大國を畏るるなり。猶ほ易ふる所有り、是を以って亂作る」と。叔弓晉に聘す、宣子に報ゆるなり。晉侯郊勞せしむ。辭して曰く、「寡君弓をして來りて舊好を繼がしむ」と。固(かた)く曰く、「『女(なんぢ)敢へて賓と為る無かれ』と。命を執事に徹すれば、敝邑弘(おほ)いなり。敢へて郊使を辱めんや。請ふ辭せん」と。館を致す。辭して曰く、「寡君下臣に命じて來りて舊好を繼がしむ。好合し使成るは、臣の祿なり。敢へて大館を辱めんや」と。叔向曰く、「子叔子は禮を知れるかな。吾之を聞けり、曰く、『忠信は禮の器なり。卑讓は禮の宗なり。辭して國を忘れざるは、忠信なり。國を先にして己を後にするは、卑讓なり』と。《詩》に曰く、『威儀を敬慎し、以って有德に近づく』と。夫子は德に近し」と。
-
『斉家論』下答ふ、曲礼を引かるゝは面白きことなり。さりながら、汝のいへるは表一通りにて、袴さへ著れば、礼は調ふと思はるゝと聞ゆ。我が言ふ所は左にあらず。聖人の教を有難く思ふ実あつて、袴を著るは礼なり。実なくして袴を著るばかりは礼にあらず。子曰く、絵の事は素より後にす。子夏曰く、礼は後か。言ふこころは、礼は必ず忠信を以て質と為す。是を以て見れば、実は本なり、礼は末なり。我が許せしは、信心有りても、袴著ては講釈に出でがたき人の為なり。豈倹約にかゝはるべき。隙暇は有りながら、農工商の身として、毎日袴著て徘徊すれば、隣近所の人々が、しさいらしく思ふゆへ、遠慮せねばならぬなり。遠慮のいらぬかたがたに、袴無用といふべきや。とかく一人なりとも多く聞かせたきが我が願ひなり。
-
『慎思録』巻之一学を為すの道は、仁を為すを以て本と為し、忠信を以て主と為し、孝弟を以て先と為し、博文約礼を以て勤めと為し、君子為るを以て志と為す。是れ孔門人を教ふるの規模なり。仁なる者は何ぞや。是れ善を為すの総称、慈愛の理なり。孟子、放心を求むるを以て学問の道と為す。放心を求むる者は、乃ち仁を求むるなり。
-
論語・子罕篇子曰く、忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること毋かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。
-
説苑・雜言孔子、呂梁を観る。懸水四十仞、環流九十里、魚鱉過ぐる能わず、黿鼉敢えて居らず。一丈夫有り、方に将に之を渉らんとす。孔子人をして崖に並びて之を止めしめて曰く、「此の懸水四十仞、圜流九十里、魚鱉敢えて過ぎず、黿鼉敢えて居らず、意うに済り難からんか」と。丈夫意に錯かず、遂に渡りて出づ。孔子問う、「子巧みなるか。且つ道術有るか。能く入りて出づる所以は何ぞや」と。丈夫曰く、「始め吾入るや、先ず忠信を以てす。吾の出づるや、又従うに忠信を以てす。忠信吾が軀を波流に錯くも、吾敢えて私を用いず。吾の能く入りて復た出づる所以なり」と。孔子弟子に謂いて曰く、「水すら尚お忠信を以てす可し、義久しくして身之に親しめば、況んや人に於いてをや」と。
-
史記 蒙恬列伝蒙恬は、其の先は斉人なり。恬の大父蒙驁、斉より秦の昭王に事へ、官上卿に至る。秦の荘襄王の元年、蒙驁秦の将と為り、韓を伐ち、成皋・滎陽を取り、三川郡を作置す。二年、蒙驁趙を攻め、三十七城を取る。始皇の三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。五年、蒙驁魏を攻め、二十城を取り、東郡を作置す。始皇の七年、蒙驁卒す。驁の子を武と曰ひ、武の子を恬と曰ふ。恬嘗て獄を書し文学を典る。始皇の二十三年、蒙武秦の裨将軍と為り、王翦と楚を攻め、大いに之を破り、項燕を殺す。二十四年、蒙武楚を攻め、楚王を虜にす。蒙恬の弟は毅なり。始皇の二十六年、蒙恬家世に因りて秦の将と為るを得、斉を攻め、大いに之を破り、拝して内史と為る。秦已に天下を并せ、乃ち蒙恬をして三十万の衆を将ゐて北のかた戎狄を逐ひ、河南を収めしむ。長城を筑き、地形に因り、用て険塞を制し、臨洮に起こり、遼東に至る。延袤万余里。是に於て河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る。是の時蒙恬の威匈奴を振るはす。始皇甚だ蒙氏を尊寵し、信任して之を賢とす。而して蒙毅を親近し、位上卿に至り、出づれば則ち参乗し、入れば則ち御前にあり。恬は外事に任じて毅は常に内謀を為す。名づけて忠信と為す。故に諸将相と雖も敢て之と争ふ莫し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る