五常訓 / 巻之四・礼
一禮器云、先王の禮を立つる、本あり、文あり。忠信は禮の本なり。義理は禮の文なり。本無ければ立たず。文なければ行はれず。いふ心は、禮に本あり。忠信を本とす。忠信はまことなり。禮に文あり。義理を文とす。義理とは、外に行ふ處のあらはれたるしわざの、すぢめよきを云ふ。本なければ禮の道立たず。萬の事、皆誠より出づ。誠なければ物なし。されど又外のわざ、理にかなはざれば、文無くして、禮の道行はれず。必本末二ながらそなはりて、禮の道全し。されど先本をつとむるを要とすべし。忠信を本として、禮文行はるゝは、たとへば味甘き物は、五味の和をうけ、色白きものは、五色の采をうくるが如し。忠信ある人は禮を學ぶべし。質よき故に、外の禮文そなはりやすし。
新字:一礼器云、先王の礼を立つる、本あり、文あり。忠信は礼の本なり。義理は礼の文なり。本無ければ立たず。文なければ行はれず。いふ心は、礼に本あり。忠信を本とす。忠信はまことなり。礼に文あり。義理を文とす。義理とは、外に行ふ処のあらはれたるしわざの、すぢめよきを云ふ。本なければ礼の道立たず。万の事、皆誠より出づ。誠なければ物なし。されど又外のわざ、理にかなはざれば、文無くして、礼の道行はれず。必本末二ながらそなはりて、礼の道全し。されど先本をつとむるを要とすべし。忠信を本として、礼文行はるゝは、たとへば味甘き物は、五味の和をうけ、色白きものは、五色の采をうくるが如し。忠信ある人は礼を学ぶべし。質よき故に、外の礼文そなはりやすし。
書き下し
一礼器云、先王の礼を立つる、本あり、文あり。忠信は礼の本なり。義理は礼の文なり。本無ければ立たず。文なければ行はれず。いふ心は、礼に本あり。忠信を本とす。忠信はまことなり。礼に文あり。義理を文とす。義理とは、外に行ふ処のあらはれたるしわざの、すぢめよきを云ふ。本なければ礼の道立たず。万の事、皆誠より出づ。誠なければ物なし。されど又外のわざ、理にかなはざれば、文無くして、礼の道行はれず。必本末二ながらそなはりて、礼の道全し。されど先本をつとむるを要とすべし。忠信を本として、礼文行はるるは、たとへば味甘き物は、五味の和をうけ、色白きものは、五色の采をうくるが如し。忠信ある人は礼を学ぶべし。質よき故に、外の礼文そなはりやすし。
現代語訳
『礼記』礼器篇に「先王が礼を立てるには、本があり文がある。忠信は礼の本である。義理は礼の文である。本がなければ立たず、文がなければ行われない」とあります。その意味は、礼には本があり、忠信を本とします。忠信とは誠です。礼には文があり、義理を文とします。義理とは、外に行うところに現れたしわざの筋目のよいことをいいます。本がなければ礼の道は立ちません。あらゆることはみな誠から出ます。誠がなければ物はありません。けれどもまた外のしわざが理にかなわなければ、文がなくて、礼の道は行われません。必ず本と末の二つが備わって、礼の道は完全になります。けれども、まず本を務めることを要とすべきです。忠信を本として礼の文が行われるのは、たとえば味の甘いものは五味の調和を受け、色の白いものは五色の彩りを受けるようなものです。忠信のある人は礼を学ぶべきです。素質がよいので、外の礼の文が備わりやすいのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之四・礼本立てば末は是より出づる理なり。末のみ修りて、本なきは、誠なくして、礼の道たたず。喪の礼は、ことさら真実ならでは行はれざるものなれば、既に礼の本を説きて、又其内より、喪の礼の本をかかげ出して説き給ふ。
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『童子問』卷下大学に曰く、先後する所を知れば、則ち道に近しと。論語に曰く、信義に近ければ、言復むべし。恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかると。若し後儒をして之を言はしめば、必ず曰はん、先後する所を知れば、則ち道に合ふと。必ず曰はん、信義に合ひ、恭礼に合ふと。而して近の字を用ふべからず。然るに聖賢皆近と言ふ者は、何ぞや。中庸に云ふ、忠恕は道を違ること遠からずと。亦近きを言ふなり。蓋し道の広大なる、何の執守する所ぞ。故に唯忠信を主とすることを要して、強ひて為すことを要せず。忠信を主とすれば、則ち中らずと雖も遠からず。強ひて為せば、則ち外は似て内は実に非なり。聖人の道は、優優洋洋として、促迫することを得ず、牽強することを得ず。顔子の亜聖も、猶曰く、三月仁に違はずと。曾子の篤行も、亦疾革まるに至つて、初めて簀を易ふ。天地の化も亦然り。二十四節、七十二候、或は進み或は退き、寒熱温涼、截然として悉く其の数のごとくなること能はず。亦活物なるが故なり。語に曰く、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよと。又曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固なり。其の不遜ならんよりは寧ろ固なれと。寧とは庶幾の辞にして、亦近きの謂なり。聖人豈に其の一一中を得んことを欲せざらんや。而れども必ずしも得べからず。故に之を寧と謂ふ。蓋し人に教ふるに一歩を退きて質実に就くを以てするなり。註家は聖人の微意の在る所を知らず、乃ち前章に於て之を解して曰く、礼は中を得るを貴ぶ。奢れば則ち過ぎ、倹なれば則ち及ばず。二者皆礼に合はずと。又後章を解して曰く、奢倹倶に中を失ふ。已むことを得ずして時の弊を救ふなりと。果して其の説のごとくならば、則ち是れ聖人の言、皆半上落下にして、教と為すに足らざるなり。明道先生曰く、道の浩浩たる、何れの処にか手を下さん。惟誠を立てて、纔かに居るべきの処有りと。又曰く、惟誠心を進むれば、其の文章中らずと雖も遠からずと。伊川先生曰く、人の道は唯忠信に在りと。皆確言なり。人其の意味の深長なることを知らず。
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『五常訓』巻之五・信賢人以下は、天道聖人の如くならざれども、つとめて此誠を行ふは、是人の力を用ひて行ふ理なれば、人の道なりといへり。誠にあらざれば、天道人道共にたたず。故に孔子も、主忠信とのたまふ。忠信は人の誠、誠之者人の道といへる、是なり。程子も、人道は唯忠信にあり。誠ならざれば物なしといへり。又古語に、五常百行、誠に非ざれば非なり。其実なければ、此名なし。忠信は、即人の誠なり。程子も、己を尽くす之を忠と謂ひ、実を以てする之を信と謂ふといへり。心をつくして残さざるを忠とし、言と行とに実を用ひて、いつはらざるを信と云ふ。心にある誠を忠とし、言行にあらはれたる誠を信と云ふ。
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『慎思録』巻之六吾が夫子は文行忠信を以て教へと為し、且つ屢忠信を主とすることを言ふ。蓋し学問の道は、文を学びて以て道を明らかにし、力行して以て善を為し、忠信を主として以て誠を立つ。此の三者、一を闕くべからず。蓋し文行に非ずば、則ち理を窮め善を為すこと能はず。忠信に非ずば、則ち文行も亦進益を得ず、皆虚妄なるのみ。蓋し人道は只忠信に在り。忠信ならずば徳を立つるの基無し。故に易に曰く、忠信は徳に進む所以なりと。郷里の常人と雖も、苟も忠信無くば、則ち世に立つべからず。況んや君子の道をや。此の故に君子は之を誠にするを貴しと為す。
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『大和俗訓』巻之三・心術上忠信は即人の誠なり。誠といはずして、忠信とのたまへるは、心にいつはりなくするは忠なり。言と事とにいつはりなくするは信なり。誠は天理の自然を云ふ。忠信は人のつとめ行へる誠を云ふ。理は一にして、おのづからなると、つとむるとの別あり。程子も、人道は唯忠信にあり、誠ならざれば物なしといへり。君父につかふるにも、誠なければ忠孝にあらず、万の事、誠なければ、さばかりの善事をなすといへど、偽となれば実事にあらず。つとめ行ふもあだごとなり。是無物なり。善事をつとめ行はば、名利のためにせずして、誠を以て行ふべし。是誠の善なり。
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『五常訓』巻之五・信初にうけ合はざるは、しばらく人の心に喜ばずといへども、信に害なし。心よわく又気かろがろしくして、たやすくうけあひ、後に其約違ひぬれば、甚信に害あり。されど人の為に謀つて忠あるは、人にまじはる道なれば、なるべき理だにあらば、うけ合ひて心を尽すべし。是忠厚の道なり。誠は実理なり。ここを以て、真実无妄之を誠と謂ふと、程子もいへり。中庸に誠は天の道なりといへるは、天道の実理、自然に行はるるを云ふ。聖人の誠も、亦同じ。つとめずして、自ら実なるなり。又曰く、之を誠にする者は人の道なりといへるは、人の力を用ひて、つとめなすを誠之と云ふ。是即忠信なり。つとめずして自然なるは誠なり。つとめて実なるは忠信なり。誠は理なり。忠信は心なり。
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