弘道館記述義 / 文武不岐・文と武は車の両輪で分けてはならない
文武不岐。臣彪謹案。神聖以武建基。而文亦固寓其中焉。猶夫西土三代之於忠質文。夏殷非無文。周豈廢忠質。而夏曰忠殷曰質周曰文。皆言其所向耳。天祖天孫之垂統。神武崇神諸帝之經綸天業。其尙武亡論已。然而其敬神愛民爲政圖治之迹。豈可不謂之文乎。聖子神孫世承其緒。内安萬民外撫四夷。諸王諸臣亦皆文能附衆武能威敵。國運之盛赫赫如日之升也。中葉以降。將相異職。文武背馳。公卿軟弱手不知兵。源平互起。皇室陵夷。天下大權遂移於武人焉。夫文武之於國家。猶天地之有陰陽。陰陽並行而年穀豐饒。文武並擧而天下乂安。其不然者則反之。是故武人之爲政。其質文敎者或能致小康。專任威刑者亡不旋踵。至於東照宮撥文奮武以開今日之基。則在上君子固宜紹述其業。而凡天下之士。不可不黽勉從事於此也。蓋文武之道各有小大。經緯天地克定禍亂。是其大者也。讀書挾冊擊劔奮矛。是其小者也。然書冊所以講道義。劔矛所以鍊心膽。心膽實而後可以臨難制變。道義明而後可以脩己治人。且文之弊也弱。武可以矯弱。武之弊也愚。文可以醫愚。然則學者語其大而急其小。固不可也。務其小而忘其大。亦不可也。分而爲二。又廢其一。尤不可也。周代六藝之科。射御居其中。孔子曰。有文事者必有武備。冉求奮矛入齊軍。仲由以行三軍自許。則古之敎人所以使其文武兼資成德達材可知也。及至後世。大道湮晦。學校之設亦屬文具。凡周旋黌舍者率皆白面書生。古所謂勇敢彊有力者。不甘屈首於其間。至李唐尊呂尙匹似孔子。別建武學與文學相對。其用心於文武。則似矣。殊不知文武益歧不可復收合。而聖人之意大荒矣。備前國主池田氏。蓋有見於此。用其臣熊澤伯繼之議。新設學校合文武而爲一。我公每深嗟賞其通達國體。及建斯館。亦倣其美意。所以有文武不岐之戒。學者其可不服膺乎。
新字:文武不岐。臣彪謹案。神聖以武建基。而文亦固寓其中焉。猶夫西土三代之於忠質文。夏殷非無文。周豈廃忠質。而夏曰忠殷曰質周曰文。皆言其所向耳。天祖天孫之垂統。神武崇神諸帝之経綸天業。其尚武亡論已。然而其敬神愛民為政図治之迹。豈可不謂之文乎。聖子神孫世承其緒。内安万民外撫四夷。諸王諸臣亦皆文能附衆武能威敵。国運之盛赫赫如日之升也。中葉以降。将相異職。文武背馳。公卿軟弱手不知兵。源平互起。皇室陵夷。天下大権遂移於武人焉。夫文武之於国家。猶天地之有陰陽。陰陽並行而年穀豊饒。文武並挙而天下乂安。其不然者則反之。是故武人之為政。其質文教者或能致小康。専任威刑者亡不旋踵。至於東照宮撥文奮武以開今日之基。則在上君子固宜紹述其業。而凡天下之士。不可不黽勉従事於此也。蓋文武之道各有小大。経緯天地克定禍乱。是其大者也。読書挟冊撃剣奮矛。是其小者也。然書冊所以講道義。剣矛所以錬心胆。心胆実而後可以臨難制変。道義明而後可以脩己治人。且文之弊也弱。武可以矯弱。武之弊也愚。文可以医愚。然則学者語其大而急其小。固不可也。務其小而忘其大。亦不可也。分而為二。又廃其一。尤不可也。周代六芸之科。射御居其中。孔子曰。有文事者必有武備。冉求奮矛入斉軍。仲由以行三軍自許。則古之教人所以使其文武兼資成徳達材可知也。及至後世。大道湮晦。学校之設亦属文具。凡周旋黌舎者率皆白面書生。古所謂勇敢彊有力者。不甘屈首於其間。至李唐尊呂尚匹似孔子。別建武学与文学相対。其用心於文武。則似矣。殊不知文武益歧不可復収合。而聖人之意大荒矣。備前国主池田氏。蓋有見於此。用其臣熊沢伯継之議。新設学校合文武而為一。我公毎深嗟賞其通達国体。及建斯館。亦倣其美意。所以有文武不岐之戒。学者其可不服膺乎。
書き下し
文武岐れず。臣彪謹んで案ずるに、神聖は武を以て基を建て、而して文も亦固より其の中に寓す。猶ほ夫れ西土三代の忠質文に於けるがごとし。夏殷に文無きに非ず、周豈に忠質を廃せんや。而るに夏は忠、殷は質、周は文と曰ふは、皆其の向ふ所を言ふのみ。天祖天孫の統を垂れ、神武崇神諸帝の天業を経綸するは、其の武を尚ぶこと論ずる亡し。然れども其の神を敬ひ民を愛し、政を為し治を図るの迹、豈に之を文と謂はざるべけんや。聖子神孫世々其の緒を承け、内は万民を安んじ外は四夷を撫す。諸王諸臣も亦皆文は能く衆を附け、武は能く敵を威す。国運の盛んなること赫赫として日の升るが如し。中葉以降、将相職を異にし、文武背馳す。公卿軟弱にして手に兵を知らず、源平互ひに起こり、皇室陵夷し、天下の大権遂に武人に移る。夫れ文武の国家に於けるは、猶ほ天地の陰陽有るがごとし。陰陽並び行はれて年穀豊饒なり、文武並び挙げて天下乂安なり。其れ然らざる者は則ち反す。是の故に武人の政を為すや、其の文教を質す者は或いは小康を致すべし。専ら威刑に任ずる者は亡ぶること踵を旋らさず。東照宮に至りては文を撥め武を奮ひ、以て今日の基を開く。則ち上に在る君子は固より宜しく其の業を紹述すべし、而して凡そ天下の士は、黽勉して此に従事せざるべからず。蓋し文武の道には各小大有り。天地を経緯し克く禍乱を定むるは、是れ其の大なる者なり。書を読み冊を挟み、剣を撃ち矛を奮ふは、是れ其の小なる者なり。然れども書冊は道義を講ずる所以にして、剣矛は心胆を錬る所以なり。心胆実して後に以て難に臨み変を制すべく、道義明らかにして後に以て己を脩め人を治むべし。且つ文の弊は弱、武以て弱を矯むべし。武の弊は愚、文以て愚を医すべし。然らば則ち学者其の大を語りて其の小を急にするは、固より不可なり。其の小に務めて其の大を忘るるも、亦不可なり。分かちて二と為し、又其の一を廃するは、尤も不可なり。周代六芸の科、射御其の中に居る。孔子曰く、文事有る者は必ず武備有りと。冉求矛を奮ひて斉の軍に入り、仲由三軍を行ふを以て自ら許す。則ち古の人を教ふる所以は、其をして文武兼ね資り、徳を成し材を達せしむるなり、知るべし。後世に及び、大道湮晦し、学校の設けも亦文具に属す。凡そ黌舎に周旋する者は率ね皆白面の書生。古の所謂勇敢強有力なる者は、頭を其の間に屈するを甘んぜず。李唐に至りて呂尚を尊びて孔子に匹似せしめ、別に武学を建てて文学と相対す。其の文武に心を用ふるは則ち似たり。殊に知らず、文武益ます岐れて復た収合すべからず、而して聖人の意大いに荒るるを。備前国主池田氏、蓋し此に見る有り、其の臣熊沢伯継の議を用ひ、新たに学校を設けて文武を合して一と為す。我が公、毎に深く其の国体に通達するを嗟賞し、斯の館を建つるに及び、亦其の美意に倣ふ。文武岐れずの戒め有る所以なり。学者、其れ服膺せざるべけんや。
現代語訳
「文と武は分かれない」についてです。臣の彪が謹んで考えます。神聖な祖先は武によって基礎を築きましたが、文もその中に含まれていました。ちょうど中国の三代(夏・殷・周)が「忠・質・文」を尊んだのと同じです。夏に文がなかったわけではなく、周が忠や質を廃したわけでもありません。それなのに夏は忠、殷は質、周は文と言うのは、いずれもその向かう傾向を言ったにすぎません。天祖(天照大神)と天孫が統治を垂れ、神武天皇や崇神天皇など歴代の天皇が天業を治めたのは、武を尊んだことは言うまでもありません。しかし、神を敬い民を愛し、政治を行って治世をはかった事績を、文と呼ばずにいられるでしょうか。聖なる子孫が代々その事業を受け継ぎ、国内では万民を安んじ、外では周辺の異民族を従えました。諸王や諸臣も、文では人々を心服させ、武では敵を威圧できました。国の運勢の盛んなことは、燦々と昇る太陽のようでした。 中ごろの時代以降、将軍と宰相の職が分かれ、文と武が背き合いました。公家は軟弱で、手に武器の扱いを知らず、源氏と平氏が互いに起こり、皇室は衰え、天下の大権はついに武人に移りました。文武が国家にとって持つ意味は、天地における陰陽のようなものです。陰陽がともに働けば作物は豊かに実り、文武がともに挙がれば天下は治まります。そうでなければ逆になります。ゆえに武人が政治を行う場合、文教を重んじた者は小康(ほどほどの安定)を得られましたが、もっぱら威圧と刑罰に頼った者は、すぐに滅びました。東照宮(徳川家康)に至って、乱世を治めて文を興し武を奮い、今日の基礎を開きました。上にある君子はもとよりその事業を受け継ぐべきで、天下の士もみな努めてこれに従事しなければなりません。 文武の道にはそれぞれ大小があります。天地を経営し、禍乱をよく平定することが大きなほうです。書を読み冊を抱え、剣を撃ち矛を振るうことが小さなほうです。それでも、書物は道義を学ぶためのものであり、剣や矛は心と肝を鍛えるためのものです。心と肝が充実して初めて困難に臨み変事を制することができ、道義が明らかになって初めて自分を修め人を治めることができます。また文の弊害は弱さで、武はそれを矯めることができます。武の弊害は愚かさで、文はそれを治すことができます。ですから、学ぶ者が大きなことを語りながら小さなことを疎かにするのはもとより不可です。小さなことに努めて大きなことを忘れるのも不可です。二つに分けて、その一つを廃するのは最も不可です。周代の六芸の科目には、射(弓)と御(馬車)が含まれていました。孔子は「文事のある者は、必ず武の備えがある」と言いました。冉求は矛を振るって斉の軍に突入し、仲由(子路)は三軍を率いることを自任しました。古の人が教えた方法は、文武を兼ね備えさせて、徳を完成し才能を大成させることだったと分かります。 後世になると、大道が暗くなり、学校の設置も形式だけのものになりました。学舎を行き来する者はほとんどが色白の書生で、昔の言う勇敢で強く力のある者は、その間に頭を下げることを甘んじませんでした。唐に至って、呂尚(太公望)を尊んで孔子に匹敵させ、別に武学を建てて文学と対置しました。文武に心を用いたという点では似ていますが、文武がますます分かれて再び合わせられなくなり、聖人の意が大いに荒れたことは知られていません。備前の国主池田氏(池田光政)は、おそらくこの点に気づいて、家臣の熊沢伯継(熊沢蕃山)の提案を用いて、新たに学校を設け、文武を合わせて一つにしました。わが公(斉昭)は、いつもその国の体制に通じていることを深く賞賛しており、この館を建てるに及んでも、その美意に倣われました。「文武は分かれない」という戒めがあるのはそのためです。学ぶ者はこれを胸に刻まないでよいでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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