智囊 / 遠猶・商高宗
商高宗為太子時,其父小乙嘗使久居民間,與小民出入同事,以知其情。〔馮述評〕太祖教諭太子,必命備歷農家,觀其居處、服食、器用,使知農之勞苦。洪武末選秀才,隨春坊官分班入直,近前說民間利害等事。成祖巡行北京,使二皇長孫周行村落,歷觀農桑之事。諭教者宜以為法。
新字:商高宗為太子時,其父小乙嘗使久居民間,与小民出入同事,以知其情。〔馮述評〕太祖教諭太子,必命備歴農家,観其居処、服食、器用,使知農之労苦。洪武末選秀才,随春坊官分班入直,近前説民間利害等事。成祖巡行北京,使二皇長孫周行村落,歴観農桑之事。諭教者宜以為法。
書き下し
商の高宗、太子たりし時、其の父小乙、嘗て久しく民間に居らしめ、小民と出入して事を同じくし、以て其の情を知らしむ。〔馮述評〕太祖は太子を教諭するに、必ず命じて備に農家を歴せしめ、その居処・服食・器用を観て、農の労苦を知らしむ。洪武の末、秀才を選び、春坊の官に随いて班を分けて入直し、前に近づきて民間の利害等の事を説かしむ。成祖は北京を巡行するに、二皇長孫をして村落を周行せしめ、農桑の事を歴観せしむ。教諭する者は宜しく以て法と為すべし。
現代語訳
殷(商)の高宗は、まだ太子だったとき、父の小乙が、長いあいだ民間で暮らさせ、庶民と出入りして同じ仕事をさせ、そうして民の実情を知らせました。〔馮夢龍の評〕太祖(朱元璋)は太子を教え諭すとき、必ず農家を詳しく歴訪させ、その住まい、衣食、道具を見て、農民の苦労を知らせました。洪武の末年には、才能ある書生を選び、春坊(東宮の官署)の官吏に従って班に分かれて当直に入り、太子の前に近づいて民間の利害などを説かせました。成祖は北京を巡行するとき、二人の皇長孫に村落をめぐらせ、農作業と養蚕の様子をひととおり見せました。教え導く者は、これを手本にすべきです。
解説
この章句が説くこと
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史記 伯夷列伝夫れ学ぶ者には載籍(書籍)極めて博きも、猶ほ信を六芸に考ふべし。詩・書は缺くると雖も、然れども虞・夏の文は知る可きなり。尭の将に位を遜らんとするや、虞舜に譲り、舜・禹の間は、岳牧咸な薦めて、乃ち之を位に試み、職を典ること数十年、功用既に興り、然る後に政を授く。天下は重器たる、王者の大統たる、天下を伝ふるの斯くの如く之れ難きを示せるなり。而るに説く者は曰く、尭、天下を許由に譲るも、許由は受けず、之を恥ぢて逃げ隠る。夏の時に及びて、卞随・務光なる者有り。此れ何を以てか称す。太史公曰く、余、箕山に登りしに、其の上に蓋し許由の冢有り、と云ふ。孔子、古の仁聖賢人を序列して、呉の太伯・伯夷の倫の如きは詳らかにす。余以へらく、聞く所の由・光の義は至高なるに、其の文辞の少しくも概見せざるは、何ぞや。
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『智囊』迎刃・費宏・胡世寧鋳印局には額設の大使・副使が各一員、食糧の儒士が二名。任期が満ちると、補欠の投考を願う者は数千に下らず、請託する者がその半ばを占め、当事者は処置に難渋することが常であった。費宏は吏部尚書となると、食糧二名のほかに、あらかじめ欠を聴く者四人、習字の者四人を取り、次第に補う予定とし、十数年を越えると見積もった。これにより投考および請託の者は皆跡を絶った。土官の世及は、そのたびに転展して結勘し、土官に賂を索めたので、土官はこれを以て怨み叛き、中朝の諸人を軽んじた。胡公世寧は、土官に子が生まれれば、すぐ府に聞かせ、子弟で世及に当たる者が年十歳ばかりとなれば、朔望に事が有って調集するたびに、皆これを携えて太守に見えさせ、太守がその年数と状貌を識して書き付けた。父兄に故が有れば、籍に按じて朝に官を請う。土官は大いに悦服した。〔馮述評〕臨時の結勘の煩わしさを省くのみならず、土官に幼い頃から太守の約束に習わせ、次第にその桀驁の気を消す。まことに良策である。
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葉隠・聞書第一若年の時の御守が、御家(おいえ)の様子、御先祖様(ごせんぞさま)御心入(おこころい)れなど、篤(とく)と御合点(ごがってん)遊ばされ候様に仕(つかまつ)りたき事に付きて、その時分(じぶん)に、殿の御心入れをよく仕(し)直し、御誤なき様に仕る人が大忠節にて候。御守が大事にて候。
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