智囊 / 辯才・觸龍
左師曰:「今三世以前,至於趙王之子孫為侯者,其繼有在者乎?」曰:「無有。」曰:「此其近者禍及身,遠者及其子孫,豈人主之子,侯則不善!位尊而無功,奉厚而無勞,而挾重器多也。今媼尊長安之位,封以膏腴之地,多與之重器,而不及今令有功於趙,一旦山陵崩,長安君何以自托於趙哉?」太后曰:「諾,恣君之所使之。」於是為長安君約車百乘,質於齊。齊師乃出,秦師退。
新字:左師曰:「今三世以前,至於趙王之子孫為侯者,其継有在者乎?」曰:「無有。」曰:「此其近者禍及身,遠者及其子孫,豈人主之子,侯則不善!位尊而無功,奉厚而無労,而挟重器多也。今媼尊長安之位,封以膏腴之地,多与之重器,而不及今令有功於趙,一旦山陵崩,長安君何以自托於趙哉?」太后曰:「諾,恣君之所使之。」於是為長安君約車百乗,質於斉。斉師乃出,秦師退。
書き下し
左師曰く、「今より三世以前、趙王の子孫の侯と為る者に至るまで、其の継ぎて在る者有るか」。曰く、「有ること無し」。曰く、「此れ近き者は禍身に及び、遠き者は其の子孫に及ぶ。豈に人主の子、侯なれば則ち不善ならんや。位尊くして功無く、奉厚くして労無く、而して重器を挟むこと多ければなり。今、媼は長安の位を尊くし、封ずるに膏腴の地を以てし、多く之に重器を与えて、今功を趙に有らしむるに及ばず。一旦山陵崩ぜば、長安君は何を以て自ら趙に托せんや」。太后曰く、「諾。君の使する所に恣にせよ」。是に於いて長安君の為に車百乗を約し、斉に質たらしむ。斉の師乃ち出で、秦の師退く。
現代語訳
左師は言いました。「いまから三代前までさかのぼり、趙王の子孫で侯になった者のうち、その位を継いで残っている者はおりますか。」太后は「ありません」と答えました。左師は言いました。「近い者は禍が身に及び、遠い者は子孫に及んでいます。王の子が侯になれば必ず悪いということではありません。位が高いのに功がなく、俸禄が厚いのに働きがなく、貴重な宝を多くもっているからです。いま太后は長安君の地位を尊くし、肥えた土地を封じ、多くの宝を与えながら、いま趙に功をたてさせようとなさいません。いつか太后が亡くなられたとき、長安君は何を頼りに趙で身を立てるのでしょうか。」太后は「分かりました。あなたの思うままにさせましょう」と言いました。そこで長安君のために車百乗を用意し、斉へ人質に出しました。斉の軍はそこで出動し、秦の軍は退きました。
解説
この章句が説くこと
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