弘道館記述義 / 館の設け・史館を学校に移し文武を一つにする
卒萃於史館。然執政諸有司亦皆讀書講道。其事蹟往往有足稱述者。及近世巨室世家或目不識一丁。其任史職者。非窶人遊倅則無由仕進者。則迂闊不才不得推擇。爲吏者。侍講伴讀僅供故事。文學之衰已甚。文武二公勵精圖治。於是有名之士渟然輩出。史館之盛殆有復古之勢。然斯道業已爲史臣餘業。是以胥吏俗士遂視史館爲學校。自史臣以儒者。義公之志荒矣。其講武技者皆華法兒戯。不適實用。流派日分敎師滋衆。區區比較短長於門戶之中。其弊亦已甚。我公始就國。察文武之衰弊。乃慨然有興學之志。然衆議紛紜意見各異。公亦不輕決。深思熟慮者凡六七年。施設之方旣具於胸中。及就國遂起其功。乃徙史館於學。又令國中武伎流派相近者合而一之。凡自皇朝典故經史子集絃歌雅樂以至鍊兵敎卒之法。弓馬槍劍之伎。必皆統於學。其大要以合文武治敎爲務。而歸諸忠孝之大義。蓋義公之脩史。公之興學。易地則同矣。抑夫祀建御雷神者何。以其亮天功於草昧。留威靈於茲土。欲原其始報其本使民知斯道之所繇來也。
新字:卒萃於史館。然執政諸有司亦皆読書講道。其事跡往往有足称述者。及近世巨室世家或目不識一丁。其任史職者。非窶人遊倅則無由仕進者。則迂闊不才不得推択。為吏者。侍講伴読僅供故事。文学之衰已甚。文武二公励精図治。於是有名之士渟然輩出。史館之盛殆有復古之勢。然斯道業已為史臣余業。是以胥吏俗士遂視史館為学校。自史臣以儒者。義公之志荒矣。其講武技者皆華法児戯。不適実用。流派日分教師滋衆。区区比較短長於門戸之中。其弊亦已甚。我公始就国。察文武之衰弊。乃慨然有興学之志。然衆議紛紜意見各異。公亦不軽決。深思熟慮者凡六七年。施設之方既具於胸中。及就国遂起其功。乃徙史館於学。又令国中武伎流派相近者合而一之。凡自皇朝典故経史子集絃歌雅楽以至錬兵教卒之法。弓馬槍剣之伎。必皆統於学。其大要以合文武治教為務。而帰諸忠孝之大義。蓋義公之脩史。公之興学。易地則同矣。抑夫祀建御雷神者何。以其亮天功於草昧。留威霊於茲土。欲原其始報其本使民知斯道之所繇来也。
書き下し
悉く史館に萃まる。然れども執政諸有司も亦皆書を読み道を講ず。其の事蹟、往往にして称述するに足る者有り。近世に及びて巨室世家は或いは目に一丁字を識らず。其の史職に任ずる者は、窶人遊倅に非ざれば則ち仕進する由無き者なり。則ち迂闊不才推擇を得ず。吏と為る者、侍講伴読は僅かに故事に供するのみ。文学の衰へ已に甚だし。文・武二公精を励まして治を図り、是に於いて名有るの士渟然として輩出す。史館の盛んなること殆ど復古の勢ひ有り。然れども斯の道は業已に史臣の餘業と為る。是を以て胥吏俗士遂に史館を視て学校と為し、史臣より以て儒者とす。義公の志荒れたり。其の武技を講ずる者は皆華法児戯にして、実用に適せず。流派日に分かれ教師滋ます衆く、区区として短長を門戸の中に比較す。其の弊も亦已に甚だし。我が公始めて国に就きて、文武の衰弊を察し、乃ち慨然として学を興すの志有り。然れども衆議紛紜として意見各異なり。公も亦軽々しく決せず。深思熟慮する者凡そ六七年。施設の方既に胸中に具はり、国に就くに及びて遂に其の功を起こす。乃ち史館を学に徙し、又国中の武伎の流派相近き者をして合して一にせしむ。凡そ皇朝の典故、経史子集、絃歌雅楽より以て兵を練り卒を教ふるの法、弓馬槍剣の伎に至るまで、必ず皆学に統ぶ。其の大要は文武治教を合するを以て務めと為し、而して忠孝の大義に帰す。蓋し義公の史を修むると、公の学を興すと、地を易ふれば則ち同じ。抑も夫れ建御雷神を祀るは何ぞ。其の天功を草昧に亮け、威霊を茲の土に留むるを以てなり。其の始めを原ね其の本に報い、民をして斯の道の繇りて来る所を知らしめんと欲するなり。
現代語訳
(当時の文学の士は)ことごとく史館に集まりました。しかし執政をはじめ諸役人もみな書を読み、道を講じていて、その事績には称えるに足るものがしばしばありました。ところが近ごろになると、名家や旧家の中には一文字も読めない者さえいて、史館の職に就く者は、貧しい遊び人でなければ出仕の道がない者になりました。そうなると、世間知らずで才のない者が選ばれる始末で、役人となる者の侍講や伴読(学問の相手役)も、ほんの形式にすぎなくなりました。文学の衰えはすでにひどいものでした。文公と武公の二公が力を尽くして政治を整えたので、名のある士がしっとりと次々に現れ、史館の盛んなことは、ほとんど昔の盛時を取り戻す勢いでした。しかし、その学問の道はもともと史臣の余業(本業のかたわらの仕事)にすぎません。そのため下役人や俗物たちは、史館を学校と見なし、史臣を儒者と見なすようになりました。これでは義公の志が荒れてしまいます。武芸を講じる者たちも、みな見かけ倒しの型や子供の遊びのようなもので、実用に合いません。流派は日々分かれ、教師はますます増え、小さな門戸の内で優劣を比べ合っています。その弊害もすでにひどいものでした。 わが主君(斉昭公)は、初めて領国に入られて文武の衰えと弊害を察し、嘆いて学校を興す志を立てられました。しかし議論は入り乱れて意見はまちまちで、公もまた軽々しくは決めず、深く考えること六、七年に及びました。施設を整える方法がすでに胸中に備わり、領国に入るに及んで、ついに事業を起こされました。まず史館を学校に移し、また領内の武芸の流派で近いものを合わせて一つにさせました。そして、わが国の典故(先例や故事)、経・史・子・集(漢籍の四部)、弦楽や雅楽、さらに兵を訓練し兵卒を教える方法、弓・馬・槍・剣の技に至るまで、必ず学校のもとに統べ、その大要は文武と治教(政治と教育)を一つにすることを務めとして、忠孝の大義に帰着させました。思うに、義公が史書を編むことと、公が学校を興すことは、立場を入れ替えれば同じことなのです。 それにしても、建御雷神を祀るのはなぜでしょうか。それは、神が天の事業を草創の混沌の中で助け、その威霊をこの土地に留めておられるからです。その始まりを尋ね、大本に報い、民にこの道がどこから来たのかを知らせようとするのです。
解説
この章句が説くこと
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