弘道館記述義 / 館の設け・義公が学校を設けなかった理由
此則館之所以爲設也。臣彪謹案。慶元建櫜文運日開。列國諸侯設學校於城邑。敎育子弟者不遑枚擧。我水藩前有威義二公建其基。後有文武二公修其緒。而學校之設獨無聞者亦有以也。昔者朱之瑜來自明國也。義公聘之爲師。嘗使臣僚就之習釋奠等儀節。又命梓人受其口授。摸闕里之制。凡自殿堂廊廡以至門牆器物。皆約而刻其樣。(享和中文恭公大脩昌平坂聖舍。而大成殿之制。專依我藩所藏木樣云。)當時公有大起國學之志。而不果。蓋其意謂道者人之所當學。而世或視爲儒者私業。我之廢儒員。欲使人人爲儒也。國學之設欲大其規制。合之於政。則非朝夕所辦。若不然則人遂以一精舍目之。無益於敎有害於治。不如使家誦戶讀之爲愈也。此其所以有志而不果也。學問之道。尋常有司之所忌。財用之出□□胥吏之所不欲。乃諉曰以義公之尙文猶不設學。後嗣何敢違之。况今各國旣着先鞭。而我倣之不亦晩乎。此後世之所以不設學也。然則義公之不設學恐道之或廢也。後世之不設學恐道之或興也。抑義公銳意於脩史。故當時文學之士。
新字:此則館之所以為設也。臣彪謹案。慶元建櫜文運日開。列国諸侯設学校於城邑。教育子弟者不遑枚挙。我水藩前有威義二公建其基。後有文武二公修其緒。而学校之設独無聞者亦有以也。昔者朱之瑜来自明国也。義公聘之為師。嘗使臣僚就之習釈奠等儀節。又命梓人受其口授。摸闕里之制。凡自殿堂廊廡以至門牆器物。皆約而刻其様。(享和中文恭公大脩昌平坂聖舎。而大成殿之制。専依我藩所蔵木様云。)当時公有大起国学之志。而不果。蓋其意謂道者人之所当学。而世或視為儒者私業。我之廃儒員。欲使人人為儒也。国学之設欲大其規制。合之於政。則非朝夕所辦。若不然則人遂以一精舎目之。無益於教有害於治。不如使家誦戸読之為愈也。此其所以有志而不果也。学問之道。尋常有司之所忌。財用之出□□胥吏之所不欲。乃諉曰以義公之尚文猶不設学。後嗣何敢違之。況今各国既着先鞭。而我倣之不亦晩乎。此後世之所以不設学也。然則義公之不設学恐道之或廃也。後世之不設学恐道之或興也。抑義公鋭意於脩史。故当時文学之士。
書き下し
此れ則ち館の設けらるる所以なり。臣彪謹んで案ずるに、慶元櫜を建て文運日に開け、列国の諸侯、学校を城邑に設け、子弟を教育する者、枚挙に遑あらず。我が水藩、前に威・義二公有りて其の基を建て、後に文・武二公有りて其の緒を修む。而るに学校の設け独り聞くこと無き者は、亦以有るなり。昔者朱之瑜、明国より来るや、義公聘して師と為す。嘗て臣僚をして就きて釈奠等の儀節を習はしむ。又梓人に命じて其の口授を受け、闕里の制を摸せしむ。凡そ殿堂廊廡より以て門牆器物に至るまで、皆約して其の様を刻む。(享和中、文恭公大いに昌平坂の聖舎を修む。而して大成殿の制は、専ら我が藩の蔵する所の木様に依ると云ふ。)当時公、大いに国学を起こすの志有りて果たさず。蓋し其の意に謂へらく、道は人の当に学ぶべき所にして、世或いは視て儒者の私業と為す。我の儒員を廃するは、人人をして儒たらしめんと欲すればなり。国学の設け、其の規制を大にし、之を政に合せんと欲すれば、則ち朝夕の辦ずる所に非ず。若し然らずんば則ち人遂に一精舎を以て目さん。教へに益無く治に害有り。家ごとに誦し戸ごとに読ましむるの愈れりと為すに如かず。此れ其の志有りて果たさざる所以なり。学問の道は、尋常有司の忌む所。財用の出□□胥吏の所不欲。乃ち諉りて曰く、義公の文を尚ぶを以てすら猶ほ学を設けず、後嗣何ぞ敢へて之に違はんやと。況んや今各国既に先鞭を着く、而して我之に倣ふは、亦晩からずや。此れ後世の学を設けざる所以なり。然らば則ち義公の学を設けざるは道の或いは廃せんことを恐るればなり、後世の学を設けざるは道の或いは興らんことを恐るればなり。抑も義公は意を修史に鋭くす。故に当時文学の士、
現代語訳
これが、弘道館が設けられた理由です。臣の彪が謹んで考えます。慶長・元和のころに戦乱が収まって(武器を袋に収めて)学問の気運が日ごとに開け、諸国の大名は城下に学校を設けて子弟を教育し、その数は数えきれないほどでした。わが水戸藩には、先に威公(頼房)と義公(光圀)の二公が基礎を築き、後に文公(治紀)と武公(斉昭)の二公がその事業を受け継いで整えました。それなのに、学校を設けたという話だけが聞かれないのには、理由があります。 昔、朱之瑜(朱舜水)が明の国から来ると、義公は招いて師としました。家臣たちに朱之瑜のもとで、釈奠(孔子を祭る儀式)などの作法を習わせました。また大工に命じて朱之瑜の口述を受けさせ、孔子の郷里(闕里)の廟の制度を模させました。殿堂や廊下から、門や垣根、器物に至るまで、すべて縮小してその形を刻んで作らせました(享和年間に文恭公〈林述斎〉が昌平坂の聖堂を大修築したとき、大成殿の制は専ら私たちの藩が所蔵する木製の雛形によったと言います)。当時、義公には大いに国学(藩の学校)を起こす志がありましたが、果たせませんでした。思うに、義公の考えはこうでした。道は人が誰でも学ぶべきものなのに、世間ではこれを儒者の私的な職業と見なしている。自分が儒員の役を置かないのは、人々みなに儒者のように学ばせたいからである。国学を設けて規模を大きくし、政治と結びつけようとするなら、一朝一夕でできることではない。そうでなければ、人々は結局それを一つの学舎としか見ず、教えには益がなく、政治には害がある。それよりは、家々が誦し戸ごとに読むようにさせるほうがよい。これが、志がありながら果たさなかった理由です。 学問の道は、ふつう役人が嫌うものです。費用を出すことについても(底本で判読できない字)、下役人が望まないところです。そこで言い訳をして、「義公は文を尊んだのに、それでも学校を設けなかった。後継ぎがどうして逆らえようか」と言い、まして「今では諸国がすでに先んじている。いまさら真似るのは遅いではないか」と言います。これが後の世に学校を設けなかった理由です。つまり、義公が学校を設けなかったのは道が廃れることを恐れたからで、後世が学校を設けなかったのは道が興ることを恐れたからなのです。さらに義公は修史の事業に力を注ぎました。そのため当時の文学の士は、
解説
この章句が説くこと
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