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講孟余話 / 萬章下 首章

然トモ是レ吾徒小人知行偏廃ノ弊ヲ言ノミ、其實ハ知ニシテ行ヲ廃スルハ眞ノ知ニ非ス、行ニシテ知ヲ廃スルハ実ノ行ニ非ス、故ニ知行二ツニシテ一ツ、而シテ先後亦相待テ濟スコトアルナリ、抑伯夷伊尹柳下惠ノ力アリテ巧ヲ闕クト云者ハ、淺近ノ論ニ非ス、孔子ノ巧力倶ニ全キヲ以テ是ヲ比シテ、初テ其少シキ闕アルヲミルノミ、孔門ノ諸子、顏淵閔子冉牛ノ具体而微ナル如キ、巧ニシテ力足ラスト言ヘシ、子夏子游子張ノ一体ヲ具スル如キ力アリテ巧足ラスト言フヘシ、後ノ道ヲ学フ者、孔子ヲ以テ宗トスレハ、巧力倶ニ至リ、知行兼子進ムヘキハ勿論ナレトモ、前輩ヲ論及ヒ人材ヲ育スル如キハ、妄ニ是ヲ以テ衆人ヲ律スルコトナカレ、人各能アリ不能アリ

新字:然トモ是レ吾徒小人知行偏廃ノ弊ヲ言ノミ、其実ハ知ニシテ行ヲ廃スルハ真ノ知ニ非ス、行ニシテ知ヲ廃スルハ実ノ行ニ非ス、故ニ知行二ツニシテ一ツ、而シテ先後亦相待テ済スコトアルナリ、抑伯夷伊尹柳下恵ノ力アリテ巧ヲ闕クト云者ハ、浅近ノ論ニ非ス、孔子ノ巧力倶ニ全キヲ以テ是ヲ比シテ、初テ其少シキ闕アルヲミルノミ、孔門ノ諸子、顔淵閔子冉牛ノ具体而微ナル如キ、巧ニシテ力足ラスト言ヘシ、子夏子游子張ノ一体ヲ具スル如キ力アリテ巧足ラスト言フヘシ、後ノ道ヲ学フ者、孔子ヲ以テ宗トスレハ、巧力倶ニ至リ、知行兼子進ムヘキハ勿論ナレトモ、前輩ヲ論及ヒ人材ヲ育スル如キハ、妄ニ是ヲ以テ衆人ヲ律スルコトナカレ、人各能アリ不能アリ

書き下し

然れども是れ吾が徒小人の知行偏廃の弊を言ふのみ。其の実は知にして行を廃するは真の知に非ず、行にして知を廃するは実の行に非ず。故に知行二つにして一つ、而して先後亦相待ちて済すことあるなり。抑々伯夷・伊尹・柳下恵の力ありて巧を闕くと云ふ者は、浅近の論に非ず。孔子の巧力倶に全きを以て是に比して、初めて其の少しき闕あるを見るのみ。孔門の諸子、顔淵・閔子・冉牛の「体を具へて微なる」如き、巧にして力足らずと言ふべし。子夏・子游・子張の「一体を具ふる」如き、力ありて巧足らずと言ふべし。後の道を学ぶ者、孔子を以て宗とすれば、巧力倶に至り、知行兼ね進むべきは勿論なれども、前輩を論じ及び人材を育する如きは、妄りに是を以て衆人を律することなかれ。人各々能あり不能あり。

現代語訳

しかし、これは私たちのような小人が知と行の一方を捨ててしまう弊害について言ったまでである。本当のところは、知っていて行わないのは真の知ではなく、行っていて知らないのは本当の行ではない。だから知と行は二つであって一つであり、そのうえで先と後が互いに助け合って事が成るのである。そもそも伯夷・伊尹・柳下恵は力があって技に欠けると孟子が言うのは、浅い論ではない。技と力をともに完全に備えた孔子と比べて、はじめてわずかな欠けが見えるにすぎない。孔子の門人では、顔淵・閔子騫・冉伯牛のように「聖人の全体を備えているが小さい」人は、技はあるが力が足りないと言え、子夏・子游・子張のように「聖人の一部分を備えた」人は、力はあるが技が足りないと言える。後世に道を学ぶ者は、孔子を手本とするなら技と力をともに極め、知と行をともに進めるべきなのは言うまでもない。しかし先人を論じたり人材を育てたりするときには、むやみにこの基準で多くの人を裁いてはならない。人にはそれぞれできることとできないことがある。

解説

前半で知と行の順序を説いた松陰は、ここで一歩引きます。知って行わないのは真の知ではなく、知らずに行うのは本当の行ではないから、結局は二つで一つなのだ、と。そのうえで、伯夷や伊尹に欠けがあると言っても、それは孔子という完全な基準に照らした話にすぎないと注意します。顔淵らは技に、子夏らは力に長じていた。人を育てる者は、自分には高い基準を課しても、他人を同じ物差しで裁いてはならない。「人各々能あり不能あり」は、門人一人ひとりの長所を見て教えた松陰の教育観そのものです。

この章句が説くこと

人材育成適材知行長所教育

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