弘道館記述義 / 明倫正名・大日本史に込めた倫を明らかにする志
明倫正名。以藩屏於國家。臣彪謹案。義公旣以孝弟事父兄。友愛諸弟。整肅閨門。其所以明倫理者至矣。其於正名之義又深致意焉。蓋公生於建櫜之後。而大猷公方紹述先志。霸業益隆。天下之事莫復足患者。但戰國餘習未盡除。尊王之道正名之義。猶或闕焉。苟非明其道義以植風敎。則安知異日反亂之徒。不復籍口於北條足利。此公之所深慮。而脩史之業。所以篤自任也。其著作纂述不可勝數。而大日本史之作。尤爲不朽大典。其體裁筆削。必親與諸臣反覆商權。歸諸至當。一生用心半在此書。於是皇統之正閏。人臣之忠奸。照然明白。不復容疑矣。公嘗與尾紀二公在幕府。適有撰一史請刊行者。公繙閱至於以吳太伯爲神州始祖。大駭曰此說出於異邦附會之妄。我正所無。昔後醍醐帝時。有一妖僧倡斯說。詔焚其書。方今文明之世。豈可使有此怪事。宜命速削之。二公左祖其議。遂停刊行。公又欽建武昌平間。忠義之士。聞其支流餘裔有沈淪諸州者。往往招致優其禮遇。又嘗爲楠子建碑於攝之湊河。買田附之永資香火。居常存心於忠敬。至老不懈。故事天使至於三藩之邸。則遣使謝之。公謂不敬莫大焉。乃親往旅館謝其辱。親王大臣臨邸亦必如之。每歲元旦設席於地。宿齋戒夙朝而下。西向遙拜天闕。其儀尤謹。至今爲恒例。初大日本史粗就緒。公憚朝廷不敢命名史。稿視之。肅公以下世繼其志。校訂不怠。文公恐其久或傳訛。欲上諸梓。更命史臣刊誤補闕。至於武公。因關白藤公請之。朝議允焉。大日本史之名始出於世。乃命工鏤刻。先裝其成者。上表獻之。光格帝喜歎不已。命藤公傳勅褒之。其後二十餘年。今上追錄公之功。詔贈從二位權大納言。實天保三年壬辰五月。而距公薨一百三十有五年矣。爾來百數十年。世承遺緒。沐浴恩澤。以至今日。則苟爲臣子者。豈可弗思所以推弘斯道發揚先德乎。
新字:明倫正名。以藩屏於国家。臣彪謹案。義公既以孝弟事父兄。友愛諸弟。整粛閨門。其所以明倫理者至矣。其於正名之義又深致意焉。蓋公生於建櫜之後。而大猷公方紹述先志。覇業益隆。天下之事莫復足患者。但戦国余習未尽除。尊王之道正名之義。猶或闕焉。苟非明其道義以植風教。則安知異日反乱之徒。不復籍口於北条足利。此公之所深慮。而脩史之業。所以篤自任也。其著作纂述不可勝数。而大日本史之作。尤為不朽大典。其体裁筆削。必親与諸臣反覆商権。帰諸至当。一生用心半在此書。於是皇統之正閏。人臣之忠奸。照然明白。不復容疑矣。公嘗与尾紀二公在幕府。適有撰一史請刊行者。公繙閲至於以呉太伯為神州始祖。大駭曰此説出於異邦附会之妄。我正所無。昔後醍醐帝時。有一妖僧倡斯説。詔焚其書。方今文明之世。豈可使有此怪事。宜命速削之。二公左祖其議。遂停刊行。公又欽建武昌平間。忠義之士。聞其支流余裔有沈淪諸州者。往往招致優其礼遇。又嘗為楠子建碑於摂之湊河。買田附之永資香火。居常存心於忠敬。至老不懈。故事天使至於三藩之邸。則遣使謝之。公謂不敬莫大焉。乃親往旅館謝其辱。親王大臣臨邸亦必如之。毎歳元旦設席於地。宿斎戒夙朝而下。西向遥拝天闕。其儀尤謹。至今為恒例。初大日本史粗就緒。公憚朝廷不敢命名史。稿視之。粛公以下世継其志。校訂不怠。文公恐其久或伝訛。欲上諸梓。更命史臣刊誤補闕。至於武公。因関白藤公請之。朝議允焉。大日本史之名始出於世。乃命工鏤刻。先装其成者。上表献之。光格帝喜嘆不已。命藤公伝勅褒之。其後二十余年。今上追録公之功。詔贈従二位権大納言。実天保三年壬辰五月。而距公薨一百三十有五年矣。爾来百数十年。世承遺緒。沐浴恩沢。以至今日。則苟為臣子者。豈可弗思所以推弘斯道発揚先徳乎。
書き下し
倫を明らかにし名を正し、以て国家に藩屏す。臣彪謹んで案ずるに、義公既に孝弟を以て父兄に事へ、諸弟に友愛し、閨門を整粛す。其の倫理を明らかにする所以の者至れり。其の正名の義に於ても又深く意を致せり。蓋し公は建櫜の後に生まれ、大猷公方に先志を紹述し、覇業益々隆んにして、天下の事復た患ふるに足る者莫し。但だ戦国の余習未だ尽くは除かず、尊王の道、正名の義、猶ほ或いは闕く。苟くも其の道義を明らかにして以て風教を植うるに非ずんば、則ち安んぞ異日反乱の徒、復た口を北条・足利に籍らざるを知らんや。此れ公の深く慮る所にして、修史の業の篤く自ら任ずる所以なり。其の著作纂述、勝げて数ふべからず。而して大日本史の作は、尤も不朽の大典たり。其の体裁筆削は、必ず親ら諸臣と反覆商榷し、諸を至当に帰す。一生の用心半ば此の書に在り。是に於て皇統の正閏、人臣の忠奸、照然として明白、復た疑ひを容れず。公嘗て尾紀二公と幕府に在り。適々一史を撰して刊行を請ふ者有り。公繙閲して、呉の太伯を以て神州の始祖と為すに至り、大いに駭きて曰く、此の説は異邦附会の妄に出づ。我が正の所無し。昔後醍醐帝の時、一妖僧有りて斯の説を倡ふ。詔して其の書を焚く。方今文明の世、豈に斯の怪事有らしむべけんや。宜しく命じて速やかに之を削らしむべしと。二公其の議に左袒し、遂に刊行を停む。公又建武・昌平の間の忠義の士の、其の支流の餘裔の諸州に沈淪する者有るを聞き、往往にして招致し其の礼遇を優にす。又嘗て楠子の為に碑を摂の湊川に建て、田を買ひて之に附し、永く香火に資す。居常心を忠敬に存して、老に至るまで懈らず。故事、天使の三藩の邸に至れば、則ち使を遣はして之を謝す。公謂ふ、不敬大なるは莫しと。乃ち親ら旅館に往きて其の辱を謝す。親王大臣の邸に臨むも亦必ず之の如し。毎歳元旦席を地に設け、宿して斎戒し夙朝に下り、西向して遥かに天闕を拝す。其の儀尤も謹めり。今に至るまで恒例と為す。初め大日本史粗ぼ緒に就く。公朝廷を憚りて敢へて史に名づけず。稿と称して之を視る。粛公以下世々其の志を継ぎ、校訂怠らず。文公其の久しくして或いは伝訛せんことを恐れ、諸を梓に上さんと欲す。更に史臣に命じて誤りを刊り闕を補はしむ。武公に至りて、関白藤公に因りて之を請ふ。朝議允す。大日本史の名始めて世に出づ。乃ち工に命じて鏤刻し、先づ其の成れる者を装し、表を上りて之を献ず。光格帝喜歎已まず、藤公に命じて勅を伝へて之を褒む。其の後二十余年、今上公の功を追録し、詔して従二位権大納言を贈る。実に天保三年壬辰五月なり。公の薨ずるより距たること一百三十有五年なり。爾来百数十年、世々遺緒を承け、恩沢に沐浴して以て今日に至る。則ち苟くも臣子たる者、豈に斯の道を推弘し先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。
現代語訳
「人倫を明らかにし名分を正して、国家の守りとなった。」臣の彪が謹んで考えますに、義公は孝悌をもって父や兄に仕え、弟たちに友愛を尽くし、家庭を整え引き締めました。人倫を明らかにすることは至っていました。名分を正すという義にも、深く心を配りました。思うに、公は戦乱が収まった後に生まれ、大猷公(徳川家光)がちょうど先代の志を受け継ぎ、覇業がますます盛んで、天下の事に憂うべきことがなくなっていました。ただ戦国の習いがまだ除き尽くされておらず、尊王の道や正名の義がなお欠けていました。もしその道義を明らかにして風俗と教化を植えつけないなら、将来、反乱の徒がまた北条や足利を口実にしないとどうして分かるでしょうか。これが公の深く憂慮したことで、修史の事業を篤く自分の任とした理由です。その著作や編纂は数え切れませんが、大日本史の作成は、不朽の大典です。その体裁と取捨は、必ず自ら諸臣と繰り返し検討し、最も適切なところに落ち着けました。生涯の心遣いの半ばは、この書にありました。こうして皇統の正閏、臣下の忠と奸は、明らかではっきりし、もはや疑いを入れる余地がなくなりました。公はあるとき尾張・紀伊の二公と幕府におりました。ちょうど一つの史書を撰して刊行を願い出た者がありました。公はそれを開いて見て、呉の太伯を日本の始祖とする箇所に至り、大いに驚いて言いました。この説は異国への牽強付会の妄説から出たものだ。わが国の正史にはない。昔、後醍醐帝のとき、ある妖僧がこの説を唱えた。詔して、その書を焼いた。いまは文明の世であるのに、どうしてこのような怪事を許してよいだろうか。速やかに削らせるべきだ、と。二公もその議に賛成し、ついに刊行は中止されました。公はまた、建武・昌平の間の忠義の士の子孫で、諸国に埋もれている者がいると聞くと、しばしば招いて手厚く礼遇しました。また楠子(楠木正成)のために摂津の湊川に碑を建て、田を買ってこれに付け、永く香火の費用に充てました。常日頃から心を忠と敬に置いて、老いるまで怠りませんでした。慣例として、天子の使者が三藩の邸に来たときは、使いを遣わして礼を述べるものでした。公は、不敬はこれより大きいものはないと言って、自ら宿舎を訪ねてその労をねぎらい謝しました。親王や大臣が邸に臨んだときも、必ずそのようにしました。毎年元旦には、席を地面に設け、前夜から斎戒し、早朝に降りて、西に向かって遠く宮闕を拝みました。その儀式は極めて慎重なものでした。今に至るまで恒例となっています。当初、大日本史がおおよその形になりました。公は朝廷を憚って、史書に名をつけず、「稿」と称して見ていました。粛公以下は代々その志を継ぎ、校訂を怠りませんでした。文公は、長い年月のうちに伝わりが誤るのを恐れ、これを版木に彫ろうとしました。さらに史臣に命じて、誤りを正し欠けを補わせました。武公に至って、関白藤公を通じてこれを願い出ました。朝廷の議は許可しました。大日本史の名がはじめて世に出ました。そこで職人に命じて版を彫らせ、まず完成した部分を装丁し、上表文を添えてこれを献上しました。光格天皇は喜び感嘆して止まず、藤公に命じて勅を伝え、これをほめました。その後二十余年、今上天皇は公の功績を追って記録し、詔して従二位権大納言を贈りました。まさに天保三年壬辰の年五月でした。公が亡くなってから百三十五年です。それ以来百数十年、代々遺された緒を受け継ぎ、恩沢に浴して、今日に至っています。そうであれば、臣子たる者は、この道を押し広め、先徳を発揚する方法を考えずにいられるでしょうか。
解説
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