おもひで草 / 君臣名義・陪臣の名義をめぐる柴野彦助の逸話
世人既くより實なき唐山の書にのみ讀耽りて、皇國君臣の大義を忘れたるが故に、彼北條足利などいへる奴の忌々しき大事は起しゝなり、今は昔常陸國領しゝ殿に西山公といへる在して、太く逞しき大和魂を振興し、厚く神祇を敬ひ深く朝廷を重じつゝ、大日本史てふ大相なる御典等を著し給ひて、世に許されませる名將なりしかど、尙此名義をふとしも忘れましゝにや、將軍家臣傳など記させ給ひしは彼卿の和魂確なるに併せてはいと心得がたき一節なりけり、去し文政といふ年の頃幕府の儒士に柴野彦助といへる男あり、それが大和國の國形見にものしける時、畝火山の東北なる神武天皇の御陵に詣でゝ、其所にて作りし詩を、かへりて後幕府に奉りけるに陪臣柴彦助と書せるを見咎め給て、いたうふづくませ給ひしを、奧州白河の殿御前に候らはして、畏けれど天皇命に對ひ奉りては己等も正しく陪臣にて侍り、况て彦助がごとき者をやと、啓させしかば、やがて諾かせ給ひしとぞ、白河の殿も彦助もよく君臣の名義を知れる人也、其時の幕府は後に文恭院殿とおくりなたてまつりき、
新字:世人既くより実なき唐山の書にのみ読耽りて、皇国君臣の大義を忘れたるが故に、彼北条足利などいへる奴の忌々しき大事は起しゝなり、今は昔常陸国領しゝ殿に西山公といへる在して、太く逞しき大和魂を振興し、厚く神祇を敬ひ深く朝廷を重じつゝ、大日本史てふ大相なる御典等を著し給ひて、世に許されませる名将なりしかど、尚此名義をふとしも忘れましゝにや、将軍家臣伝など記させ給ひしは彼卿の和魂確なるに併せてはいと心得がたき一節なりけり、去し文政といふ年の頃幕府の儒士に柴野彦助といへる男あり、それが大和国の国形見にものしける時、畝火山の東北なる神武天皇の御陵に詣でゝ、其所にて作りし詩を、かへりて後幕府に奉りけるに陪臣柴彦助と書せるを見咎め給て、いたうふづくませ給ひしを、奥州白河の殿御前に候らはして、畏けれど天皇命に対ひ奉りては己等も正しく陪臣にて侍り、況て彦助がごとき者をやと、啓させしかば、やがて諾かせ給ひしとぞ、白河の殿も彦助もよく君臣の名義を知れる人也、其時の幕府は後に文恭院殿とおくりなたてまつりき、
書き下し
世人既くより實なき唐山の書にのみ讀耽りて、皇國君臣の大義を忘れたるが故に、彼北條足利などいへる奴の忌々しき大事は起しゝなり、今は昔常陸國領しゝ殿に西山公といへる在して、太く逞しき大和魂を振興し、厚く神祇を敬ひ深く朝廷を重じつゝ、大日本史てふ大相なる御典等を著し給ひて、世に許されませる名將なりしかど、尙此名義をふとしも忘れましゝにや、將軍家臣傳など記させ給ひしは彼卿の和魂確なるに併せてはいと心得がたき一節なりけり、去し文政といふ年の頃幕府の儒士に柴野彦助といへる男あり、それが大和國の國形見にものしける時、畝火山の東北なる神武天皇の御陵に詣でゝ、其所にて作りし詩を、かへりて後幕府に奉りけるに陪臣柴彦助と書せるを見咎め給て、いたうふづくませ給ひしを、奧州白河の殿御前に候らはして、畏けれど天皇命に對ひ奉りては己等も正しく陪臣にて侍り、况て彦助がごとき者をやと、啓させしかば、やがて諾かせ給ひしとぞ、白河の殿も彦助もよく君臣の名義を知れる人也、其時の幕府は後に文恭院殿とおくりなたてまつりき、
現代語訳
世の人が早くから、実のない唐土の書ばかり読みふけって、皇国の君臣の大義を忘れたために、あの北条や足利といった憎らしい者たちが大事を起こしたのです。昔、常陸国を治めていた殿に西山公(水戸光圀)という方がおられ、太く逞しい大和魂を奮い起こし、厚く神祇を敬い、深く朝廷を重んじて、『大日本史』という大規模な書物を著され、世に認められた名将でしたが、なおこの名義をうっかり忘れておられたのでしょうか。『将軍家臣伝』などを記させられたのは、あの方の確かな大和魂に照らし合わせると、納得しがたい一点でした。去る文政の年のころ、幕府の儒者に柴野彦助という人がいました。彼が大和国の国見に出かけたとき、畝傍山の東北にある神武天皇の御陵に参拝し、そこで作った詩を、帰ってから幕府に奉ったところ、「陪臣柴彦助」と書いてあるのを(将軍が)見とがめて、ひどく不機嫌になられました。そこで奥州白河の殿(松平定信)がお側に控えていて、恐れ多いことですが、天皇に対しては私どもも正しく陪臣でございます、まして彦助のような者ならなおさらです、と申し上げたところ、やがて承知されたとのことです。白河の殿も彦助も、よく君臣の名義を知る人でした。そのときの将軍は、後に文恭院殿とおくり名を奉りました。
解説
この章句が説くこと
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『おもひで草』・君臣名義・将軍と朝廷、陪臣と陪従の区別いか樣に暴く無道く在すとも天皇命の其位を退らせ給ひて、臣下の列に降らせ給はんとかけてもなし、かく君臣の分位天地の共定まりて、動くとなく變移ふとなき大御國風なるが故に世人の情穩しくのどかにて、國も亦治り安し、西土人の、君子國、禮義鄕等、賞美たるにても知るべし、かれ其所謂君臣も名は外國と同樣なれど其さすところの物實は異なり抑君は掛卷も可畏、天皇命、唯御獨りを申奉る稱にて餘の公卿大夫等にはかけてもいはず、臣は天下の上中下の天皇命に對ひ奉る時の名にて、將軍にまれ大臣にまれわが私の主に對ひていふ名にあらず、されば陪臣てふ名も天皇命に對していふ名にて、己が私の主なる將軍等に對ひていふ名にあらず、もし將軍執政等に對はど陪從といふべし、陪臣とはいふべからず、所謂將軍家譜代の大名てふ者も其元朝廷の近臣陪臣等なりしを、征夷將軍の職務を補佐んとて且く朝廷を散けさせて將軍に陪從せさせ給へるなり、朝散太夫などいへるにて其義をさとるべし、かれ將軍勅命を奉りて能く其職を勤めよく世をまつりごてば、長に陪從して忠情を盡すべし、(故朝廷より各々其位官を賜へるものぞ)もし勅命に背き奉りて朝廷邊に射向ひ奉らば速に幕府を去てもとの朝廷にかへるべし(天下の總君主なるが故なり)此は止事なき君臣の大義にて我皇國のみにもて行はるゝ大道なるを、
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『秘本玉くしげ』下 官人に非礼なく世間の学者ただ漢流の道理をのみ説て、此子細をしらざるが故に、今ことさらに顕はし申す也。かの水戸西山公の格別に此御志厚かりし御事、大日本史を修撰し玉へる御趣など、道の大本を弁へ玉へるほど、誠に有がたき御心ばへ也。そもそも御子孫の中にかばかり明良なる殿の出玉へりしも、ひとへに神御祖命の御盛徳の余烈、天照大御神の御はからひと、かへすがへすたふとく有がたき御事也。然れば御大名方御自身の御心得は申すに及ばず、御家中の人々までにも此子細をよく仰渡されて、つねづね相慎みて朝廷を畏れ奉るべきやう、又公卿官人たちも、其禄こそ軽けれ、ほどほどに官職を帯て皇朝にしたしく仕奉り玉ひ、其重き御礼典をも執行ひ玉ふ人々なれば、貴き御方々は申すに及ばず、末々の官人衆に至るまでも、ほどほどに厚く敬礼を加ふべき御事也。その禄うすく身分の軽きをあなどりて、あなかしこ非礼あるべからず。たとひ軽き人にても、官人は皇朝に仕へ奉る人也。
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『おもひで草』・君臣名義・血統を貴ぶ皇国の君臣の名義園の木柴に飛翔りて、贄刺す鶪の韓聲の、言譟ぐなる西土は、彼の仁義てふ物をもて行ひもて勸めて、其を二なき道として貴ぶとか、此の浦安の皇大皇國はしも、唯血統を亂らぬを貴しとす、氏を宇遲と訓むも産血の意、脉を須遲と訓むも清血の義、道を美知と訓むも國土の道路を人身の血脉にたとへたるにて、眞血の義なると明らけし、かく血統を貴ぶ國風潔白に相分れてめでたき習俗なりしを、既くより君臣相婚ぎ異姓相婚ぐ樣になりて、血統の正しからずなりぬるは、いと〱不足事也けり、故西土は仁義をのみ貴ぶが故に、仁義をだに行へば卑しき夷も王に成り上り、仁義を失へば尊き王も忽に賤奴になり降りて、君臣の分位長に定まらず、世人の情姦しくて國治りがたし、故加羅國といふ、加羅は空虛の義、無實の義、辛苦の義、また不毛の義也、皇國は血統を貴ぶ。故に君は長に君にて千萬御世の御末の御世までも、天照御神の御子にませり、臣は長に臣にて當昔高天原より陪從し、五部の神伴を初として、其餘天下の蒼生にいたるまで皆かけまくも、可畏天神地祇の裔孫なり、かれいかさまに仁義を行ひて他人を懷け得たりとも、臣たる者の王位に登らんとかけてもなく、
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『弘道館記述義』・明倫正名・大日本史に込めた倫を明らかにする志倫を明らかにし名を正し、以て国家に藩屏す。臣彪謹んで案ずるに、義公既に孝弟を以て父兄に事へ、諸弟に友愛し、閨門を整粛す。其の倫理を明らかにする所以の者至れり。其の正名の義に於ても又深く意を致せり。蓋し公は建櫜の後に生まれ、大猷公方に先志を紹述し、覇業益々隆んにして、天下の事復た患ふるに足る者莫し。但だ戦国の余習未だ尽くは除かず、尊王の道、正名の義、猶ほ或いは闕く。苟くも其の道義を明らかにして以て風教を植うるに非ずんば、則ち安んぞ異日反乱の徒、復た口を北条・足利に籍らざるを知らんや。此れ公の深く慮る所にして、修史の業の篤く自ら任ずる所以なり。其の著作纂述、勝げて数ふべからず。而して大日本史の作は、尤も不朽の大典たり。其の体裁筆削は、必ず親ら諸臣と反覆商榷し、諸を至当に帰す。一生の用心半ば此の書に在り。是に於て皇統の正閏、人臣の忠奸、照然として明白、復た疑ひを容れず。公嘗て尾紀二公と幕府に在り。適々一史を撰して刊行を請ふ者有り。公繙閲して、呉の太伯を以て神州の始祖と為すに至り、大いに駭きて曰く、此の説は異邦附会の妄に出づ。我が正の所無し。昔後醍醐帝の時、一妖僧有りて斯の説を倡ふ。詔して其の書を焚く。方今文明の世、豈に斯の怪事有らしむべけんや。宜しく命じて速やかに之を削らしむべしと。二公其の議に左袒し、遂に刊行を停む。公又建武・昌平の間の忠義の士の、其の支流の餘裔の諸州に沈淪する者有るを聞き、往往にして招致し其の礼遇を優にす。又嘗て楠子の為に碑を摂の湊川に建て、田を買ひて之に附し、永く香火に資す。居常心を忠敬に存して、老に至るまで懈らず。故事、天使の三藩の邸に至れば、則ち使を遣はして之を謝す。公謂ふ、不敬大なるは莫しと。乃ち親ら旅館に往きて其の辱を謝す。親王大臣の邸に臨むも亦必ず之の如し。毎歳元旦席を地に設け、宿して斎戒し夙朝に下り、西向して遥かに天闕を拝す。其の儀尤も謹めり。今に至るまで恒例と為す。初め大日本史粗ぼ緒に就く。公朝廷を憚りて敢へて史に名づけず。稿と称して之を視る。粛公以下世々其の志を継ぎ、校訂怠らず。文公其の久しくして或いは伝訛せんことを恐れ、諸を梓に上さんと欲す。更に史臣に命じて誤りを刊り闕を補はしむ。武公に至りて、関白藤公に因りて之を請ふ。朝議允す。大日本史の名始めて世に出づ。乃ち工に命じて鏤刻し、先づ其の成れる者を装し、表を上りて之を献ず。光格帝喜歎已まず、藤公に命じて勅を伝へて之を褒む。其の後二十余年、今上公の功を追録し、詔して従二位権大納言を贈る。実に天保三年壬辰五月なり。公の薨ずるより距たること一百三十有五年なり。爾来百数十年、世々遺緒を承け、恩沢に沐浴して以て今日に至る。則ち苟くも臣子たる者、豈に斯の道を推弘し先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。
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『おもひで草』・內外無別・内外の別と弘道館の祭り方への疑問神は皇國固有の神にて主也、儒は後世舶來し道にて伴也、かく主伴尊卑の差別明に別れたるを、例の碑文に敬神崇儒無有偏黨と記し在るは、尊內卑外の差別なきに似たり、同碑文に若西土唐虞三代之治敎資以讚皇猷と謂るは事もなし、又かの孔丘てふ男も、道知れる方よりもて崇ばれて終には文宣王など譽稱へられし人なれども、當昔は鄙事に多能なりし賤夫なり、さるを神世にても殊に御血統正しく武く雄々しき御稜威世に超させ給ひ、其勳功も容易からで、尊き極の建御雷神と、同じ弘道館の上座に併せ祭れるは、殊に尊內卑外の道を忘れ在るに似たり、又かの神國文武の道を學べとの給へる御制條にも違へるに似たり、
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『おもひで草』・文武左右・文武の左右と、武を軽んじない国風西土は文を右にして武を左にす、皇國は武を左にして文を右にす、其は皇國は其國躰外國と同じからず、當時神漏岐神漏美命の青海原を畫成給ゐし天之瓊矛の滴より生出たる國なれば、自然いひしらぬ武德を具へたり、かれ世々の神號王稱等にも、常に建武てふ語を多く用給て、長に武道を宗とし在り、此大御國風をよくさとり在るにや、近頃水戶景山老公の弘道館の碑文に、東照神祖の御事を稱る條に、吾東照宮、撥亂反正、尊王攘夷、左武右文、以開太平之基、と記させ給へるは、和漢の差別潔白に見へわかれて目覺る心地す、さるを近頃の文人等□□貴ぶ方に泥て、ともすれば武道を卑めつゝ己が文事の下草にせんとするは、皇國の古風を知らぬ妄言也、さはいへど文人は尙許さるゝ方も有りなんを、武士の武を餘氣に思ひためるはいかにぞや、此頃家定卿の鷹三百首の歌を見しに、「はし鷹のみよりたゞさかはるらんもろこし人は右にすゑつゝ」といへる歌あり、此は正しく和漢左右の違へる例なり、みよりは身依にて鷹の右の羽をいひ、たゞさきは臂先にて左の羽根をいふたりとぞ、

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