弘道館記述義 / 允武允文・允武允文、仁義を軸にした太平の基
允武允文。以開太平之基。臣彪謹案。東照宮霸業之隆。固卓越前人。而二百數十年太平之盛。亦中世以降之所未有也。世之贊美德業者。語其武則始於大高繼糧。終於浪華二役。語其文則曰崇儒術聘學士。講經籍於兵戈之間。臣竊謂是皆公之偉烈美談。臣子所宜稱述。然所謂允武允文者豈止此而已哉。夫尊皇室。攘夷狄。文武之最大者。前已言之矣。請敢陳其餘論。蓋所以貴於文武者。以其能不偏於一而用之於仁義也。初公爲今川義元所育。後每過其墓必下拜。又善遇其昏弱之子。至分邑給之。公之拓地。頗藉織田氏之援。及織田氏敗。豐臣氏日益强大。遂圖除織田之後。而公不敢忽舊誼。決然援其孤。構怨於强敵而不顧也。武田勝賴之敗死。織田氏見其首極口罵之。公則爲胡貉而禮之。且當織田氏之逞威也。公孤立彈丸之地。不肯苟附。至彼之求和始從之。方豐臣之强大也。公僅以五州之地與之抗衡。及和議說起。人或勸公。以大小難敵不如許之。公怒曰。顧義何如耳。奚論勝敗。及其連乞和求婚。然後徐從之。其忠厚義勇大率如此。故將士浴其化者亦皆勉忠義。勵名節。參河土風。蔚乎絕冠當世。涵蓄充溢。抑而不發者數十年。及關原一擧。天下思服如水之歸下□。此蓋公之武也。而文亦寓焉。公之治參河置奉行三員。其人或剛或柔。或剛柔不偏。蓋其欲寬猛並施得其宜也。其鎭甲斐信濃。務因武田氏之舊。唯除厚斂酷刑。吊勝賴之墓。祿小宮山內膳之後。其撫關東也。亦循北條氏之制。除其煩苛者。又索中山家範等之後而祿之。及其爲政於天下。因豐臣氏之規摸而櫽括其弊。天下人牧拱手就約束。綱紀振肅秩然成封建之治矣。在職二年身老於駿河。以歸望於嗣君。禮適孫定人心。貽孫謀垂遺訓。以開今日之盛。此蓋公之文也。而武亦寓焉。然則公之所以允武允文。固不外乎仁義。而文之與武未始不相須濟美也。嗚呼在上君子。苟欲脩其遺業以保太平於無窮。則在勵文武哉。在務仁義哉。
新字:允武允文。以開太平之基。臣彪謹案。東照宮覇業之隆。固卓越前人。而二百数十年太平之盛。亦中世以降之所未有也。世之賛美徳業者。語其武則始於大高継糧。終於浪華二役。語其文則曰崇儒術聘学士。講経籍於兵戈之間。臣窃謂是皆公之偉烈美談。臣子所宜称述。然所謂允武允文者豈止此而已哉。夫尊皇室。攘夷狄。文武之最大者。前已言之矣。請敢陳其余論。蓋所以貴於文武者。以其能不偏於一而用之於仁義也。初公為今川義元所育。後毎過其墓必下拝。又善遇其昏弱之子。至分邑給之。公之拓地。頗藉織田氏之援。及織田氏敗。豊臣氏日益強大。遂図除織田之後。而公不敢忽旧誼。決然援其孤。構怨於強敵而不顧也。武田勝頼之敗死。織田氏見其首極口罵之。公則為胡貉而礼之。且当織田氏之逞威也。公孤立弾丸之地。不肯苟附。至彼之求和始従之。方豊臣之強大也。公僅以五州之地与之抗衡。及和議説起。人或勧公。以大小難敵不如許之。公怒曰。顧義何如耳。奚論勝敗。及其連乞和求婚。然後徐従之。其忠厚義勇大率如此。故将士浴其化者亦皆勉忠義。励名節。参河土風。蔚乎絶冠当世。涵蓄充溢。抑而不発者数十年。及関原一挙。天下思服如水之帰下□。此蓋公之武也。而文亦寓焉。公之治参河置奉行三員。其人或剛或柔。或剛柔不偏。蓋其欲寛猛並施得其宜也。其鎮甲斐信濃。務因武田氏之旧。唯除厚斂酷刑。吊勝頼之墓。禄小宮山内膳之後。其撫関東也。亦循北条氏之制。除其煩苛者。又索中山家範等之後而禄之。及其為政於天下。因豊臣氏之規摸而櫽括其弊。天下人牧拱手就約束。綱紀振粛秩然成封建之治矣。在職二年身老於駿河。以帰望於嗣君。礼適孫定人心。貽孫謀垂遺訓。以開今日之盛。此蓋公之文也。而武亦寓焉。然則公之所以允武允文。固不外乎仁義。而文之与武未始不相須済美也。嗚呼在上君子。苟欲脩其遺業以保太平於無窮。則在励文武哉。在務仁義哉。
書き下し
允に武、允に文、以て太平の基を開く。臣彪謹んで案ずるに、東照宮の覇業の隆んなる、固より前人に卓越す。而して二百数十年太平の盛んなるも、亦中世以降の未だ有らざる所なり。世の徳業を賛美する者、其の武を語れば則ち大高の糧を繼ぐに始まり、浪華の二役に終る。其の文を語れば則ち儒術を崇び学士を聘し、経籍を兵戈の間に講ずと曰ふ。臣竊かに謂へらく、是れ皆公の偉烈美談、臣子の宜しく称述すべき所なり。然れども所謂允武允文とは、豈に此に止まるのみならんや。夫れ尊皇室、攘夷狄は、文武の最大なる者なり。前に已に之を言へり。請ふ敢へて其の余論を陳べん。蓋し文武に貴ぶ所以は、其の一に偏せずして之を仁義に用ふる能ふを以てなり。初め公は今川義元の育つる所と為る。後、墓を過ぐる毎に必ず下りて拝す。又善く其の昏弱の子を遇し、邑を分けて給するに至る。公の地を拓くは、頗る織田氏の援に藉る。織田氏敗るるに及び、豊臣氏日に益々強大にして、遂に織田の後を除かんことを図る。公は敢へて旧誼を忽せにせず、決然として其の孤を援け、怨みを強敵に構へて顧みず。武田勝頼の敗死するや、織田氏其の首を見て極口に之を罵る。公は則ち胡貉の為に之を礼す。且つ織田氏の威を逞しうするに当たりて、公は孤立彈丸の地にあり、苟くも附せず、彼の和を求むるに至りて始めて之に従ふ。豊臣の強大なるに方りて、公僅かに五州の地を以て之と抗衡す。和議の説起こるに及び、人或いは公に勧む、大小敵し難し、之を許すに如かずと。公怒りて曰く、義を顧みること何如なるかのみ。奚ぞ勝敗を論ぜんと。其の連りに和を乞ひ婚を求むるに及びて、然る後に徐ろに之に従ふ。其の忠厚義勇は大率ね此くの如し。故に将士の其の化に浴する者も亦皆忠義に勉め名節を励む。参河の土風、蔚乎として当世に絶冠す。涵蓄充溢し、抑へて発せざること数十年、関原の一挙に及び、天下思服すること水の下□に帰するが如し。此れ蓋し公の武なり、而して文も亦寓す。公の参河を治むるや、奉行三員を置く。其の人或いは剛、或いは柔、或いは剛柔偏らず。蓋し其の寛猛並び施し宜しきを得んと欲するなり。其の甲斐信濃を鎮するや、務めて武田氏の旧に因り、唯だ厚斂酷刑を除く。勝頼の墓を弔ひ、小宮山内膳の後に禄す。其の関東を撫するや、亦北条氏の制に循ひ、其の煩苛なる者を除く。又中山家範等の後を索めて之に禄す。其の天下に政を為すに及び、豊臣氏の規模に因りて其の弊を櫽括す。天下の人牧拱手して約束に就き、綱紀振粛秩然として封建の治を成す。在職二年、身を駿河に老ゆ、以て嗣君に帰望す。適孫に礼して人心を定め、孫謀を貽して遺訓を垂れ、以て今日の盛を開く。此れ蓋し公の文なり、而して武も亦寓す。然れば則ち公の允武允文する所以は、固より仁義に外ならず。而して文と武と、未だ始めより相須ちて美を済さざるはあらず。嗚呼上に在る君子、苟くも其の遺業を脩めて以て太平を無窮に保たんと欲せば、則ち文武を励むに在り、仁義を務むるに在るかな。
現代語訳
「まことに武、まことに文、それによって太平の基を開いた。」臣の彪が謹んで考えますに、東照宮の覇業の盛んなことは、もとより先人に卓越しています。そして二百数十年にわたる太平の盛んさも、中世以降にはなかったものです。世に徳業をたたえる者は、その武を語れば大高城に兵糧を入れたことに始まり大坂の二度の戦いに終わるといい、その文を語れば、儒学を尊び学者を招き、戦乱の間にも経書を講じたといいます。私はひそかに思います。これらはみな公の偉大な功績と美談であり、臣下としてぜひ称えるべきものです。しかし、いわゆる「允武允文」は、これだけにとどまるでしょうか。皇室を尊び夷狄を払うことは文武の最大のものであると、前に述べました。ここで、その余論を述べさせてください。文武が貴いのは、どちらか一方に偏らずに、仁義のために用いることができるからです。初め公は今川義元に育てられ、のちにその墓の前を通るたびに、必ず馬を降りて拝しました。また、その愚かで弱い子にもよく待遇し、領地を分けて与えるほどでした。公が領地を拡げたのは、織田氏の援助にかなり頼っています。織田氏が敗れると、豊臣氏はますます強大になり、織田の子孫を除こうとしました。公は旧来の恩義をゆるがせにせず、決然としてその孤児を助け、強敵への怨みを買うことも顧みませんでした。武田勝頼が敗死したとき、織田氏はその首を見て口を極めて罵りました。公は、これに礼を尽くして接しました。さらに織田氏が威勢をほしいままにした時、公は小さな孤立した土地にありながら、むやみに従わず、彼が和を求めてきてはじめてこれに従いました。豊臣が強大であったときも、公はわずか五か国の領地で対抗しました。和議の話が起こると、ある人が公に、大小では敵いません、許したほうがいいと勧めました。公は怒って言いました。義に照らしてどうかを考えるだけだ、どうして勝敗を論じるのか、と。その後、豊臣氏がたびたび和を乞い婚姻を求めてから、公はゆっくりとこれに従いました。その忠厚と義勇はおおよそこのようでした。だから、その感化を受けた将士も、みな忠義に努め名節を励みました。三河の風土は、盛んにして当世の最も冠となりました。力を蓄えて満ちあふれ、抑えて発しなかったこと数十年、関ヶ原の一挙に及んで、天下が心から従うことは、水が低い(底本で判読できない字)に帰するようでした。これが公の武であり、文もまたそこに宿っています。公が三河を治めるとき、奉行を三人置きました。その人は、剛の者、柔の者、剛柔が偏らない者でした。寛と猛を並べ施して宜しきを得させようとしたのです。甲斐と信濃を鎮めたときには、武田氏の旧制に努めて従い、重い徴税と酷い刑罰だけを除きました。勝頼の墓を弔い、小宮山内膳の子孫に禄を与えました。関東を治めたときも、北条氏の制度に従って、その煩わしく厳しすぎる部分を除きました。また中山家範らの子孫を探して禄を与えました。天下の政治を行うようになってからは、豊臣氏の規模に基づいてその弊害を正しました。天下の大名たちは手を拱いて約束事に従い、綱紀が振るい粛然として、封建の治が整いました。在職は二年、駿河で老いを迎え、後継者に委ねました。嫡孫に礼を尽くして人心を定め、子孫のための謀りごとを残して遺訓を垂れ、今日の盛んな世を開きました。これが公の文であり、武もそこに宿っています。そうであれば、公が「允武允文」であった理由は、仁義にほかなりません。文と武は、始めから互いに助け合って美を成すものです。ああ、上に立つ君子が、もしその遺業を修めて太平を無窮に保とうとするなら、文武を励み、仁義に努めるところにあるのです。
解説
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『尚武論』・太平に慣れて武を忘れる危うさ天下の命をして、独り一人に制せしむ。諸を祖宗の世に致すも、亦猶ほ姓を更め物を改むるがごときなり、云云。吁、封建の政、郡県と為り、国体変ぜり。古は聖王の世、民は戎政に藉り、柄は常に上に在り。故に四方に事有れば、則ち天子親征す。中世に迨び、文辞を弄ぶに至れば、則ち干戈を観ること敵属のごとく、一に之を武臣に委ね、自ら視ること尊大、武臣を卑しみて奴隷と為す。上下隔遠し、文武日に離離たり。武国の実安くに在らんや。是を以て朝廷自づから衰へて武臣興り、国勢も亦変ず。我が邦は武の在る所、則ち勢の存する所なり。武有る者は盛んに、武無き者は衰ふ。帝大友は文なり、竟に天武の武に克つこと能はず。平家は文なり、終に源氏の武に勝つ能はず。南朝は文なり、卒に足利の武に克つ能はず。夫れ新田・楠は武臣なり。躬ら南朝に属すれば、則ち志を得ること克はざるは、勢の自然のみ。或ひと曰く、尊氏の西奔するや、義貞追ひて之を撃たず、殆ど事機を誤れり。楠、奏言して報いられず、憤激して早く歿す。南朝の振はざる所以なり、と。余謂へらく、義貞・正成、知勇有りと雖も、悪くんぞ天の助くる所に勝たんや。天の助くる所は、智も測る能はず、勇も奪ふ能はざるのみ。天の助くる所は、即ち武に在り。神代、諾冊の二神、瓊矛もて天下を定むるも、歴世の久しきに、天下復た乱る。神武天皇、一旦にして之を戡定す。所謂一治一乱是れなり。爾後も亦朝廷文弱、足利氏の季に臻りて、衰乱極まれり。神君龍興するに迨び、其の用ふる所熊羆の士に非ざる莫く、遂に天下を克服して、天下一に帰し、海内安寧、以て今日に至る。亦盛んならずや。是れ則ち天地神明の祐くる所なり。神武天皇の後、亘ること数千載、皇統繁衍し、継続して絶えず。乃ち我が神君の如きも、亦其の種胤にして、奕葉蔓衍して天下に充つ。武徳の盛んなること、実に前古に度越す。神明の祐くる所、以て知るべし。乃ち知る、武威は皇統と並び立つこと幾百万歳、天地と悠久なること、固より占卜を俟たざるなり。唯だ恐る、大平の久しきに、人逸楽に就き、驕奢に流れ、義を忘れ利を求め、実を去りて虚を務め、誠を喪ひて詐を懐き、懋を離れて便に随ひ、其の極み武徳を失ふに至らんことを。今、世上の俗を察するに、僧徒極めて衆くして武士少なく、商賈常に盛んにして農民減じ、游民自づから多くして工職耗す。国自づから貧乏を取る。
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『弘道館記述義』・尊王攘夷・外患を防ぎ、名分を正す徳川の遺訓既にして又大いに皇居を脩め規制を増広す。又嘗て伶官を招聚して以て雅楽を復す。朝廷其の功を嘉し、嘗て擬するに相国を以てするも敢へて当らず。賜ふに菊桐の御章を以てするも敢へて受けず。其の恭敬抑損、皇室を翼戴する者、蓋し此くの如し。戦国搶擾の間、外夷覬覦し、我が政教の廃弛に乗じ、乃ち敢へて其の妖教を布く。豊臣氏嘗て之を禁ず。東照宮に至りて、更に大いに憲令を設け、悉く天下を捜索し、悉く其の寺を毀ち、其の徒を戮す。後嗣継述して懈らず。是に於て外夷の防ぎ、妖教の禁は、永く憲法第一義と為る。其の果決明断、夷狄を攘除する者、蓋し又此くの如し。今恭しく其の遺訓を観るに、仁政武備の要に於て、尤も深く戒めを垂る。其の内憂を慮り外患を防ぐ所以の者、一にして足らず。詩に曰く、戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲らすと。孟軻之を広げて曰く、父なく君なきは周公の膺つ所なりと。春秋に曰く、元年春王の正月と。左丘明伝して曰く、元年春王の周の正月と。今皇朝衰ふと雖も、其の尊厳は固より東周の比に非ず。然れども履霜の漸、聖人之を戒む。則ち春秋の義は講ぜざるべからず。外夷妖教の毒は、啻だに戎狄荊舒のみならず。則ち膺懲の典尤も明らかにせざるべからず。而るに無識の徒、或いは幕府を指して朝廷と曰ひ、甚だしきは則ち王と称す。近時又蘭学者流有り。(世の西洋学を脩むるは、天文医術の徒に非ざれば則ち訳者舌人の流なり。大抵皆無識にして国体に達せず、此を舎てて彼に従ひ、天を襃めて神を慢る。其の害言ふに勝ふべからず。臣別に論著する所有らんと欲す。故に具さには論ぜず。)或いは唱説して曰く、西洋の教法は其の流一に非ず、今彼の奉ずる所は国家の禁ずる所と同じからず、と。嗚呼是れ惟に皇家の罪人のみならず、亦幕府の罪人なり。抑も亦周孔の罪人なり。

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