弘道館記述義 / 東照宮・東照宮が乱を治めた至誠と義勇
我東照宮。撥亂反正。臣彪謹案。建武中興不終。而天下之權竟歸足利。當時以身徇芳野者。皆忠義之士也。覥然面目。仰足利之鼻息者。皆貪婪無恥之徒也。既殲忠義之士以孤皇家。又聚貪婪無恥之徒。以成其私。甚矣哉。足利之無道。而天之與不仁其亦至此乎。足利既以不仁得之。親戚倣之。陪臣倣之。天下靡然唯利是求不復知忠孝仁義爲何物。終之將軍管領有名無實。群雄并起爭跨州郡。西滅東起互相呑噬。生民之禍亦慘矣。昔者源平二氏者。派別出自天潢。然降爲人臣。久混武士。則公卿視如奴隸。至於足利之衰。則織田起自陪臣。而豐臣又起自織田之臣。三台之座則闕之官。一蹴超遷如拾地芥。天下之變亦甚矣。然織田之權數智謀。固非當時群雄之比。豐臣之雄才大略。又壓倒海之內外。乃其所以鞭撻一世。盪滌八洲則可也。至於所以培養扶桑之根抵。措天下於富嶽之安。則未可也。我東照宮則不然。蓋彼以詐術。我以至誠。彼以威强。我以義勇。彼以土地財利籠絡人心。我以禮義廉恥磨礪士氣。彼之奏功甚速。而其敗也土崩瓦解。我之搆基也若遷。而其成也牢固不拔。凡其言行必本於忠孝仁義。其政敎施設暗合於聖賢之道。足以養神州之元氣者。往往有焉。此其所以覇業之隆卓越前人。所謂撥亂反正者。不其然乎。古人有言。曰人衆者勝天。天定亦能勝人。足利既以貪婪無恥風靡一世。貪婪無恥之俗極。而室町之業忽諸。既殲忠義之士。而忠義之種不可滅泯。維天陰隲新田之族。流離間關幾絶而僅存。累世積德。至於東照宮大發其光。而池田井伊奧平大久保鳥居天野栗生諸氏。蓋亦皆以忠義之遺孽。傳芳野之餘馨。際會風雲。裁定禍亂。以致今日之盛。則天之終勝不仁也亦明矣。嗚呼亦可畏也夫。
新字:我東照宮。撥乱反正。臣彪謹案。建武中興不終。而天下之権竟帰足利。当時以身徇芳野者。皆忠義之士也。覥然面目。仰足利之鼻息者。皆貪婪無恥之徒也。既殲忠義之士以孤皇家。又聚貪婪無恥之徒。以成其私。甚矣哉。足利之無道。而天之与不仁其亦至此乎。足利既以不仁得之。親戚倣之。陪臣倣之。天下靡然唯利是求不復知忠孝仁義為何物。終之将軍管領有名無実。群雄并起争跨州郡。西滅東起互相呑噬。生民之禍亦惨矣。昔者源平二氏者。派別出自天潢。然降為人臣。久混武士。則公卿視如奴隸。至於足利之衰。則織田起自陪臣。而豊臣又起自織田之臣。三台之座則闕之官。一蹴超遷如拾地芥。天下之変亦甚矣。然織田之権数智謀。固非当時群雄之比。豊臣之雄才大略。又圧倒海之内外。乃其所以鞭撻一世。盪滌八洲則可也。至於所以培養扶桑之根抵。措天下於富嶽之安。則未可也。我東照宮則不然。蓋彼以詐術。我以至誠。彼以威強。我以義勇。彼以土地財利籠絡人心。我以礼義廉恥磨礪士気。彼之奏功甚速。而其敗也土崩瓦解。我之搆基也若遷。而其成也牢固不抜。凡其言行必本於忠孝仁義。其政教施設暗合於聖賢之道。足以養神州之元気者。往往有焉。此其所以覇業之隆卓越前人。所謂撥乱反正者。不其然乎。古人有言。曰人衆者勝天。天定亦能勝人。足利既以貪婪無恥風靡一世。貪婪無恥之俗極。而室町之業忽諸。既殲忠義之士。而忠義之種不可滅泯。維天陰隲新田之族。流離間関幾絶而僅存。累世積徳。至於東照宮大発其光。而池田井伊奥平大久保鳥居天野栗生諸氏。蓋亦皆以忠義之遺孽。伝芳野之余馨。際会風雲。裁定禍乱。以致今日之盛。則天之終勝不仁也亦明矣。嗚呼亦可畏也夫。
書き下し
我が東照宮、乱を撥めて正に反す。臣彪謹んで案ずるに、建武の中興終らずして、天下の権竟に足利に帰す。当時身を以て芳野に徇ふ者は、皆忠義の士なり。覥然たる面目にて足利の鼻息を仰ぐ者は、皆貪婪無恥の徒なり。既に忠義の士を殲して以て皇家を孤にし、又貪婪無恥の徒を聚めて以て其の私を成す。甚しきかな。足利の無道なること、而して天の不仁に与するも其れ亦此に至るか。足利既に不仁を以て之を得、親戚之に倣ひ、陪臣之に倣ひ、天下靡然として唯だ利を是れ求め、復た忠孝仁義の何物たるかを知らず。終に将軍管領は有名無実となり、群雄并び起こりて争ひて州郡に跨がり、西滅び東起こりて互ひに呑噬す。生民の禍も亦惨なり。昔者源平二氏は、派別れて天潢より出づ。然れども降りて人臣と為り、久しく武士に混ずれば、則ち公卿視ること奴隷の如し。足利の衰ふるに至りては、則ち織田は陪臣より起こり、而して豊臣は又織田の臣より起こる。三台の座は則ち之を官に闕き、一蹴超遷すること地の芥を拾ふが如し。天下の変も亦甚だし。然れども織田の権数智謀は、固より当時の群雄の比に非ず。豊臣の雄才大略は、又海内外を圧倒す。乃ち其の一世を鞭撻し、八洲を盪滌する所以は則ち可なり。扶桑の根抵を培養し、天下を富嶽の安きに措く所以に至りては、則ち未だ可ならざるなり。我が東照宮は則ち然らず。蓋し彼は詐術を以てし、我は至誠を以てす。彼は威強を以てし、我は義勇を以てす。彼は土地財利を以て人心を籠絡し、我は礼義廉恥を以て士気を磨礪す。彼の功を奏すること甚だ速やかなるも、其の敗るるや土崩瓦解す。我が基を搆ふること迂なるが若きも、其の成るや牢固として抜けず。凡そ其の言行は必ず忠孝仁義に本づき、其の政教施設は暗に聖賢の道に合す。以て神州の元気を養ふに足る者、往往にして有り。此れ其の覇業の隆んなること前人に卓越する所以にして、所謂撥乱反正とは、其れ然らずや。古人言へる有り、曰く、人衆ければ天に勝つ、天定まれば亦能く人に勝つと。足利既に貪婪無恥を以て一世を風靡す。貪婪無恥の俗極まりて、室町の業忽ち諸む。既に忠義の士を殲すも、忠義の種は滅泯すべからず。維れ天、新田の族を陰隲し、流離間関して幾んど絶えて僅かに存す。累世の徳を積み、東照宮に至りて大いに其の光を発す。而して池田・井伊・奥平・大久保・鳥居・天野・栗生の諸氏は、蓋し亦皆忠義の遺孽を以て、芳野の餘馨を伝へ、風雲に際会して禍乱を裁定し、以て今日の盛を致す。則ち天の終に不仁に勝つや、亦明らかなり。嗚呼亦畏るべきかな。
現代語訳
「わが東照宮(徳川家康)は、乱を治めて正しい世に戻した。」臣の彪が謹んで考えますに、建武の中興が成就せず、天下の権力はついに足利に帰しました。当時、吉野(南朝)に身をささげた者は、みな忠義の士でした。恥ずかしげもなく足利の鼻息をうかがった者は、みな貪欲で恥知らずの徒でした。足利はすでに忠義の士を滅ぼして皇室を孤立させ、また貪欲で恥知らずの者を集めて私欲を遂げました。甚だしいことです。足利が道に背いたことは、天が不仁にくみするのもここまでかと思うほどです。足利が不仁によって天下を得ると、親戚もこれに倣い、陪臣もこれに倣い、天下はなびくようにただ利ばかりを求め、忠孝仁義が何であるかも知らなくなりました。ついに将軍や管領は名ばかりで実がなくなり、群雄が並び起こって州や郡をまたいで争い、西が滅べば東が起こり、互いに呑み合いました。民の災いも惨たらしいものでした。昔、源氏と平氏の二氏は、皇室の流れから出た家でした。しかし臣下に降りて長く武士の中に混じると、公卿は彼らを奴隷のように見ました。足利が衰えると、織田は陪臣から起こり、豊臣はまた織田の家臣から起こりました。三公(三台)の座は官位が空席のままになっていて、一足飛びに昇ることは地面の芥を拾うほどたやすいことでした。天下の変事も甚だしいものです。しかし織田の権謀と知略は、当時の群雄とは比べものになりません。豊臣の雄才大略は、国内外を圧倒しました。そこで、一世を鞭打ち、日本を洗い清めることはできました。しかし日本の根底を養い育て、天下を富士山のように安らかに据えることまでは、できませんでした。わが東照宮はそうではありません。彼らが詐術を用いたのに対し、東照宮は至誠を用いました。彼らが威力と強さを用いたのに対し、東照宮は義と勇を用いました。彼らが土地や財利で人心を縛ったのに対し、東照宮は礼義廉恥で士気を磨きました。彼らの成功は非常に速かったものの、その敗れ方は土が崩れ瓦が割れるようでした。東照宮の基礎づくりは遠回りに見えましたが、その成就は堅く抜けないものでした。その言行は必ず忠孝仁義に基づき、政治と教化の施策は、聖賢の道に自然に合っていました。日本の元気を養うのに足るものが、しばしばありました。これが、その覇業が先人より卓越して盛んである理由で、いわゆる「乱を撥めて正に返す」とはこのことではありませんか。古人の言葉に、「人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人にも勝つ」とあります。足利は貪欲で恥知らずの風潮で一世を風靡しました。貪欲で恥知らずの風俗が極まったとき、室町の業はたちまち滅びました。忠義の士を滅ぼしても、忠義の種は消し去れません。天は新田の一族をひそかに守り、流浪と苦難の末に、ほとんど絶えながらわずかに存続しました。代々徳を積み、東照宮に至って大いにその光を発しました。そして池田・井伊・奥平・大久保・鳥居・天野・栗生の諸氏は、いずれも忠義の遺された子孫として、吉野の余香を伝え、風雲の時に巡り合って禍乱を裁き定め、今日の盛んな世をもたらしました。天がついに不仁に勝つことも明らかです。ああ、畏れるべきことです。
解説
この章句が説くこと
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『尚武論』・太平に慣れて武を忘れる危うさ天下の命をして、独り一人に制せしむ。諸を祖宗の世に致すも、亦猶ほ姓を更め物を改むるがごときなり、云云。吁、封建の政、郡県と為り、国体変ぜり。古は聖王の世、民は戎政に藉り、柄は常に上に在り。故に四方に事有れば、則ち天子親征す。中世に迨び、文辞を弄ぶに至れば、則ち干戈を観ること敵属のごとく、一に之を武臣に委ね、自ら視ること尊大、武臣を卑しみて奴隷と為す。上下隔遠し、文武日に離離たり。武国の実安くに在らんや。是を以て朝廷自づから衰へて武臣興り、国勢も亦変ず。我が邦は武の在る所、則ち勢の存する所なり。武有る者は盛んに、武無き者は衰ふ。帝大友は文なり、竟に天武の武に克つこと能はず。平家は文なり、終に源氏の武に勝つ能はず。南朝は文なり、卒に足利の武に克つ能はず。夫れ新田・楠は武臣なり。躬ら南朝に属すれば、則ち志を得ること克はざるは、勢の自然のみ。或ひと曰く、尊氏の西奔するや、義貞追ひて之を撃たず、殆ど事機を誤れり。楠、奏言して報いられず、憤激して早く歿す。南朝の振はざる所以なり、と。余謂へらく、義貞・正成、知勇有りと雖も、悪くんぞ天の助くる所に勝たんや。天の助くる所は、智も測る能はず、勇も奪ふ能はざるのみ。天の助くる所は、即ち武に在り。神代、諾冊の二神、瓊矛もて天下を定むるも、歴世の久しきに、天下復た乱る。神武天皇、一旦にして之を戡定す。所謂一治一乱是れなり。爾後も亦朝廷文弱、足利氏の季に臻りて、衰乱極まれり。神君龍興するに迨び、其の用ふる所熊羆の士に非ざる莫く、遂に天下を克服して、天下一に帰し、海内安寧、以て今日に至る。亦盛んならずや。是れ則ち天地神明の祐くる所なり。神武天皇の後、亘ること数千載、皇統繁衍し、継続して絶えず。乃ち我が神君の如きも、亦其の種胤にして、奕葉蔓衍して天下に充つ。武徳の盛んなること、実に前古に度越す。神明の祐くる所、以て知るべし。乃ち知る、武威は皇統と並び立つこと幾百万歳、天地と悠久なること、固より占卜を俟たざるなり。唯だ恐る、大平の久しきに、人逸楽に就き、驕奢に流れ、義を忘れ利を求め、実を去りて虚を務め、誠を喪ひて詐を懐き、懋を離れて便に随ひ、其の極み武徳を失ふに至らんことを。今、世上の俗を察するに、僧徒極めて衆くして武士少なく、商賈常に盛んにして農民減じ、游民自づから多くして工職耗す。国自づから貧乏を取る。
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