弘道館記述義 / 日本武尊・威公の勇武と、士を養う恩威並び施す姿
夙慕日本武尊之爲人。尊神道繕武備。臣彪謹案。景行帝之時熊襲屢叛。帝命。皇子小碓尊討之。皇子年僅十六。憑其智勇直殲渠魁。厥後又奉詔征蝦夷。其發也拜伊勢神宮。奉其神劒而出。遂能驅除妖氛平定邊陲。蓋當時蝦夷種類雜處內地。叛服不常大爲民害。至是遠近懾服。東北之地始霑皇化。帝嘗目皇子以神人。而强暴冥頑若川上梟帥。恐怖畏縮臨戮日本武尊之號。千載之下凜凜猶有生氣焉。我威公夙受東陲之重寄。其地皆皇子餘烈所存。而皇子之祠。適在水戶之南郊。(稱吉田神社。延喜式所謂名神大者。)古木蓊鬱屹與府城相峙。則感懷之餘。慨然興欽慕之情者。信有以也。公嘗受神道於萩原兼從。尤重神祇。寬永中大猷公罹疾。公憂之禱於健御雷神。旣而大猷公癒。公乃脩鹿島祠以賽焉。又嘗親拜其祠。威儀甚謹。公勇武根於天性。傍長於伎藝。嘗從大猷公獵於板橋。射殪野猪數頭。大猷公恒稱曰。水戶殿今能州矣。能州者蓋謂平敎經也。其養士恩威並施。嘗就國有岩本越中者。放銃獲鷺於城上之樹。公召詰之。對曰臣善病聞食鷺可癒。當時唯鷺是視。然臣之與鷺孰重。公笑曰汝與法孰重。越中屈服。公竟舍而不問。明曆中江戶大火延及我邸。近臣向坂彌九郎侵焰持公所愛書而出。有司請賞。公曰寡人亦深嘉之。然賞之則恐他日傷士於水火也。不果賞。島原賊之伏誅也。鍋島氏犯律先登。法當國除。幕府議其罪。公曰嚴法懲後戰國之事也。今天下人安不復容有反亂。而重罰輕賞諸侯何賴焉。偉勳若彼而國除。某不肯奉命。大猷公深納焉。議遂寢。戰國以來殉死盛行。諸侯或以其多誇。公遺命禁之。亡幾幕府大布其禁於天下。公實爲之倡也。公嘗慮邊寇。設堠於沿海各處。以報緩急。當時東海針路未通。外夷之患。常在西陲。後百數十年。北虜擾蝦夷。至於文政年間。夷船出沒東海者。無歲無之。各處堠臺。始爲其用。嗚呼公之所慮遠矣。東照宮遺命台德公。以公比腰刀。蓋取於其愛護可防身。於是台德公特加親信。及大猷公時亦屢延公與謀議。人莫知其故也。義公恒語諸侍臣云。
新字:夙慕日本武尊之為人。尊神道繕武備。臣彪謹案。景行帝之時熊襲屡叛。帝命。皇子小碓尊討之。皇子年僅十六。憑其智勇直殲渠魁。厥後又奉詔征蝦夷。其発也拝伊勢神宮。奉其神劒而出。遂能駆除妖氛平定辺陲。蓋当時蝦夷種類雑処内地。叛服不常大為民害。至是遠近懾服。東北之地始霑皇化。帝嘗目皇子以神人。而強暴冥頑若川上梟帥。恐怖畏縮臨戮日本武尊之号。千載之下凜凜猶有生気焉。我威公夙受東陲之重寄。其地皆皇子余烈所存。而皇子之祠。適在水戸之南郊。(称吉田神社。延喜式所謂名神大者。)古木蓊鬱屹与府城相峙。則感懐之余。慨然興欽慕之情者。信有以也。公嘗受神道於萩原兼従。尤重神祇。寛永中大猷公罹疾。公憂之祷於健御雷神。既而大猷公癒。公乃脩鹿島祠以賽焉。又嘗親拝其祠。威儀甚謹。公勇武根於天性。傍長於伎芸。嘗従大猷公猟於板橋。射殪野猪数頭。大猷公恒称曰。水戸殿今能州矣。能州者蓋謂平教経也。其養士恩威並施。嘗就国有岩本越中者。放銃獲鷺於城上之樹。公召詰之。対曰臣善病聞食鷺可癒。当時唯鷺是視。然臣之与鷺孰重。公笑曰汝与法孰重。越中屈服。公竟舎而不問。明暦中江戸大火延及我邸。近臣向坂弥九郎侵炎持公所愛書而出。有司請賞。公曰寡人亦深嘉之。然賞之則恐他日傷士於水火也。不果賞。島原賊之伏誅也。鍋島氏犯律先登。法当国除。幕府議其罪。公曰厳法懲後戦国之事也。今天下人安不復容有反乱。而重罰軽賞諸侯何頼焉。偉勲若彼而国除。某不肯奉命。大猷公深納焉。議遂寝。戦国以来殉死盛行。諸侯或以其多誇。公遺命禁之。亡幾幕府大布其禁於天下。公実為之倡也。公嘗慮辺寇。設堠於沿海各処。以報緩急。当時東海針路未通。外夷之患。常在西陲。後百数十年。北虜擾蝦夷。至於文政年間。夷船出没東海者。無歳無之。各処堠台。始為其用。嗚呼公之所慮遠矣。東照宮遺命台徳公。以公比腰刀。蓋取於其愛護可防身。於是台徳公特加親信。及大猷公時亦屡延公与謀議。人莫知其故也。義公恒語諸侍臣云。
書き下し
夙に日本武尊の人と為りを慕ひ、神道を尊び武備を繕ふ。臣彪謹んで案ずるに、景行帝の時、熊襲屢々叛く。帝皇子小碓尊に命じて之を討たしむ。皇子年僅かに十六、其の智勇に憑りて直ちに渠魁を殲す。厥の後又詔を奉じて蝦夷を征す。其の発するや、伊勢神宮を拝し、其の神剣を奉じて出づ。遂に能く妖氛を駆除し辺陲を平定す。蓋し当時蝦夷の種類内地に雑処し、叛服常ならず大いに民害を為す。是に至りて遠近懾服し、東北の地始めて皇化に霑ふ。帝嘗て皇子を目して神人と為す。而して強暴冥頑なること川上梟帥の若き、恐怖畏縮して戮に臨み、日本武尊の号を献ず。千載の下、凜凜として猶ほ生気有り。我が威公夙に東陲の重寄を受く。其の地は皆皇子の餘烈の存する所にして、皇子の祠、適々水戸の南郊に在り。(吉田神社と称す。延喜式の所謂名神大なり。)古木蓊鬱として屹として府城と相峙す。則ち感懐の餘り、慨然として欽慕の情を興すは、信に以有るなり。公嘗て神道を萩原兼従に受け、尤も神祇を重んず。寛永中大猷公疾に罹る。公之を憂へ、健御雷神に祷る。既にして大猷公癒ゆ。公乃ち鹿島の祠を脩めて以て賽す。又嘗て親しく其の祠を拝し、威儀甚だ謹めり。公は勇武天性に根ざし、傍ら伎芸に長ず。嘗て大猷公に従ひて板橋に猟し、野猪数頭を射殪す。大猷公恒に称して曰く、水戸殿は今の能州なりと。能州は蓋し平教経を謂ふなり。其の士を養ふや恩威並び施す。嘗て国に就くに、岩本越中なる者有り、銃を放ちて鷺を城上の樹に獲たり。公召して之を詰る。対へて曰く、臣は善く病む。聞く、鷺を食へば癒ゆべしと。当時唯だ鷺を是れ視る。然れども臣の鷺と孰れか重きと。公笑ひて曰く、汝と法と孰れか重きと。越中屈服す。公竟に舎きて問はず。明暦中江戸に大火あり、延びて我が邸に及ぶ。近臣向坂弥九郎、焰を侵して公の愛する所の書を持して出づ。有司賞せんことを請ふ。公曰く、寡人も亦深く之を嘉す。然れども之を賞すれば則ち他日士を水火に傷つけんことを恐ると。果して賞せず。島原の賊の伏誅するや、鍋島氏律を犯して先登す。法は国除に当たる。幕府其の罪を議す。公曰く、厳法もて後を懲らすは戦国の事なり。今天下の人安んじて復た反乱有るを容れず。而して重罰軽賞せば、諸侯何をか頼まん。偉勲彼の若くして国除かるるは、某命を奉ずるを肯んぜずと。大猷公深く之を納る。議遂に寝む。戦国以来殉死盛んに行はれ、諸侯或いは其の多きを以て誇る。公遺命して之を禁ず。亡幾くもなく幕府大いに其の禁を天下に布く。公実に之が倡を為せり。公嘗て辺寇を慮り、堠を沿海各処に設けて以て緩急を報ず。当時東海の針路未だ通ぜず、外夷の患は常に西陲に在り。後百数十年、北虜蝦夷を擾し、文政年間に至りて、夷船の東海に出没する者、歳として無きはなし。各処の堠台始めて其の用を為す。嗚呼公の慮る所遠きかな。東照宮、台徳公に遺命するに、公を以て腰刀に比す。蓋し其の愛護して身を防ぐべきに取るなり。是に於て台徳公特に親信を加へ、大猷公の時に及びて亦屢々公を延きて謀議に与らしむ。人其の故を知る莫きなり。義公恒に諸侍臣に語りて云ふ。
現代語訳
「早くから日本武尊の人となりを慕い、神道を尊んで武備を整えた。」臣の彪が謹んで考えますに、景行天皇の時、熊襲がたびたび背きました。帝は皇子の小碓尊に命じて討たせました。皇子は年わずか十六で、その智と勇によって、ただちに首領を滅ぼしました。その後、また詔を受けて蝦夷を征しました。出発にあたって、伊勢神宮を拝し、その神剣を奉じて出ました。ついに妖しい気配を払い除いて辺境を平定しました。当時、蝦夷の種族が内地に雑居し、背いたり従ったりして定まらず、民に大きな害をなしていました。ここに至って遠近の者が畏れ服し、東北の地がはじめて皇化に潤いました。帝はかつて皇子を神人と見なしました。また、強暴で頑迷な川上梟帥は、恐れおののいて処刑に臨み、日本武尊の号を献上しました。千年の後も、凛々として生気があるようです。わが威公は早くから東の辺境の重い任を受けました。その地はすべて皇子の遺烈が残るところで、皇子の祠が、ちょうど水戸の南郊にあります。(吉田神社といい、延喜式のいわゆる名神大です。)古木が鬱蒼と茂り、城下町とそびえ立って向き合っています。そこで、感慨のあまり、慨然として敬慕の情を起こしたのも、もっともなことです。公はかつて神道を萩原兼従に受け、とりわけ神祇を重んじました。寛永年間に大猷公(徳川家光)が病にかかったとき、公はこれを憂えて健御雷神(建御雷神)に祈りました。やがて大猷公が快癒すると、公は鹿島の祠を修理してお礼参りとしました。また自ら祠を拝し、その威儀は極めて慎み深いものでした。公は勇武が天性に根ざし、傍ら技芸にも優れていました。かつて大猷公に従って板橋で狩りをし、野猪数頭を射止めました。大猷公はいつも、「水戸殿は今の能登守(平教経)だ」とたたえました。能州とは平教経のことをいいます。士を養うには恩と威を並べ施しました。あるとき国に帰ると、岩本越中という者がいて、銃を放って城上の樹にいた鷺を撃ち落としました。公は召してこれを問い詰めました。越中は答えました。私は病気がちで、鷺を食べれば治ると聞きました。そのとき鷺しか目に入りませんでした。しかし私にとって鷺と私とでは、どちらが重いでしょうか、と。公は笑って言いました。お前にとって、お前と法とではどちらが重いのか、と。越中は屈服しました。公はそのまま許して問いませんでした。明暦年間、江戸に大火があり、わが邸にまで及びました。近臣の向坂弥九郎は、炎を冒して公が愛する書を持ち出しました。役人が賞を与えるよう願い出ました。公は言いました。私もこれを深くよしとする。しかし賞すれば、後日、士が水火に身を傷つけるのではないかと恐れる、と。結局、賞しませんでした。島原の賊が誅伏したとき、鍋島氏は軍律を犯して先陣を切りました。法に照らせば国除(領地没収)にあたります。幕府がその罪を議しました。公は言いました。厳しい法で後を懲らすのは戦国の時のことです。いま天下の人は安んじて、もはや反乱を起こす余地はありません。そこで重く罰して軽く賞すれば、諸侯は何を頼みにするでしょうか。大きな勲功がありながら国を除かれるのは、私は命を奉じることを承服しません、と。大猷公は深くこれを聞き入れました。議論はそのままやみました。戦国以来、殉死が盛んに行われ、諸侯のなかにはその多さを誇る者もいました。公は遺命してこれを禁じました。まもなく幕府が大いにその禁令を天下に布きましたが、公こそがその先駆けでした。公はかつて辺境の外敵を心配し、沿海の各地に物見台を設けて急を知らせるようにしました。当時、東海の航路はまだ通じず、外国の脅威はいつも西の辺境にありました。その後百数十年して、北の異民族が蝦夷を乱し、文政年間になると、外国船が東海に出没することは毎年のようにありました。各地の物見台がはじめて役に立ちました。ああ、公の遠く先まで見通した思慮です。東照宮は台徳公に遺命するとき、公を腰刀にたとえました。身を守るために大切にするべきものという意味でしょう。そこで台徳公は特に親しく信頼を寄せ、大猷公の代になってからもたびたび公を招いて謀議に加えさせました。人々はその理由を知りませんでした。義公(徳川光圀)はいつも侍臣たちに語って言いました。
解説
この章句が説くこと
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