弘道館記述義 / 夷齊・儒者の矜持と、位山の歌に託した志
幕府嘗欲布新令。詢於三藩之君。公讀至於云儒者醫師許乘輿。乃曰儒非瞽挾冊讀書之稱。凡學聖人之道者謂之儒。某亦儒也。今與方伎之流並稱。恐貽笑於後世。幕府乃改爲醫陰二道。儒者復古。公之力爲多。公官不過參議。年六十三致仕。翌日拜中納言。作位山歌。言其志。(「久羅韋也麻能煩流毛玖流志於比乃美波布母登乃左土曾須微與加理氣留。」)又留一詩戒嗣君有曰。「嗚呼汝欽哉。治國必依仁。禍始自閨門。愼勿亂五倫。」歸國召諸臣親諭曰。吾以弟紹封。久抱忸怩。今讓之於少將。吾志願畢矣。卿等能以所以事我者事少將。吾復何患。君舟臣水。水能浮舟。水能覆舟。愼哉。又諭國中子弟曰。汝輩年少意當思奮勇而殞首。然臨危授命士之常分。血氣之勇盜賊尙能之。非死之難。處死爲難。然則何以處之。在學聖賢之道而已。夙夜孜孜。明倫理。勵實行。此所望於汝輩。不然則思亂樂禍者也。可不戒哉。遂營菟裘於久慈郡太田鄕之西山。(相傳公相地至此郡。見一區山水極佳者。問名於里人。對曰稱逃山。公蹙眉曰。遁逃武家所尤忌。風景雖美吾不欲居之。又遇林泉幽邃可愛者。問名曰西山。公喜曰。唯有其名可以居焉。况兼有山水之勝乎。遂居之。)衡門茅屋僅蔽風日。放懷於詩酒。澹然自樂。稱曰西山隱士。又曰梅里先生。蓋皆取於泰伯伯夷之風云。
新字:幕府嘗欲布新令。詢於三藩之君。公読至於云儒者医師許乗輿。乃曰儒非瞽挟冊読書之称。凡学聖人之道者謂之儒。某亦儒也。今与方伎之流並称。恐貽笑於後世。幕府乃改為医陰二道。儒者復古。公之力為多。公官不過参議。年六十三致仕。翌日拝中納言。作位山歌。言其志。(「久羅韋也麻能煩流毛玖流志於比乃美波布母登乃左土曽須微与加理気留。」)又留一詩戒嗣君有曰。「嗚呼汝欽哉。治国必依仁。禍始自閨門。慎勿乱五倫。」帰国召諸臣親諭曰。吾以弟紹封。久抱忸怩。今譲之於少将。吾志願畢矣。卿等能以所以事我者事少将。吾復何患。君舟臣水。水能浮舟。水能覆舟。慎哉。又諭国中子弟曰。汝輩年少意当思奮勇而殞首。然臨危授命士之常分。血気之勇盗賊尚能之。非死之難。処死為難。然則何以処之。在学聖賢之道而已。夙夜孜孜。明倫理。励実行。此所望於汝輩。不然則思乱楽禍者也。可不戒哉。遂営菟裘於久慈郡太田郷之西山。(相伝公相地至此郡。見一区山水極佳者。問名於里人。対曰称逃山。公蹙眉曰。遁逃武家所尤忌。風景雖美吾不欲居之。又遇林泉幽邃可愛者。問名曰西山。公喜曰。唯有其名可以居焉。況兼有山水之勝乎。遂居之。)衡門茅屋僅蔽風日。放懐於詩酒。澹然自楽。称曰西山隠士。又曰梅里先生。蓋皆取於泰伯伯夷之風云。
書き下し
幕府嘗て新令を布かんと欲し、三藩の君に詢ふ。公読みて「儒者医師は輿に乗るを許す」と云ふに至り、乃ち曰く、儒は瞽の冊を挟みて書を読むの称に非ず。凡そ聖人の道を学ぶ者之を儒と謂ふ。某も亦儒なり。今方伎の流と並称す。恐らくは笑ひを後世に貽さん、と。幕府乃ち改めて医陰二道と為す。儒者古に復す。公の力多しと為す。公の官は参議に過ぎず。年六十三にして致仕し、翌日中納言を拝す。位山の歌を作りて其の志を言ふ。(「久羅韋也麻能煩流毛玖流志於比乃美波布母登乃左土曾須微與加理氣留」。)又一詩を留めて嗣君を戒む。曰く、「嗚呼汝欽めよ、国を治むるは必ず仁に依れ、禍は閨門より始まる、慎みて五倫を乱す勿れ」と。国に帰り諸臣を召して親しく諭して曰く、吾弟を以て封を紹ぎ、久しく忸怩を抱く。今之を少将に譲る。吾が志願畢はれり。卿等能く我に事ふる所以を以て少将に事へよ。吾復た何をか患へん。君は舟、臣は水。水は能く舟を浮かべ、水は能く舟を覆す。慎め、と。又国中の子弟を諭して曰く、汝輩年少く、意は当に奮勇して首を殞すを思ふべし。然れども危ふきに臨みて命を授くるは士の常分なり。血気の勇は盗賊も尚ほ能くす。死するは難きに非ず、死に処するは難しと為す。然れば則ち何を以て之に処せん。聖賢の道を学ぶに在るのみ。夙夜孜孜として、倫理を明らかにし、実行を励む。此れ汝輩に望む所なり。然らずんば則ち乱を思ひ禍を楽しむ者なり。戒めざるべけんや、と。遂に菟裘を久慈郡太田郷の西山に営む。(相伝ふ、公地を相して此の郡に至り、一区の山水極めて佳なる者を見る。名を里人に問ふ。対へて逃山と称すと。公眉を蹙めて曰く、遁逃は武家の尤も忌む所。風景美なりと雖も、吾居るを欲せずと。又林泉幽邃にして愛すべき者に遇ひ、名を問ふ。西山と曰ふ。公喜びて曰く、唯だ其の名有るのみにて以て居るべし。況んや兼ねて山水の勝有るをや、と。遂に之に居る。)衡門茅屋、僅かに風日を蔽ふ。懐を詩酒に放ち、澹然として自ら楽しむ。西山隠士と称し、又梅里先生と曰ふ。蓋し皆泰伯・伯夷の風に取ると云ふ。
現代語訳
幕府があるとき新しい法令を布こうとして、三藩(尾張・紀伊・水戸)の君に意見を求めました。公が読み進めて、「儒者と医師は輿に乗ることを許す」とあるところに至り、こう言いました。儒とは、盲人が書物を抱えて読み上げる者の呼び名ではない。およそ聖人の道を学ぶ者を儒という。私もまた儒である。いま方術・技芸の者と並べて称するとは、後世に笑いを残すだろう、と。幕府はそこで改めて「医と陰陽の二道」としました。儒者は古の位置に戻りました。公の力が大きかったのです。公の官は参議にとどまりました。六十三歳で職を退き、翌日に中納言を拝しました。位山の歌を作って、その志を述べました。(「くらゐ山のぼるもくるし老いの身はふもとの里ぞ住みよかりける」(位山に登るのも苦しい。老いの身には麓の里こそ住みやすいことだ)と万葉仮名で記されます。)また一首の詩を残して後継の君を戒めました。「ああ、お前、つつしめ。国を治めるには必ず仁に依れ。禍は家庭の内から始まる。つつしんで五倫を乱すな」と。国に帰り、諸臣を召して自ら諭して言いました。私は弟の身で封を継ぎ、長い間、恥じ入る思いを抱いてきた。いま、これを少将に譲る。私の願いは果たされた。卿らは私に仕えたように少将に仕えよ。私は何の憂いもない。君は舟、臣は水だ。水はよく舟を浮かべ、水はよく舟を覆す。慎め、と。また領内の若者たちを諭して言いました。お前たちは若く、勇気を奮って命を捧げることを思うだろう。しかし危機に臨んで命を投げ出すのは、士のあたりまえの分である。血気の勇は盗賊でもできる。死ぬことは難しいのではない、死に処することが難しいのだ。ではどうすればよいか。聖賢の道を学ぶことである。朝夕つとめて、倫理を明らかにし、実行に励め。これがお前たちに望むことだ。そうでなければ、乱を思い禍を楽しむ者である。戒めずにいられようか、と。こうして、隠居所を久慈郡太田郷の西山に営みました。(伝えるところでは、公が土地を見て回ってこの郡に至ったとき、山水がきわめて美しい一区を見つけました。村人に名を尋ねると、逃山と答えました。公は眉をひそめて、『逃げるということは武家の最も忌むことだ。風景が美しくても、私は住みたくない』と言いました。また、林や泉が静かで奥深く愛すべき場所に出会い、名を尋ねると西山と答えました。公は喜んで、『名があるだけで住むことができる。まして山水の美までそなえているなら』と言って、ついにそこに住みました。)粗末な門と茅葺きの家で、わずかに風と日を防ぐだけでした。詩と酒に心を遊ばせ、淡々と楽しみました。西山隠士と称し、また梅里先生とも呼ばれました。いずれも泰伯・伯夷の風格にならったものだといいます。
解説
この章句が説くこと
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『弘道館記述義』・夷齊・伯夷伝に感じ、兄に家督を譲る決意嘗て夷斉に感を発し、更に儒教を崇ぶ。臣彪謹んで案ずるに、義公に二兄有り。伯は諱は頼重、諡は英侯、是れ高松侯の祖たり。仲は亀丸と曰ひ早夭す。公伯兄を超えて世子と為る。当時尚ほ幼し。年十八に及び、始めて伯夷伝を読み、慨然として感を発し、遂に後を英侯の子に譲らんと欲す。又載籍の已むべからざるを知り、乃ち修史の志有り。寛文辛丑、威公薨ず。厳有公、公をして封を紹がしむ。前一日、公英侯及び諸弟を威公の神位の前に会し、英侯に謂ひて曰く、某は弟を以て兄を踰ゆ、心に負くこと久し。隠忍して今に至るは、先君の在せしを以てなり。明日台使の来たるは、意某をして封を紹がしむるなり。願はくは松千代を得て某の嗣と為さん。然らずんば則ち明日の事、敢へて命を奉ぜずと。侯固辞す。諸弟事の将に測られざらんとするを慮り、力めて侯に勧む、然る後に可す。松千代は靖伯の小字なり。遂に立てて世子と為す。公又侯の次子を請ひて之を養ふ。靖伯蚤く卒するに及び、立てて世子と為す。人公の志の確にして慮の遠きに服す。公又幕府に請ひて、封内の墾田を割き、弟頼元・頼隆に各二万石を頒つ。是れ守山・長沼二侯の祖たり。其の余の諸弟は皆食邑を給す。(諸弟は頼雄と曰ひ、頼泰と曰ひ、頼以と曰ひ、房時と曰ふ。皆采地三千石を給す。天和中に至り、頼雄別に宍戸に封ぜらる。今の宍戸侯の祖なり。)癸卯の歳、公国に就き、太夫士二十七人の職掌を定む。威公薨じて、是に至り三年。公嘗て曰く、三年父の道を改むる無きは、惟に孝子の忍びざるのみならず、三十一年の久しきに至りては、賢否得失既に能く熟知す。挙錯黜陟、以て大過無かるべし。大抵老成事に諳錬し、後輩之を軽々しく変革せんと欲す。其の害甚だし、と。公既に修史に鋭志し、乃ち彰考館を開き、広く才俊を聘す。初め藤原粛の徒は儒を以て業と為し、幕府に聘せらる。然れども皆剃髪髡首し、法印の官を受け、習ひて以て風と為す。公深く之を非とし、儒臣をして皆髪を蓄へしむ。是より復た儒員を置かず。其の修史及び侍講は、皆武士を以て之を兼ね、以て永制と為す。
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『及門遺範』・君子を学ぶ・儒者にならず一、先生孝経を談説するに、愛敬の二字を以て第一義と為し、仁孝一本の義を発す。之を曾孟の言に徴するに、鑿鑿として確拠有り。而して諸経を講論するには、必ず論語を以て首と為す。毎に大宝令に経を分ちて孝経・論語を教授せしむるを誦し、学者をして之を兼ね習はしむ。梅巷筆囊を著さんとして、粗ぼ端緒有るも、未だ就らずして即世す。誠に憾むべしと為す。然れども学者能く二書を熟読し、反復玩味して、果たして意会有らば、庶幾くは先生の意に倍かざらん。 一、先生恒に言ふ、学者は学びて君子と為るなり、学びて儒者と為るに非ず。故に論語は君子の二字を以て始終す、と。又言ふ、道とは成人の道にして、儒者の私業に非ず。故に夫子は徳を成し材を達し、徳行有り、言語有り、政事有り、文学有り、各々其の人の長ずる所に因りて之を成就す。儒は則ち古は道芸を以て人に教ふ。周官に云ふ、儒は道を以て民を得、是れなり。故に夫子子夏を誨へて君子儒と為らしむるは、其の文学に長ずるを以てなり。周末道行はれず、門弟子各々其の学ぶ所を以て後輩に教授し、人称して儒者の道と為す。是れ聖人の本意に非ず。後学者は当に成人を以て自ら期すべく、必ずしも儒者と為るを要せず。学びて君子と為る、是れ則ち孔門の学なり、と。安謂へらく、義公士臣に諭して曰く、士は以て道を学び人倫の義を知らざるべからず。匹夫の勇は貴ぶ所に非ず。道を学び義を知らば、寡人と雖も亦た儒なり、と。此れ儒を以て自ら処す。先生の意と同じからざるに似たり。蓋し公は則ち士大夫に学を勧む。所謂儒者も亦た唯だ道を学ぶ者を指して言ふのみ。而して其の意は人倫を明らかにするに在れば、則ち亦た学びて君子と為り、村夫子と為るに非ざるの謂ひなり。其の言異なりと雖も、其の意は則ち同じきなり。

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