弘道館記述義 / 義公・義公の改革と、慎み深い統治
至於公停之。命國中僧權攝其事。蓋有待也。及公薨別當復舊。識者憾焉。公亦慮太平日久士或廢武備。乃每祭原廟使騎士及卒伍戎衣屬從神輿以爲永制。又深慨世俗委喪祭於浮屠。威公之薨。新相兆域於瑞龍山。葬儀一用儒法。建廟於城中。掌室之設。祭享之典。專遵古禮。(公之於廟。祭雖用儒法。而祭服祭器飲食之類皆遵皇朝之典。坐跪拜趨之節悉從當世之俗。其他若元旦薦兔羹。獻佩刀鞍馬之料。亦依宗室之舊章。固非世之拘儒舍此從彼者之比也。)又賜士人墓地於近郊。毀淫祠者三千八十八。廢佛寺者九百九十七。髮破戒之僧爲編氓者三百四十四人。新立供佛施僧之法。一國靡然風俗大化。公勇於義。篤於行。居恒崇敬幕府。每大風地震。必馳書於日光。遣人於增上寬永二寺。問曰神廟得無恙乎。及其疾篤。幕府差使於水戶訪之。公力疾入城待焉。不敢煩台使於菟裘也。其御衆仁恕。雖卑賤疎遠者。推以腹心。人皆感泣願爲之用。嚴斥奢靡。痛務儉素。不須臾忘警戒。雖老且病。每出不步乃馬。公天姿英毅。加之以威公之敎養。而公又以至孝繼述其志業者。大略如此。
新字:至於公停之。命国中僧権摂其事。蓋有待也。及公薨別当復旧。識者憾焉。公亦慮太平日久士或廃武備。乃毎祭原廟使騎士及卒伍戎衣属従神輿以為永制。又深慨世俗委喪祭於浮屠。威公之薨。新相兆域於瑞竜山。葬儀一用儒法。建廟於城中。掌室之設。祭享之典。専遵古礼。(公之於廟。祭雖用儒法。而祭服祭器飲食之類皆遵皇朝之典。坐跪拝趨之節悉従当世之俗。其他若元旦薦兔羹。献佩刀鞍馬之料。亦依宗室之旧章。固非世之拘儒舎此従彼者之比也。)又賜士人墓地於近郊。毀淫祠者三千八十八。廃仏寺者九百九十七。髪破戒之僧為編氓者三百四十四人。新立供仏施僧之法。一国靡然風俗大化。公勇於義。篤於行。居恒崇敬幕府。毎大風地震。必馳書於日光。遣人於增上寛永二寺。問曰神廟得無恙乎。及其疾篤。幕府差使於水戸訪之。公力疾入城待焉。不敢煩台使於菟裘也。其御衆仁恕。雖卑賤疎遠者。推以腹心。人皆感泣願為之用。厳斥奢靡。痛務倹素。不須臾忘警戒。雖老且病。毎出不歩乃馬。公天姿英毅。加之以威公之教養。而公又以至孝継述其志業者。大略如此。
書き下し
公の時に至りて之を停め、国中の僧に命じて其の事を権摂せしむ。蓋し待つ有るなり。公薨ずるに及び別当旧に復す。識者憾む。公亦太平日久しく士或いは武備を廃せんことを慮り、乃ち原廟を祭る毎に騎士及び卒伍をして戎衣して神輿に属従せしめ、以て永制と為す。又深く世俗の喪祭を浮屠に委ぬるを慨く。威公の薨ずるや、新たに兆域を瑞龍山に相し、葬儀は一に儒法を用ふ。廟を城中に建て、掌室の設け、祭享の典、専ら古礼に遵ふ。(公の廟に於けるや、祭は儒法を用ふと雖も、祭服祭器飲食の類は皆皇朝の典に遵ひ、坐跪拝趨の節は悉く当世の俗に従ふ。其の他元旦に兎羹を薦め、佩刀鞍馬の料を献ずるが若きも、亦宗室の旧章に依る。固より世の拘儒の此を舎てて彼に従ふ者の比に非ず。)又士人に墓地を近郊に賜ふ。淫祠三千八十八を毀ち、仏寺九百九十七を廃し、破戒の僧を髪して編氓と為す者三百四十四人。新たに仏を供し僧に施すの法を立つ。一国靡然として風俗大いに化す。公は義に勇に、行ひに篤し。居恒幕府を崇敬し、大風地震ある毎に、必ず書を日光に馳せ、人を増上・寛永の二寺に遣はして問ふ、神廟恙無きかと。其の疾篤きに及び、幕府使を水戸に差して之を訪ふ。公疾を力めて城に入りて待つ。敢へて台使を菟裘に煩はさざるなり。其の衆を御するに仁恕、卑賤疎遠の者と雖も、推すに腹心を以てす。人皆感泣して之が用を為さんことを願ふ。厳しく奢靡を斥け、痛く倹素を務め、須臾も警戒を忘れず。老い且つ病むと雖も、出づる毎に歩まずして乃ち馬す。公の天姿英毅、加ふるに威公の教養を以てし、而して公又至孝を以て其の志業を継述する者、大略此くの如し。
現代語訳
義公の代になって、これ(別当の制度)を停止し、国中の僧に命じて仮にその事務を取り扱わせました。これは時機を待つためでした。しかし義公が亡くなると、別当は旧に復しました。識者はこれを残念がりました。義公はまた、太平が久しく続いて、士が武備を廃するのではないかと心配し、原廟を祭るたびに、騎士と兵卒に軍装させて神輿に付き従わせ、これを永い定めとしました。また、世俗が葬儀や祭祀を仏寺に任せていることを深く嘆きました。威公が亡くなると、新たに瑞龍山に墓所を選び、葬儀はすべて儒教の作法によりました。廟を城中に建て、掌室(祭祀を掌る場所)を設け、祭祀の典礼はもっぱら古礼に従いました。(公の廟における祭祀は、儒教の作法を用いたとはいえ、祭服や祭器や飲食の類はすべて皇朝の典に従い、座る、跪く、拝む、小走りに進むなどの所作はすべて当世の風俗に従いました。そのほか、元旦に兎の羹を供え、佩刀や鞍馬の費用を献じることなども、宗室(徳川の本家)の旧来の制に依りました。もとより、世の凝り固まった儒者が、これを捨てて彼(中国)に従うのとは違います。)また士人に近郊の墓地を賜りました。淫祠(不適切な祠)三千八十八を壊し、仏寺九百九十七を廃し、戒を破った僧に髪を生やさせて庶民としたのが三百四十四人でした。新たに、仏を供え僧に施す法を定めました。領内はなびくように従い、風俗は大いに変わりました。公は義に勇敢で、行いが篤実でした。常に幕府を崇敬し、大風や地震があるたびに、必ず書状を日光に走らせ、増上寺と寛永寺の二寺に人を遣わして、神廟に異常はないかと尋ねました。公の病が重くなったとき、幕府が使者を水戸に差し向けて見舞いました。公は病をおして城に入って待ちました。幕府の使者に隠居所まで足を運ぶ煩いをかけなかったのです。人々を治めるには仁と思いやりをもって、身分が低くとも遠い間柄でも、腹心のように扱いました。人々はみな感泣して、お役に立ちたいと願いました。奢りを厳しく退け、質素に努め、片時も戒めを忘れませんでした。老いて病んでいても、外出するたびに歩かず馬に乗りました。公の生まれつきの英邁と剛毅さに、威公の教え育てが加わり、公がまた至孝によってその志業を受け継いだことは、おおよそこのようでした。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下この日晩にいたり、天徳の勝地において、如法に葬す。門人四十四人、夜もすから茶毘の左右を囲繞するに、無香無臭、只白煙を見るのみ。第三日に至て、灰塵を掃ふに、その骨白雪の如し。聚会の男女、分取て供養す。又天徳院、並に所住の三院に納む。冷灰を小壺に貯へ、天徳院の北岳に埋んで無縫塔を立て、石平和尚の四字を書す。師の春秋七十七年、幼年にして生死を疑ひ、四十二にして祝髪、六十余にして得悟す。その行業の始末は前書に詳也。利生三十余年、度人数を知ること無し。
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「生を養うは、以て大事に當つるに足らず。惟だ死を送るは、以て大事に當つ可し。」
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論語・学而篇曾子曰く、「終りを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す。」
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礼記・檀弓上子柳(しりゅう)の母死す。子碩(しせき)具(そな)えんことを請う。子柳曰く、「何を以てせんや」と。子碩曰く、「請う庶弟の母を粥(ひさ)がん」と。子柳曰く、「これを如何ぞ其れ人の母を粥ぎて以て其の母を葬らんや。不可なり」と。既に葬りて、子碩賻布(ふふ)の余りを以て祭器を具えんと欲す。子柳曰く、「不可なり。吾これを聞く、君子は喪に家せず。請う諸(これ)を兄弟の貧しき者に班(わか)たん」と。
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『晏子春秋』外篇上・景公台成盆成適願合葬其母晏子諫而許公曰く、「吾之を聞く、五子は隅に満たず、一子は朝に満つべしと。乃の子に非ずや」と。盆成適是に於て事に臨みて敢えて哭せず、事を奉ずるに礼を以てし、畢りて、門を出で、然る後声を挙ぐ。
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礼記・檀弓上子游喪具を問う、夫子曰く、「家の有亡(ゆうぼう)に称(かな)え」と。子游曰く、「有亡悪(いず)くにか斉(ひと)しからん」と。夫子曰く、「有れば、礼を過ぐること毋(な)かれ。苟(いやし)くも亡ければ、首足形を斂め、還(すみ)やかに葬り、棺を縣(つ)りて封ず、人豈にこれを非とする者有らんや」と。 司士賁(ふん)子游に告げて曰く、「請う床に襲(しゅう)せん」と。子游曰く、「諾」と。県子これを聞きて曰く、「汰(おご)れるかな叔氏、専ら礼を以て人に許す」と。

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