弘道館記述義 / 夷齊・伯夷伝に感じ、兄に家督を譲る決意
嘗發感於夷齊。更崇儒敎。臣彪謹案。義公有二兄。伯諱賴重諡英侯。是爲高松侯之祖。仲曰龜丸早夭。公超伯兄爲世子。當時尙幼。及年十八始讀伯夷傳。慨然發感。遂欲讓後於英侯之子。又知載籍之不可已。乃有脩史之志。寬文辛丑威公薨。嚴有公使公紹封。前一日公會英侯及諸弟於威公神位前。謂英侯曰。某以弟踰兄。負心久矣。隱忍至今者以先君在也。明日台使之來意。使某紹封也。願得松千代爲某嗣。不然則明日之事不敢奉命。侯固辭。諸弟慮事將不測。力勸侯然後可。松千代者靖伯之小字也。遂立爲世子。公又請侯之次子而養之。及靖伯蚤卒。立爲世子。人服公之志確而慮遠矣。公又請幕府。割封內墾田。頒弟賴元賴隆。各二萬石。是爲守山長沼二侯之祖。其餘諸弟皆給食邑。(諸弟曰賴雄曰賴泰曰賴以曰房時。皆給采地三千石。至天和中賴雄別封於宍戶侯。今宍戶侯之祖。)癸卯歲公就國。定太夫士二十七人職掌。威公薨。至是三年。公嘗曰三年無改於父道。不惟孝子不能忍。至三十一年之久賢否得失旣能熟知。舉錯黜陟可以無大過。大抵老成諳鍊於事。後輩欲輕變革之。其爲害甚矣。公旣銳志於脩史。乃開彰考館。廣聘才俊。初藤原肅之徒以儒爲業。見聘於幕府。然皆剃髮髡首。受法印官。習以爲風。公深非之。使儒臣皆蓄髮。自是不復置儒員。其脩史及侍講。皆以武士兼之。以爲永制。
新字:嘗発感於夷斉。更崇儒教。臣彪謹案。義公有二兄。伯諱頼重諡英侯。是為高松侯之祖。仲曰亀丸早夭。公超伯兄為世子。当時尚幼。及年十八始読伯夷伝。慨然発感。遂欲譲後於英侯之子。又知載籍之不可已。乃有脩史之志。寛文辛丑威公薨。厳有公使公紹封。前一日公会英侯及諸弟於威公神位前。謂英侯曰。某以弟踰兄。負心久矣。隠忍至今者以先君在也。明日台使之来意。使某紹封也。願得松千代為某嗣。不然則明日之事不敢奉命。侯固辞。諸弟慮事将不測。力勧侯然後可。松千代者靖伯之小字也。遂立為世子。公又請侯之次子而養之。及靖伯蚤卒。立為世子。人服公之志確而慮遠矣。公又請幕府。割封内墾田。頒弟頼元頼隆。各二万石。是為守山長沼二侯之祖。其余諸弟皆給食邑。(諸弟曰頼雄曰頼泰曰頼以曰房時。皆給采地三千石。至天和中頼雄別封於宍戸侯。今宍戸侯之祖。)癸卯歳公就国。定太夫士二十七人職掌。威公薨。至是三年。公嘗曰三年無改於父道。不惟孝子不能忍。至三十一年之久賢否得失既能熟知。舉錯黜陟可以無大過。大抵老成諳錬於事。後輩欲軽変革之。其為害甚矣。公既鋭志於脩史。乃開彰考館。広聘才俊。初藤原粛之徒以儒為業。見聘於幕府。然皆剃髪髡首。受法印官。習以為風。公深非之。使儒臣皆蓄髪。自是不復置儒員。其脩史及侍講。皆以武士兼之。以為永制。
書き下し
嘗て夷斉に感を発し、更に儒教を崇ぶ。臣彪謹んで案ずるに、義公に二兄有り。伯は諱は頼重、諡は英侯、是れ高松侯の祖たり。仲は亀丸と曰ひ早夭す。公伯兄を超えて世子と為る。当時尚ほ幼し。年十八に及び、始めて伯夷伝を読み、慨然として感を発し、遂に後を英侯の子に譲らんと欲す。又載籍の已むべからざるを知り、乃ち修史の志有り。寛文辛丑、威公薨ず。厳有公、公をして封を紹がしむ。前一日、公英侯及び諸弟を威公の神位の前に会し、英侯に謂ひて曰く、某は弟を以て兄を踰ゆ、心に負くこと久し。隠忍して今に至るは、先君の在せしを以てなり。明日台使の来たるは、意某をして封を紹がしむるなり。願はくは松千代を得て某の嗣と為さん。然らずんば則ち明日の事、敢へて命を奉ぜずと。侯固辞す。諸弟事の将に測られざらんとするを慮り、力めて侯に勧む、然る後に可す。松千代は靖伯の小字なり。遂に立てて世子と為す。公又侯の次子を請ひて之を養ふ。靖伯蚤く卒するに及び、立てて世子と為す。人公の志の確にして慮の遠きに服す。公又幕府に請ひて、封内の墾田を割き、弟頼元・頼隆に各二万石を頒つ。是れ守山・長沼二侯の祖たり。其の余の諸弟は皆食邑を給す。(諸弟は頼雄と曰ひ、頼泰と曰ひ、頼以と曰ひ、房時と曰ふ。皆采地三千石を給す。天和中に至り、頼雄別に宍戸に封ぜらる。今の宍戸侯の祖なり。)癸卯の歳、公国に就き、太夫士二十七人の職掌を定む。威公薨じて、是に至り三年。公嘗て曰く、三年父の道を改むる無きは、惟に孝子の忍びざるのみならず、三十一年の久しきに至りては、賢否得失既に能く熟知す。挙錯黜陟、以て大過無かるべし。大抵老成事に諳錬し、後輩之を軽々しく変革せんと欲す。其の害甚だし、と。公既に修史に鋭志し、乃ち彰考館を開き、広く才俊を聘す。初め藤原粛の徒は儒を以て業と為し、幕府に聘せらる。然れども皆剃髪髡首し、法印の官を受け、習ひて以て風と為す。公深く之を非とし、儒臣をして皆髪を蓄へしむ。是より復た儒員を置かず。其の修史及び侍講は、皆武士を以て之を兼ね、以て永制と為す。
現代語訳
「かつて伯夷・叔斉(の話)に感じるところがあり、さらに儒教を尊んだ。」臣の彪が謹んで考えますに、義公には二人の兄がいました。長兄は名は頼重、諡は英侯で、高松侯の祖です。次兄は亀丸といい、早く亡くなりました。公は長兄を飛び越えて世子となりました。当時はまだ幼くありました。十八歳になって、はじめて史記の伯夷伝を読み、深く感動し、ついに後継ぎの座を英侯の子に譲ろうと思いました。また、書物を読み書くことをやめてはならないと知り、修史の志を持ちました。寛文辛丑の年(1661)、威公が亡くなりました。厳有公(徳川家綱)は、公に封を継がせました。その前日、公は英侯と諸弟を威公の位牌の前に集め、英侯に言いました。私は弟でありながら兄を越えました。心に負い目を持つこと久しく、耐え忍んで今に至ったのは、先君がご存命であったからです。明日、幕府の使者が来るのは、私に家督を継がせるためです。どうか松千代を私の跡継ぎとさせてください。そうでなければ、明日のことは命を奉じることはできません、と。英侯は固く辞退しました。諸弟は、事態が予測できなくなることを心配し、懸命に英侯に勧め、そこでようやく承知しました。松千代は靖伯の幼名です。こうして世子に立てました。公はさらに英侯の次子を願い出て養いました。靖伯が早く亡くなると、立てて世子としました。人々は公の志の確かさと思慮の遠さに感服しました。公はさらに幕府に願い出て、領内の開墾地を分け、弟の頼元・頼隆にそれぞれ二万石を与えました。この二人が守山・長沼の二侯の祖です。そのほかの弟たちにはみな領地を給しました。(弟たちは頼雄、頼泰、頼以、房時といい、みな領地三千石を給されました。天和年間になって、頼雄は別に宍戸に封じられました。今の宍戸侯の祖です。)癸卯の年(1663)、公は国元に入り、重臣(太夫・士)二十七人の職掌を定めました。威公が亡くなってこのときで三年です。公はかつてこう言いました。三年間父の道を改めないというのは、ただ孝子の情として忍びないというだけではない。三十一年という長きに及んだのだから、賢い者と愚かな者、得たことと失ったことを、すでによく熟知している。人を挙げ置き、退け進める上で、大きな過ちはあるまい。たいてい、老成した者は事柄に慣れ、後輩はこれを軽々しく変えたがる。その害は甚だしい、と。公はすでに修史に強い志を持ち、彰考館を開いて、広く才能ある人を招きました。当初、藤原粛(藤原惺窩)の流れの者たちは儒を職業とし、幕府に招かれました。しかし皆、頭を剃り、法印の官位を受け、それが習わしとなっていました。公はこれを深くよくないと考え、儒臣にはみな髪を伸ばさせました。これ以降、儒員を置かなくなりました。修史と侍講は、すべて武士が兼ねることとして、永い定めとしました。
解説
この章句が説くこと
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