弘道館記述義 / 義公・義公の生い立ちと神道の復興
義公繼述。臣彪謹案。義公實爲威公第三子。年六歲立爲世子。(公以寬永戊辰六月十日生於三木之次宅。母靖定夫人谷氏。左馬介重則女。小字千代松。綿衣麁服。二婢一奴奉養極儉。三木宅在水戶城南柵町。今所謂中御殿之地是也。瘞公胞衣之處見存。)公生而岐嶷。風神俊邁。其幼旣勇於敢爲。(公嘗從威公觀斬首。因於櫻馬場。至夜威公試公曰能提晝間所斬之首來乎。馬場在邸西南樹木蒙密闇夜難辨路。公直赴之模索獲首。而不勝其重。挈髮曳來。復無難色。威公賜刀賞之。時年七歲。公善泅。威公試之於淺草川。公絕流而濟。時年十二。威公壯之。又賜宗近所造小刀。)深爲威公所鍾愛。乃威公薨襲封。初威公學神道。然蓋止卜部家所傳。又好文學。排佛氏。常使侍臣讀經史而聽之。亦未暇施之於事業也。義公繼述其志。嘗脩造吉田靜祠。吉田者祀日本武尊。靜者祀手力雄命。列在延喜祀典。而往往爲浮屠所潰。公悉徙僧徒淸其地。命祠官修其廢典。其他正祠在封內者。亦命脩造。每一村必奉一祠。以一民心。先是威公建東照宮原廟於城外常盤山。使江戶寬永寺子院遙主之。名曰別當。
新字:義公継述。臣彪謹案。義公実為威公第三子。年六歳立為世子。(公以寛永戊辰六月十日生於三木之次宅。母靖定夫人谷氏。左馬介重則女。小字千代松。綿衣麁服。二婢一奴奉養極倹。三木宅在水戸城南柵町。今所謂中御殿之地是也。瘞公胞衣之処見存。)公生而岐嶷。風神俊邁。其幼既勇於敢為。(公嘗従威公観斬首。因於桜馬場。至夜威公試公曰能提昼間所斬之首来乎。馬場在邸西南樹木蒙密闇夜難弁路。公直赴之模索獲首。而不勝其重。挈髪曳来。復無難色。威公賜刀賞之。時年七歳。公善泅。威公試之於浅草川。公絶流而済。時年十二。威公壮之。又賜宗近所造小刀。)深為威公所鍾愛。乃威公薨襲封。初威公学神道。然蓋止卜部家所伝。又好文学。排仏氏。常使侍臣読経史而聴之。亦未暇施之於事業也。義公継述其志。嘗脩造吉田静祠。吉田者祀日本武尊。静者祀手力雄命。列在延喜祀典。而往往為浮屠所潰。公悉徙僧徒清其地。命祠官修其廃典。其他正祠在封内者。亦命脩造。毎一村必奉一祠。以一民心。先是威公建東照宮原廟於城外常盤山。使江戸寛永寺子院遥主之。名曰別当。
書き下し
義公継述す。臣彪謹んで案ずるに、義公は実に威公の第三子たり。年六歳にして立ちて世子と為る。(公は寛永戊辰六月十日、三木の次宅に生まる。母は靖定夫人谷氏、左馬介重則の女。小字は千代松。綿衣麁服、二婢一奴奉養すること極めて倹なり。三木の宅は水戸城南の柵町に在り。今の所謂中御殿の地是れなり。公の胞衣を瘞めし処見に存す。)公生まれて岐嶷、風神俊邁なり。其の幼きにして既に敢為に勇なり。(公嘗て威公に従ひて斬首を観る。因りて桜馬場に於て、夜に至り威公公を試みて曰く、能く昼間斬る所の首を提げ来たらんかと。馬場は邸の西南に在り、樹木蒙密にして闇夜に路を弁じ難し。公直ちに赴き模索して首を獲、其の重きに勝へず、髪を挈げて曳き来たり、復た難色無し。威公刀を賜ひて之を賞す。時に年七歳。公善く泅ぐ。威公之を浅草川に試む。公流れを絶ちて済る。時に年十二。威公之を壮とす。又宗近の造る所の小刀を賜ふ。)深く威公の鍾愛する所と為る。乃ち威公薨じて封を襲ぐ。初め威公は神道を学ぶも、蓋し卜部家の伝ふる所に止まる。又文学を好み、仏氏を排す。常に侍臣をして経史を読ましめて之を聴く。亦未だ之を事業に施すに暇あらず。義公其の志を継述す。嘗て吉田・静の祠を脩造す。吉田は日本武尊を祀り、静は手力雄命を祀る。延喜の祀典に列す。而るに往往にして浮屠の潰す所と為る。公悉く僧徒を徙して其の地を清め、祠官に命じて其の廃典を脩めしむ。其の他の正祠の封内に在る者も、亦命じて脩造せしむ。一村毎に必ず一祠を奉じ、以て民心を一にす。是より先、威公、東照宮の原廟を城外の常盤山に建て、江戸寛永寺の子院をして遥かに之を主らしむ。名づけて別当と曰ふ。
現代語訳
「義公(徳川光圀)は、その志を受け継いだ。」臣の彪が謹んで考えますに、義公は威公の第三子です。六歳で世子に立てられました。(公は寛永戊辰の年(1628)六月十日、三木の次宅で生まれました。母は靖定夫人谷氏、左馬介重則の娘です。幼名は千代松。木綿の衣と粗末な服で、二人の侍女と一人の下男が養育し、極めて質素でした。三木の邸は水戸城南の柵町にあり、いまのいわゆる中御殿の場所です。公の胞衣(へその緒・胎盤)を埋めた所が今も残っています。)公は生まれながらに聡明で、風采と精神が抜きんでていました。幼少のうちから勇ましく、思い切ったことができました。(公はあるとき威公に従って斬首を見学しました。そのあと桜馬場で、夜になって威公が公を試して、昼間に斬った首を提げて来られるか、と言いました。馬場は邸の西南にあり、樹木が茂って闇夜では道がわかりにくい所です。公はすぐに赴き、手探りで首を見つけましたが、重さに耐えられず、髪をつかんで引きずって来て、難色を示しませんでした。威公は刀を賜ってこれをほめました。このとき七歳でした。公は泳ぎが得意でした。威公が浅草川で試しました。公は流れを横切って渡りました。このとき十二歳でした。威公はこれを勇ましいとして、宗近の作った小刀を賜りました。)公は威公に深く愛されました。そして威公が亡くなると、封を継ぎました。当初、威公は神道を学びましたが、卜部家の伝えたものにとどまりました。また文学を好み、仏教を排しました。常に侍臣に経書や史書を読ませて聴いていました。まだそれを事業として実行する余裕はありませんでした。義公はその志を受け継ぎました。以前に吉田と静の祠を修造しました。吉田は日本武尊を祀り、静は手力雄命を祀る祠で、延喜式の祭祀の書に列しています。それなのにしばしば仏寺に損なわれていました。公はすべて僧徒を移してその地を清め、祠官に命じて廃れた祭典を修めさせました。そのほか、領内にある正しい祠にもまた命じて修造させました。一つの村ごとに必ず一つの祠を祀らせ、民心を一つにしました。これより前、威公は東照宮の原廟(祖霊をまつる廟)を城外の常盤山に建て、江戸の寛永寺の子院に遠くから管理させ、名づけて別当としていました。
解説
この章句が説くこと
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『弘道館記述義』・義公・義公の改革と、慎み深い統治公の時に至りて之を停め、国中の僧に命じて其の事を権摂せしむ。蓋し待つ有るなり。公薨ずるに及び別当旧に復す。識者憾む。公亦太平日久しく士或いは武備を廃せんことを慮り、乃ち原廟を祭る毎に騎士及び卒伍をして戎衣して神輿に属従せしめ、以て永制と為す。又深く世俗の喪祭を浮屠に委ぬるを慨く。威公の薨ずるや、新たに兆域を瑞龍山に相し、葬儀は一に儒法を用ふ。廟を城中に建て、掌室の設け、祭享の典、専ら古礼に遵ふ。(公の廟に於けるや、祭は儒法を用ふと雖も、祭服祭器飲食の類は皆皇朝の典に遵ひ、坐跪拝趨の節は悉く当世の俗に従ふ。其の他元旦に兎羹を薦め、佩刀鞍馬の料を献ずるが若きも、亦宗室の旧章に依る。固より世の拘儒の此を舎てて彼に従ふ者の比に非ず。)又士人に墓地を近郊に賜ふ。淫祠三千八十八を毀ち、仏寺九百九十七を廃し、破戒の僧を髪して編氓と為す者三百四十四人。新たに仏を供し僧に施すの法を立つ。一国靡然として風俗大いに化す。公は義に勇に、行ひに篤し。居恒幕府を崇敬し、大風地震ある毎に、必ず書を日光に馳せ、人を増上・寛永の二寺に遣はして問ふ、神廟恙無きかと。其の疾篤きに及び、幕府使を水戸に差して之を訪ふ。公疾を力めて城に入りて待つ。敢へて台使を菟裘に煩はさざるなり。其の衆を御するに仁恕、卑賤疎遠の者と雖も、推すに腹心を以てす。人皆感泣して之が用を為さんことを願ふ。厳しく奢靡を斥け、痛く倹素を務め、須臾も警戒を忘れず。老い且つ病むと雖も、出づる毎に歩まずして乃ち馬す。公の天姿英毅、加ふるに威公の教養を以てし、而して公又至孝を以て其の志業を継述する者、大略此くの如し。
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『弘道館記述義』・日本武尊・威公の勇武と、士を養う恩威並び施す姿夙に日本武尊の人と為りを慕ひ、神道を尊び武備を繕ふ。臣彪謹んで案ずるに、景行帝の時、熊襲屢々叛く。帝皇子小碓尊に命じて之を討たしむ。皇子年僅かに十六、其の智勇に憑りて直ちに渠魁を殲す。厥の後又詔を奉じて蝦夷を征す。其の発するや、伊勢神宮を拝し、其の神剣を奉じて出づ。遂に能く妖氛を駆除し辺陲を平定す。蓋し当時蝦夷の種類内地に雑処し、叛服常ならず大いに民害を為す。是に至りて遠近懾服し、東北の地始めて皇化に霑ふ。帝嘗て皇子を目して神人と為す。而して強暴冥頑なること川上梟帥の若き、恐怖畏縮して戮に臨み、日本武尊の号を献ず。千載の下、凜凜として猶ほ生気有り。我が威公夙に東陲の重寄を受く。其の地は皆皇子の餘烈の存する所にして、皇子の祠、適々水戸の南郊に在り。(吉田神社と称す。延喜式の所謂名神大なり。)古木蓊鬱として屹として府城と相峙す。則ち感懐の餘り、慨然として欽慕の情を興すは、信に以有るなり。公嘗て神道を萩原兼従に受け、尤も神祇を重んず。寛永中大猷公疾に罹る。公之を憂へ、健御雷神に祷る。既にして大猷公癒ゆ。公乃ち鹿島の祠を脩めて以て賽す。又嘗て親しく其の祠を拝し、威儀甚だ謹めり。公は勇武天性に根ざし、傍ら伎芸に長ず。嘗て大猷公に従ひて板橋に猟し、野猪数頭を射殪す。大猷公恒に称して曰く、水戸殿は今の能州なりと。能州は蓋し平教経を謂ふなり。其の士を養ふや恩威並び施す。嘗て国に就くに、岩本越中なる者有り、銃を放ちて鷺を城上の樹に獲たり。公召して之を詰る。対へて曰く、臣は善く病む。聞く、鷺を食へば癒ゆべしと。当時唯だ鷺を是れ視る。然れども臣の鷺と孰れか重きと。公笑ひて曰く、汝と法と孰れか重きと。越中屈服す。公竟に舎きて問はず。明暦中江戸に大火あり、延びて我が邸に及ぶ。近臣向坂弥九郎、焰を侵して公の愛する所の書を持して出づ。有司賞せんことを請ふ。公曰く、寡人も亦深く之を嘉す。然れども之を賞すれば則ち他日士を水火に傷つけんことを恐ると。果して賞せず。島原の賊の伏誅するや、鍋島氏律を犯して先登す。法は国除に当たる。幕府其の罪を議す。公曰く、厳法もて後を懲らすは戦国の事なり。今天下の人安んじて復た反乱有るを容れず。而して重罰軽賞せば、諸侯何をか頼まん。偉勲彼の若くして国除かるるは、某命を奉ずるを肯んぜずと。大猷公深く之を納る。議遂に寝む。戦国以来殉死盛んに行はれ、諸侯或いは其の多きを以て誇る。公遺命して之を禁ず。亡幾くもなく幕府大いに其の禁を天下に布く。公実に之が倡を為せり。公嘗て辺寇を慮り、堠を沿海各処に設けて以て緩急を報ず。当時東海の針路未だ通ぜず、外夷の患は常に西陲に在り。後百数十年、北虜蝦夷を擾し、文政年間に至りて、夷船の東海に出没する者、歳として無きはなし。各処の堠台始めて其の用を為す。嗚呼公の慮る所遠きかな。東照宮、台徳公に遺命するに、公を以て腰刀に比す。蓋し其の愛護して身を防ぐべきに取るなり。是に於て台徳公特に親信を加へ、大猷公の時に及びて亦屢々公を延きて謀議に与らしむ。人其の故を知る莫きなり。義公恒に諸侍臣に語りて云ふ。
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『弘道館記述義』・威公・水戸の祖・威公と徳川三家の成り立ち吾が祖威公、実に東土に封を受く。臣彪謹んで案ずるに、初め威公の生まるるや、島津義久、請ひて養ひて子と為さんとす。東照宮許さず。年甫めて三歳にして之を常陸下妻に封ず。則ち当時蓋し既に公を以て東陲を鎮するの意有り。年七歳にして水戸に改封す。水戸は常陸の巨鎮なり。東は大海に臨み、西は東野に連なり、南は北総に接し、北は陸奥に通ず。佐竹氏世々之に据り関左に称雄す。東照宮の佐竹氏を出羽に徙すに及び、浄鑑公の子(東照宮第□子、諱は信吉、武田氏を冒す。)、南龍公相踵ぎて玆に封ぜられ、是に至りて威公代はる。時に敬公既に尾張に封ぜられ、南龍公は遠江に徙り、遂に紀伊に封ぜらる。而して所謂三家の形成れり。抑も敬公は東照宮に於て第八子たり、南龍公及び威公は最少の公子たり。而るに皆大藩に膺り、歴世相承けて亜相黄門の官に任ず。名望の隆んなること、天下の諸侯敢へて礼を抗ふる無し。其の故何ぞや。臣嘗て之を先臣に聞く。曰く、慶長庚子関原の役、我が軍大捷し、東照宮の覇業蓋し此に成る。而して敬公は実に是の歳に生まる。二年を越えて壬寅、南龍公生まる。明年癸卯、東照宮始めて大将軍に任ぜられ、而して我が威公生まる。(公は是の歳八月、伏見城に生まる。母は正木氏、左近大夫頼忠の女、南龍公と同じく出づ。時に太田氏、東照宮に寵有りて子無し。乃ち威公の慈母たらしむ。太田氏は所謂英勝院なり。)是より先、台徳公既に立ちて世子と為る。其の他の公子も一に非ず。然れども戦国乱離の際、或いは出でて他姓を冒し、或いは不幸にして命を隕とす。関原奏功の後に至りて、東照宮の齢方に耳順、而して三公子振振として四年の間に生まる。又皆岐嶷成立して英傑の姿有る者なり。殆んど天意有らん。則ち其の眷遇は固より他の子の比に非ず。故に嘗て台徳公に遺命して以て善く三公子を視ること。病篤きに及び、又三家の傅相を召し、面に輔導を嘱す。乃ち其の維城鼎立し幕府を輔翼して永く皇家の藩屏たる所以の者は、蓋し偶然に非ずと云ふ。
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『弘道館記述義』・明倫正名・禄を食む者が報いるべき恩の本臣彪謹んで案ずるに、寛永丙寅、威公、台徳・大猷二公に従ひ、京師に朝す。始めて権中納言に任ぜられ三位に叙せらる。後また大猷公に従ひて入朝す。厥の後、朝覲の礼行はれず。事有る毎に、人をして西上せしめ奉上の誠を輸すに過ぎず。而れども位階官銜に至りては、則ち世、祖先の例を視て沈滞有ること無し。乃ち家老以下陪臣の賤の若きも、亦敢へて爵命を辱くす。朝廷の武家を待つ所以、優渥と謂ふべし。初め威公の下妻に封ぜらるるや、食邑十万石に過ぎず。水戸に移封せらるるに及び、二十五万石を食む。東照宮嘗て諸侯に課して名護屋城を脩めしむ。又水戸城を脩めんと欲し、我が国老蘆沢信重を召して謂ひて曰く、吾将に明年水戸に臨み、親ら其の役を視んとすと。会々其の薨じて果たさず。台徳公遺訓を奉じて本藩を優待し、三万石を加ふ。(所謂松岡及び小川等是なり。)大猷公又水戸城を脩めんと欲し、既に伊豆国に課して山を穿ち石を取らしむ。事も亦果たさず。(江戸隅田川東岸に石場なる者数所有り。便ち当時伊豆石を置くの地なり)別に公子頼重を常陸下館に封ず。又讃岐に改封す。義公嘗て地を諸弟に頒つ。常憲公に及び、別に邑を陸奥に賜ふ。其の旧邑は本藩に復帰す。通算して墾田三十五万石と号す。然れども尾・紀二国と広狭懸絶す。其の鹵簿礼数は則ち鼎立頡頏す。以て故に災害事故有る毎に、幕府大いに財弊を出して以て之を助くる者、世として無きは無し。幕府の懿親を遇する所以、亦至厚と謂ふべし。今夫れ国中の士大夫、太平の沢に沐浴し、儼然として親藩麾下と称す。而して飽食暖衣、佚楽是れ耽る。其の常言に曰く、苟くも悪を為さざれば則ち以て禄秩を保つべしと。甚だしきは則ち曰く、租入甚だ減ず、何ぞ農夫の無状なるやと。廩米秕悪なり、何ぞ有司の鄙吝なるやと。嗚呼其の租入は孰れか之を賜ひ、廩米は孰れか之を給するや。若し其れ悪を為さざる者は、樵夫牧豎蚕戸鹺丁の当に然るべき所なり。樵牧蚕鹺は租入を収めず廩米を食らはずして、終身矻矻として山海林野に従事す。巨室世家は則ち食らひて其の事を怠る。僅かに其の悪を為さざるを以て、蚕鹺樵牧の民に比す。亦憫むべからずや。抑も亦尽く其の本に報ゆる所以を思へ。何となれば則ち父母なり、君なり、祖宗なり。然らば則ち臣子たる者、誠に宜しく其の身を正し其の道を行ひ、以て君父に事へ以て祖宗に報ゆべし。邦君たる者も亦宜しく其の士民を撫育し、幕府を輔翼し以て列聖の鴻恩に報ゆべし。詩に曰く、爾の祖を念ふ勿からんや、聿に其の徳を脩めよと。所謂斯の道を推弘し先徳を発揚する者は、其れ亦斯に在るか。
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『弘道館記述義』・館の設け・義公が学校を設けなかった理由此れ則ち館の設けらるる所以なり。臣彪謹んで案ずるに、慶元櫜を建て文運日に開け、列国の諸侯、学校を城邑に設け、子弟を教育する者、枚挙に遑あらず。我が水藩、前に威・義二公有りて其の基を建て、後に文・武二公有りて其の緒を修む。而るに学校の設け独り聞くこと無き者は、亦以有るなり。昔者朱之瑜、明国より来るや、義公聘して師と為す。嘗て臣僚をして就きて釈奠等の儀節を習はしむ。又梓人に命じて其の口授を受け、闕里の制を摸せしむ。凡そ殿堂廊廡より以て門牆器物に至るまで、皆約して其の様を刻む。(享和中、文恭公大いに昌平坂の聖舎を修む。而して大成殿の制は、専ら我が藩の蔵する所の木様に依ると云ふ。)当時公、大いに国学を起こすの志有りて果たさず。蓋し其の意に謂へらく、道は人の当に学ぶべき所にして、世或いは視て儒者の私業と為す。我の儒員を廃するは、人人をして儒たらしめんと欲すればなり。国学の設け、其の規制を大にし、之を政に合せんと欲すれば、則ち朝夕の辦ずる所に非ず。若し然らずんば則ち人遂に一精舎を以て目さん。教へに益無く治に害有り。家ごとに誦し戸ごとに読ましむるの愈れりと為すに如かず。此れ其の志有りて果たさざる所以なり。学問の道は、尋常有司の忌む所。財用の出□□胥吏の所不欲。乃ち諉りて曰く、義公の文を尚ぶを以てすら猶ほ学を設けず、後嗣何ぞ敢へて之に違はんやと。況んや今各国既に先鞭を着く、而して我之に倣ふは、亦晩からずや。此れ後世の学を設けざる所以なり。然らば則ち義公の学を設けざるは道の或いは廃せんことを恐るればなり、後世の学を設けざるは道の或いは興らんことを恐るればなり。抑も義公は意を修史に鋭くす。故に当時文学の士、
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『弘道館記述義』・夷齊・伯夷伝に感じ、兄に家督を譲る決意嘗て夷斉に感を発し、更に儒教を崇ぶ。臣彪謹んで案ずるに、義公に二兄有り。伯は諱は頼重、諡は英侯、是れ高松侯の祖たり。仲は亀丸と曰ひ早夭す。公伯兄を超えて世子と為る。当時尚ほ幼し。年十八に及び、始めて伯夷伝を読み、慨然として感を発し、遂に後を英侯の子に譲らんと欲す。又載籍の已むべからざるを知り、乃ち修史の志有り。寛文辛丑、威公薨ず。厳有公、公をして封を紹がしむ。前一日、公英侯及び諸弟を威公の神位の前に会し、英侯に謂ひて曰く、某は弟を以て兄を踰ゆ、心に負くこと久し。隠忍して今に至るは、先君の在せしを以てなり。明日台使の来たるは、意某をして封を紹がしむるなり。願はくは松千代を得て某の嗣と為さん。然らずんば則ち明日の事、敢へて命を奉ぜずと。侯固辞す。諸弟事の将に測られざらんとするを慮り、力めて侯に勧む、然る後に可す。松千代は靖伯の小字なり。遂に立てて世子と為す。公又侯の次子を請ひて之を養ふ。靖伯蚤く卒するに及び、立てて世子と為す。人公の志の確にして慮の遠きに服す。公又幕府に請ひて、封内の墾田を割き、弟頼元・頼隆に各二万石を頒つ。是れ守山・長沼二侯の祖たり。其の余の諸弟は皆食邑を給す。(諸弟は頼雄と曰ひ、頼泰と曰ひ、頼以と曰ひ、房時と曰ふ。皆采地三千石を給す。天和中に至り、頼雄別に宍戸に封ぜらる。今の宍戸侯の祖なり。)癸卯の歳、公国に就き、太夫士二十七人の職掌を定む。威公薨じて、是に至り三年。公嘗て曰く、三年父の道を改むる無きは、惟に孝子の忍びざるのみならず、三十一年の久しきに至りては、賢否得失既に能く熟知す。挙錯黜陟、以て大過無かるべし。大抵老成事に諳錬し、後輩之を軽々しく変革せんと欲す。其の害甚だし、と。公既に修史に鋭志し、乃ち彰考館を開き、広く才俊を聘す。初め藤原粛の徒は儒を以て業と為し、幕府に聘せらる。然れども皆剃髪髡首し、法印の官を受け、習ひて以て風と為す。公深く之を非とし、儒臣をして皆髪を蓄へしむ。是より復た儒員を置かず。其の修史及び侍講は、皆武士を以て之を兼ね、以て永制と為す。

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