弘道館記述義 / 皇化陵夷・皇化が衰える理由と盛んになる理由
皇化陵夷。臣彪謹案。大一統之業。成於橿原。弘於磯城島。隆於輕島。若夫典章制度。大備於豐崎。而葛城實贊焉。上世淳朴。君臣稱名。而亦奉尊號。曰神日本磐余彦。曰御肇國。曰胎中。曰天萬豐日。曰天命開別。或頌其德。或述其靈。蓋皆當時贊美之稱。中世文物漸盛。乃追奉謚號。曰神武。曰崇神。曰應神。曰孝德。曰天智。皆切中其實。其他纏向之爲垂仁。高津之爲仁德。不亦敢苟一字。今恭本當時尊號。又因其謚號。以想像列聖之德業。則稽古之義思過半矣。由是言之。尚武敬神。仁以愛民。智以明物者。蓋列聖經綸之大端。遵之則天業恢弘。違之則皇化陵夷。汙隆之機。捷於影響。古者祭神也。天皇親焉。皇女侍焉。明神之裔主焉。其征不服也。亦親臨之。或遣皇子。或命重臣。其治民薄稅斂寬徭役。損上而益下。其理庶務也。明名分愼國體。布公道勵實效。此天業之所以恢弘。中葉以降上下佞佛。而敬神之道岐焉。王公大人手不知兵。而尙武之俗移焉。奢侈日長。聚斂掊克。而愛民之仁衰矣。淫風相競。宮壺不肅。名實錯亂。官失其守。拘格例脩邊幅。而明物之智蔽矣。皇化陵夷職是之由。可悲也夫。雖然舊章故實未全頹敗。流風遺俗未盡淪喪。故英明之君一出能脩其緖。則法度綱紀翕然復擧。若光仁桓武宇多後三條後醍醐諸帝。或總攬乾綱。或殄滅兇賊。其功或成或不終。而其成者必能遵神皇之道也。其不終者必反之者也。豈惟中興之君爲然哉。藤原也。平也。源也。鎌倉也。室町也。人臣之把持大權。其故非一。而原其祖先之所以盛且興。未嘗不假仁厚勇武儉素忠誠之道也。觀其子孫之所以廢衰。亦未嘗有不反其道者也。蓋曰大臣。曰關白。曰將軍。名位雖殊。其實皆所以代天工弘皇化。故奉神聖之謨訓則榮。從一己之私欲則辱。可不戒乎。
新字:皇化陵夷。臣彪謹案。大一統之業。成於橿原。弘於磯城島。隆於軽島。若夫典章制度。大備於豊崎。而葛城実賛焉。上世淳朴。君臣称名。而亦奉尊号。曰神日本磐余彦。曰御肇国。曰胎中。曰天万豊日。曰天命開別。或頌其徳。或述其霊。蓋皆当時賛美之称。中世文物漸盛。乃追奉謚号。曰神武。曰崇神。曰応神。曰孝徳。曰天智。皆切中其実。其他纏向之為垂仁。高津之為仁徳。不亦敢苟一字。今恭本当時尊号。又因其謚号。以想像列聖之徳業。則稽古之義思過半矣。由是言之。尚武敬神。仁以愛民。智以明物者。蓋列聖経綸之大端。遵之則天業恢弘。違之則皇化陵夷。汚隆之機。捷於影響。古者祭神也。天皇親焉。皇女侍焉。明神之裔主焉。其征不服也。亦親臨之。或遣皇子。或命重臣。其治民薄税斂寛徭役。損上而益下。其理庶務也。明名分慎国体。布公道励実効。此天業之所以恢弘。中葉以降上下佞仏。而敬神之道岐焉。王公大人手不知兵。而尚武之俗移焉。奢侈日長。聚斂掊克。而愛民之仁衰矣。淫風相競。宮壺不粛。名実錯乱。官失其守。拘格例脩辺幅。而明物之智蔽矣。皇化陵夷職是之由。可悲也夫。雖然旧章故実未全頽敗。流風遺俗未尽淪喪。故英明之君一出能脩其緒。則法度綱紀翕然復挙。若光仁桓武宇多後三条後醍醐諸帝。或総攬乾綱。或殄滅兇賊。其功或成或不終。而其成者必能遵神皇之道也。其不終者必反之者也。豈惟中興之君為然哉。藤原也。平也。源也。鎌倉也。室町也。人臣之把持大権。其故非一。而原其祖先之所以盛且興。未嘗不仮仁厚勇武倹素忠誠之道也。観其子孫之所以廃衰。亦未嘗有不反其道者也。蓋曰大臣。曰関白。曰将軍。名位雖殊。其実皆所以代天工弘皇化。故奉神聖之謨訓則栄。従一己之私欲則辱。可不戒乎。
書き下し
皇化陵夷。臣彪謹んで案ずるに、大一統の業は橿原に成り、磯城島に弘まり、軽島に隆んなり。夫の典章制度の若きは、豊崎に大いに備はり、而して葛城実に之を賛く。上世は淳朴にして、君臣名を称し、而も亦尊号を奉る。神日本磐余彦と曰ひ、御肇国と曰ひ、胎中と曰ひ、天万豊日と曰ひ、天命開別と曰ふ。或いは其の徳を頌し、或いは其の霊を述ぶ。蓋し皆当時の賛美の称なり。中世文物漸く盛んにして、乃ち謚号を追奉す。神武と曰ひ、崇神と曰ひ、応神と曰ひ、孝徳と曰ひ、天智と曰ふ。皆切に其の実に中る。其の他、纏向の垂仁たる、高津の仁徳たる、亦敢へて一字を苟もせず。今恭しく当時の尊号に本づき、又其の謚号に因りて、以て列聖の徳業を想像せば、則ち稽古の義思ひ半ばに過ぎん。是に由りて之を言へば、武を尚び神を敬ひ、仁以て民を愛し、智以て物を明らかにする者は、蓋し列聖経綸の大端なり。之に遵へば則ち天業恢弘し、之に違へば則ち皇化陵夷す。汙隆の機、影響よりも捷し。古は神を祭るや、天皇親らし、皇女侍し、明神の裔主たり。其の不服を征するや、亦親臨し、或いは皇子を遣はし、或いは重臣に命ず。其の民を治むるや、税斂を薄くし徭役を寛くし、上を損して下を益す。其の庶務を理むるや、名分を明らかにし国体を慎み、公道を布き実効を励ます。此れ天業の恢弘する所以なり。中葉以降、上下仏に佞して、敬神の道岐れ、王公大人手に兵を知らずして、尚武の俗移り、奢侈日に長じ、聚斂掊克して、愛民の仁衰へ、淫風相競ひ、宮壺粛ならず、名実錯乱し、官其の守を失ひ、格例に拘はり辺幅を脩めて、明物の智蔽はる。皇化陵夷職として是に由る。悲しきかな。然りと雖も旧章故実未だ全くは頽敗せず、流風遺俗未だ尽くは淪喪せず。故に英明の君一たび出づれば能く其の緒を脩め、則ち法度綱紀翕然として復た挙がる。光仁、桓武、宇多、後三条、後醍醐の諸帝の若き、或いは乾綱を総攬し、或いは兇賊を殄滅す。其の功或いは成り或いは終らざるも、其の成る者は必ず能く神皇の道に遵ひ、其の終らざる者は必ず之に反する者なり。豈に惟だ中興の君のみ然らんや。藤原なり、平なり、源なり、鎌倉なり、室町なり、人臣の大権を把持する、其の故一に非ざれども、其の祖先の盛んにして且つ興る所以を原ぬれば、未だ嘗て仁厚勇武倹素忠誠の道を仮らずんばあらず。其の子孫の廃衰する所以を観れば、亦未だ嘗て其の道に反せざる者有らざるなり。蓋し大臣と曰ひ、関白と曰ひ、将軍と曰ひ、名位殊なると雖も、其の実は皆天工に代はりて皇化を弘むる所以なり。故に神聖の謨訓を奉ずれば則ち栄え、一己の私欲に従へば則ち辱めらる。戒めざるべけんや。
現代語訳
「皇化(天皇の徳による感化)が衰える。」臣の彪が謹んで考えますに、天下統一の業は橿原で成り、磯城島で広まり、軽島で盛んになりました。典章制度については、豊崎(孝徳天皇の時代)に大いに整い、葛城(天智天皇)が実際にこれを助けました。上代は純朴で、君臣が名で呼び合い、その上で尊号を奉りました。神日本磐余彦、御肇国、胎中、天万豊日、天命開別などと呼び、その徳をたたえ、あるいはその霊威を述べたものです。思うに、いずれも当時のほめ称えの呼び名です。中世になって文物がしだいに盛んになると、謚号(おくり名)を後から奉りました。神武、崇神、応神、孝徳、天智などといい、いずれもその実際によく当たっています。そのほか、纏向の垂仁、高津の仁徳など、一字もおろそかにしていません。いま、つつしんで当時の尊号に基づき、さらに謚号によって歴代の聖天子の徳業を想像すれば、古を考える意義の半ばは思い至るでしょう。このことから言えば、武を尊び神を敬い、仁で民を愛し、智で物事を明らかにすることは、歴代の聖天子が国を治める大きな要点です。これに従えば天の業は広がり、これに背けば皇化は衰えます。盛衰の分かれ目は、影や響きよりも速いのです。古くは神を祭るとき、天皇が自ら行い、皇女が侍り、明神の子孫が主となりました。服従しない者を征するときも、天皇が自ら臨み、あるいは皇子を遣わし、あるいは重臣に命じました。民を治めるには、税を軽くし、労役を緩め、上を損ねて下を益しました。さまざまな政務を処理するには、名分を明らかにし、国体を慎み、公の道を行き渡らせ、実際の効果を励ましました。これが天の業が広がった理由です。中ごろ以降は、上も下も仏に媚びて敬神の道が分かれ、王公大人は手に兵を知らなくなって尚武の風が移り、贅沢が日に日に増し、税を取り立てて民から奪い、愛民の仁が衰え、淫らな風が競い合い、後宮が粛正されず、名と実が乱れ、官が持ち場を失い、格式や前例にこだわり見かけを整えて、物事を明らかにする智が曇りました。皇化が衰えた原因はまさにここにあります。悲しいことです。それでも、旧来の制度や故実はまだすべては崩れず、流風遺俗もまだ尽くは失われていません。だから英明な君が一度現れると、その緒を整えることができ、法度と綱紀がたちまち再び挙がります。光仁・桓武・宇多・後三条・後醍醐の諸帝のように、あるいは政の綱を総覧し、あるいは凶賊を滅ぼしました。その功績が成った場合も成らなかった場合もありますが、成った者は必ず神皇の道に従い、成らなかった者は必ずこれに背いた者です。中興の君だけがそうなのではありません。藤原・平・源・鎌倉・室町など、臣下が大権を握った理由は一つではありませんが、その祖先が盛んになり興った理由をたどれば、仁厚・勇武・倹素・忠誠の道を借りなかった者はありません。その子孫が衰えた理由を見ても、その道に背かなかった者はありません。大臣、関白、将軍と名や位は異なっても、その実はみな天の仕事に代わって皇化を広めるためのものです。だから神聖の教えを奉ずれば栄え、自分一人の私欲に従えば辱めを受けます。戒めずにいられましょうか。
解説
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『弘道館記述義』・文武不岐・文と武は車の両輪で分けてはならない文武岐れず。臣彪謹んで案ずるに、神聖は武を以て基を建て、而して文も亦固より其の中に寓す。猶ほ夫れ西土三代の忠質文に於けるがごとし。夏殷に文無きに非ず、周豈に忠質を廃せんや。而るに夏は忠、殷は質、周は文と曰ふは、皆其の向ふ所を言ふのみ。天祖天孫の統を垂れ、神武崇神諸帝の天業を経綸するは、其の武を尚ぶこと論ずる亡し。然れども其の神を敬ひ民を愛し、政を為し治を図るの迹、豈に之を文と謂はざるべけんや。聖子神孫世々其の緒を承け、内は万民を安んじ外は四夷を撫す。諸王諸臣も亦皆文は能く衆を附け、武は能く敵を威す。国運の盛んなること赫赫として日の升るが如し。中葉以降、将相職を異にし、文武背馳す。公卿軟弱にして手に兵を知らず、源平互ひに起こり、皇室陵夷し、天下の大権遂に武人に移る。夫れ文武の国家に於けるは、猶ほ天地の陰陽有るがごとし。陰陽並び行はれて年穀豊饒なり、文武並び挙げて天下乂安なり。其れ然らざる者は則ち反す。是の故に武人の政を為すや、其の文教を質す者は或いは小康を致すべし。専ら威刑に任ずる者は亡ぶること踵を旋らさず。東照宮に至りては文を撥め武を奮ひ、以て今日の基を開く。則ち上に在る君子は固より宜しく其の業を紹述すべし、而して凡そ天下の士は、黽勉して此に従事せざるべからず。蓋し文武の道には各小大有り。天地を経緯し克く禍乱を定むるは、是れ其の大なる者なり。書を読み冊を挟み、剣を撃ち矛を奮ふは、是れ其の小なる者なり。然れども書冊は道義を講ずる所以にして、剣矛は心胆を錬る所以なり。心胆実して後に以て難に臨み変を制すべく、道義明らかにして後に以て己を脩め人を治むべし。且つ文の弊は弱、武以て弱を矯むべし。武の弊は愚、文以て愚を医すべし。然らば則ち学者其の大を語りて其の小を急にするは、固より不可なり。其の小に務めて其の大を忘るるも、亦不可なり。分かちて二と為し、又其の一を廃するは、尤も不可なり。周代六芸の科、射御其の中に居る。孔子曰く、文事有る者は必ず武備有りと。冉求矛を奮ひて斉の軍に入り、仲由三軍を行ふを以て自ら許す。則ち古の人を教ふる所以は、其をして文武兼ね資り、徳を成し材を達せしむるなり、知るべし。後世に及び、大道湮晦し、学校の設けも亦文具に属す。凡そ黌舎に周旋する者は率ね皆白面の書生。古の所謂勇敢強有力なる者は、頭を其の間に屈するを甘んぜず。李唐に至りて呂尚を尊びて孔子に匹似せしめ、別に武学を建てて文学と相対す。其の文武に心を用ふるは則ち似たり。殊に知らず、文武益ます岐れて復た収合すべからず、而して聖人の意大いに荒るるを。備前国主池田氏、蓋し此に見る有り、其の臣熊沢伯継の議を用ひ、新たに学校を設けて文武を合して一と為す。我が公、毎に深く其の国体に通達するを嗟賞し、斯の館を建つるに及び、亦其の美意に倣ふ。文武岐れずの戒め有る所以なり。学者、其れ服膺せざるべけんや。
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『弘道館記述義』・天地位焉・祭祀と孝敬の道は天祖に始まる光華明彩、六合を照徹し、盛徳大業至れり尽くせり。今悉く之を賛せんと欲せば、多く其の量を知らざるを見るのみ。乃ち敢へて竊かに古典に就きて其の一端を論ず。曰く、祭祀の道、孝敬の義は、蓋し天祖に起こる、と。(書紀・古事記皆載す。)天祖の新嘗及び神衣を製するの事、但だ古史太だ簡にして、其の何れの神を奉じ何れの神に供するかを知る能はず。後人因りて附会の説を為せども、一切信拠するに足らず。何を以て之を徴するか。天孫の下土に降臨するや、天祖手づから宝鏡を持して之に授け、因りて祝ひて曰く、吾が児此の宝鏡を視ること、当に猶ほ吾を視るがごとくすべし。与に殿を同じくし牀を共にして、以て斎鏡と為すべし、と。(照照明訓)実に聖子神孫の遵奉する所にして、祭祀の道、孝敬の義、豈に復た是に踰ゆる者有らんや。夫れ父母有りて然る後に子孫有れば、則ち子孫の父祖に於ける、生けるや之に事へ、死するや之を祭る、固より自然の道なり。而して子子孫孫、歴世相承け、千万年に至ると雖も、其の始祖に本づく所以の者は自若たれば、則ち其の追遠報本の義も、亦た千万年に至ると雖も、忽にすべからざるなり。海外諸邦、文物尤も備はる者、西土に若く莫し。西土の教も亦た一に孝を以て本と為す。厥の国王自り以て庶人に達す。但だ国王の若きは則ち又た所謂天を敬ひ上帝に事ふる有り。神州の祭祀の道は、遠く神代に起こり、而して天と云ひ上帝と云ふ者は、上古聞くこと蔑し。蓋し亦た以有るなり。(中世以降、専ら異邦の制に倣ひ、遂に上帝を祀るの礼有り。恐らくは古意を失するに似たり。其の他下文に所謂此を捨て彼に従ふ者は、枚挙に遑あらず。深慨と為すべし。)恭しく惟みるに天祖は、上は天日に同体し、下は霊を宝鏡に留む。然らば則ち赫赫たる太陽、魏魏たる勢廟は、実に天祖の精霊の在る所にして、歴代の天皇之を尊び之を奉じ、天を敬ひ祖に事ふるの義兼ね存す。固より彼の異邦の主の、皇天上帝を蒼蒼漠漠の中に求むる者の比に非ざるなり。嗚呼、聖子神孫克く其の明徳を紹ぎ、公卿士庶皆其の鴻恩を体し、維れ孝、維れ敬、以て威霊を推広せば、則ち豈に啻だ大八洲の民、無疆の化に浴するのみならんや。絶海遠洋の外、蛮夷戎狄の郷も、亦た将に我が徳輝を慕ひ、我が余光を仰がざる無からんとす。豈に盛んならずや。

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