弘道館記述義 / 禍亂相踵・名分の乱れが禍乱を呼ぶ
禍亂相踵。臣彪謹案。敎莫大於彛倫。治莫先於名分。二者不明。則變故百出。天下之禍有不可勝言者。保平以降之事可以鑒焉。請論其略。鳥羽帝之於崇德帝。藤原忠實之於忠通。皆父子也。而不相協。崇德帝之於後白河帝。忠通之於賴長。皆兄弟也。而視若仇讐。若平淸盛。殺叔父及從弟四人。源義朝。弑其父。又害其弟九人。殘忍已甚。而不曾朝廷不罪。乃令其相戕。源爲朝之關弓於其兄。崇德帝使之。源義經之請討其兄。後白河帝允之。源賴朝之請討世父及弟。帝又許之。足利直義。足利直冬之歸順也。朝廷納之使討其父兄。其後足利氏父子兄弟世相篡奪。而朝廷之授官命職唯其强而勝者是視。不復問其是非。孝弟之道幾乎熄矣。平淸盛之跋扈。遂免刑戮。源賴朝之巧詐。又倍於淸盛。然竊大權以天年終。至於北條義時以陪臣之賤。既傾其主家。又敢差兵犯闕。遂遷三聖於孤島。悖逆無道神人所憤。而不曾免夷戮。能保九世之業。足利尊氏。又作禍亂。敢抗至尊。屢害皇子。而亦終其天年。傳業十餘世。此皆變故之大者。若其家族陪臣。朝向夕背。互相夷滅者。紛紜擾擾不遑枚擧。君臣之義亦幾乎廢矣。稗官野史或書曰天皇謀叛。或稱曰流親王於京師。其謬妄亡論已然。亦可以見皇室衰替。武人驕橫之狀。其稱異邦。曰大唐。曰大宋大明。甚則指新羅之酋爲帝。其無識固不足論。然亦可以知當時顚倒本末之甚也。其間名分錯亂非一。而足利義滿之罪爲尤大。其請大政大臣也。稱臣於朱明。辱國也。出遊或擬行幸。僭上也。尊卑內外之分亦幾乎不辨矣。嗚呼君臣父子彛倫之尤大者。尊卑內外名分之至重者。而其頹敗紛淆旣已如此。所謂禍亂相踵者。固不足怪。海內塗炭民無所措手足。至應永以後而極云。
新字:禍乱相踵。臣彪謹案。教莫大於彛倫。治莫先於名分。二者不明。則変故百出。天下之禍有不可勝言者。保平以降之事可以鑒焉。請論其略。鳥羽帝之於崇徳帝。藤原忠実之於忠通。皆父子也。而不相協。崇徳帝之於後白河帝。忠通之於頼長。皆兄弟也。而視若仇讐。若平清盛。殺叔父及従弟四人。源義朝。弑其父。又害其弟九人。残忍已甚。而不曽朝廷不罪。乃令其相戕。源為朝之関弓於其兄。崇徳帝使之。源義経之請討其兄。後白河帝允之。源頼朝之請討世父及弟。帝又許之。足利直義。足利直冬之帰順也。朝廷納之使討其父兄。其後足利氏父子兄弟世相篡奪。而朝廷之授官命職唯其強而勝者是視。不復問其是非。孝弟之道幾乎熄矣。平清盛之跋扈。遂免刑戮。源頼朝之巧詐。又倍於清盛。然窃大権以天年終。至於北条義時以陪臣之賤。既傾其主家。又敢差兵犯闕。遂遷三聖於孤島。悖逆無道神人所憤。而不曽免夷戮。能保九世之業。足利尊氏。又作禍乱。敢抗至尊。屡害皇子。而亦終其天年。伝業十余世。此皆変故之大者。若其家族陪臣。朝向夕背。互相夷滅者。紛紜擾擾不遑枚挙。君臣之義亦幾乎廃矣。稗官野史或書曰天皇謀叛。或称曰流親王於京師。其謬妄亡論已然。亦可以見皇室衰替。武人驕横之状。其称異邦。曰大唐。曰大宋大明。甚則指新羅之酋為帝。其無識固不足論。然亦可以知当時顛倒本末之甚也。其間名分錯乱非一。而足利義満之罪為尤大。其請大政大臣也。称臣於朱明。辱国也。出遊或擬行幸。僭上也。尊卑内外之分亦幾乎不弁矣。嗚呼君臣父子彛倫之尤大者。尊卑内外名分之至重者。而其頽敗紛淆既已如此。所謂禍乱相踵者。固不足怪。海内塗炭民無所措手足。至応永以後而極云。
書き下し
禍乱相踵ぐ。臣彪謹んで案ずるに、教は彝倫より大なるは莫く、治は名分より先なるは莫し。二者明らかならざれば、則ち変故百出し、天下の禍言ふに勝ふべからざる者有り。保平以降の事以て鑑みるべし。請ふ其の略を論ぜん。鳥羽帝の崇徳帝に於ける、藤原忠実の忠通に於ける、皆父子なり。而るに相協はず。崇徳帝の後白河帝に於ける、忠通の頼長に於ける、皆兄弟なり。而るに視ること仇讐の若し。平清盛の若きは、叔父及び従弟四人を殺す。源義朝は其の父を弑し、又弟九人を害す。残忍已に甚だし。而るに朝廷罪せざるのみならず、乃ち其をして相戕はしむ。源為朝の弓を其の兄に関くは、崇徳帝之をして然らしむ。源義経の其の兄を討たんことを請ふに、後白河帝之を允す。源頼朝の世父及び弟を討たんことを請ふに、帝又之を許す。足利直義・足利直冬の帰順するや、朝廷之を納れ、其の父兄を討たしむ。其の後足利氏父子兄弟世々相篡奪す。而して朝廷の官を授け職を命ずるは、唯だ其の強くして勝つ者を是れ視て、復た其の是非を問はず。孝弟の道幾んど熄む。平清盛の跋扈は、遂に刑戮を免る。源頼朝の巧詐は、又清盛に倍す。然れども大権を窃みて天年を以て終る。北条義時に至りては、陪臣の賤を以て、既に其の主家を傾け、又敢へて兵を差して闕を犯し、遂に三聖を孤島に遷す。悖逆無道、神人の憤る所なり。而るに夷戮を免るるのみならず、能く九世の業を保つ。足利尊氏は又禍乱を作し、敢へて至尊に抗し、屢々皇子を害す。而して亦其の天年を終へ、業を伝ふること十余世。此れ皆変故の大なる者なり。其の家族陪臣の若きは、朝に向ひ夕に背き、互ひに相夷滅するもの、紛紜擾擾として枚挙に遑あらず。君臣の義も亦幾んど廃す。稗官野史、或いは書して天皇謀叛と曰ひ、或いは称して親王を京師に流すと曰ふ。其の謬妄は論ずる亡きのみ。亦以て皇室衰替し、武人驕横の状を見るべし。其の異邦を称して、大唐と曰ひ、大宋・大明と曰ひ、甚だしきは新羅の酋を指して帝と為す。其の無識は固より論ずるに足らず。然れども亦以て当時の本末を顚倒すること甚だしきを知るべし。其の間名分錯乱すること一に非ず。而して足利義満の罪尤も大なりと為す。其の太政大臣を請ふや、臣を朱明に称す。国を辱むるなり。出遊に或いは行幸に擬す。上を僭するなり。尊卑内外の分も亦幾んど弁ぜず。嗚呼君臣父子は彝倫の尤も大なる者、尊卑内外は名分の至重なる者にして、其の頽敗紛淆すでに此くの如し。所謂禍乱相踵ぐは、固より怪しむに足らず。海内塗炭して民手足を措く所なく、応永以後に至りて極まると云ふ。
現代語訳
「禍乱が続けざまに起こる。」臣の彪が謹んで考えますに、教えの中で人の道(彝倫)より大きいものはなく、治めることの中で名分より先にすべきものはありません。この二つが明らかでなければ、変事が次々に起こり、天下の災いは言い尽くせないものになります。保元・平治以降の出来事がその鑑となります。その概略を述べさせてください。鳥羽帝と崇徳帝、藤原忠実と忠通は、どちらも父子でしたが、うまくいきませんでした。崇徳帝と後白河帝、忠通と頼長は、どちらも兄弟でしたが、仇のように見なし合いました。平清盛は叔父と従弟四人を殺しました。源義朝は自分の父を殺し、さらに弟九人を害しました。残忍さは甚だしいものです。それなのに朝廷は罪に問わなかっただけでなく、かえって互いに殺し合わせました。源為朝が弓を兄に向けたのは、崇徳帝がそうさせたものです。源義経が兄を討つことを願うと、後白河帝はこれを許しました。源頼朝が伯父と弟を討つことを願うと、帝はまたこれを許しました。足利直義・足利直冬が帰順すると、朝廷はこれを受け入れ、その父や兄を討たせました。その後、足利氏は父子兄弟が代々奪い合いました。朝廷が官を授け職を命じるのは、ただ強くて勝った者だけを見て、もはやその是非を問いませんでした。孝悌の道はほとんど消えました。平清盛は勝手気ままにふるまって刑罰を免れ、源頼朝の巧みな偽りは清盛の倍もありましたが、大権を盗みながら天寿を全うしました。北条義時にいたっては、陪臣の卑しい身分で、すでに主家を傾け、さらに兵を差し向けて宮廷を犯し、ついに三上皇を孤島に遷しました。道に背いた無道で、神も人も憤るところです。それなのに誅殺を免れただけでなく、九代の家業を保ちました。足利尊氏はまた乱を起こし、至尊に敢えて逆らい、しばしば皇子を害しましたが、これも天寿を全うし、十余代にわたって家業を伝えました。これらはみな大きな変事です。その家族や陪臣のように、朝に従い夕に背き、互いに滅ぼし合うものは、入り乱れて数え切れません。君臣の義もほとんど廃れました。稗官野史(民間の歴史書)には、天皇が謀叛した、あるいは親王を京師に流したと書くものがあります。その誤りと妄は論ずるまでもありません。皇室が衰え、武人が驕りたかぶっていた様子がわかります。外国を称して大唐、大宋、大明といい、甚だしくは新羅の首長を指して帝とします。その無知は論ずるに足りませんが、当時、本末を逆さにすることが甚だしかったことが知れます。その間に名分が乱れたことは一つではありませんが、足利義満の罪が最も大きいとされます。太政大臣を請うたとき、明に臣と称しました。国を辱めたのです。外出を行幸になぞらえました。上をおかしたのです。尊卑内外の区別もほとんどつかなくなりました。ああ、君臣と父子は人倫のうち最も大きなもの、尊卑内外は名分のうち最も重いものです。それが崩れ乱れることがすでにこの通りです。いわゆる禍乱が続けざまに起こることは、不思議ではありません。国中が苦しみに陥り、民は手足の置き所もなく、応永以後に至って極まったといいます。
解説
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