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弘道館記述義 / 中世以降・才学ある者の過ちと、世の学者の偏り

苟讀其書者。誠宜體周孔之本意。資明倫正名之大義。以光隆神皇之道。二人者則不然。當僧玄昉瀆官闈。眞備職任中宮。隱默不言。當釋道鏡稱法王。眞備身列台輔。又號帝師。不曾袖手觀望。乃率百寮拜賀於其前。若仲麻呂。則棄君親廢彛倫。北面稱臣於李唐。嗚呼妖僧覬覦神器。天地之大變。眞備處之而不怍也。失節於異域。臣子之至辱。仲麻呂爲之而不恥也。其失德玷行。在不學無術者。猶合不容於名敎。況於二人之碩學宏才耶。抑以不學無術爲之。則罪止其身。以二人之學與才爲之。則人將相謂曰。大臣猶尊敬禪師。晃卿尚臣事西土。吾輩何人豈合忤法王之意。豈合不慕大唐之化。此其所以播惡於衆。貽害於後世者。二人者不得不任其責也。及至後世虛文浮華日盛一日。神聖之流風遺俗。蕩焉殆盡。世之言道者。不侫佛則阿儒。佛者曰梵經爲內典。儒書爲外典。某佛者某神之本地。某神者某佛之垂跡也。而學者不辨其妄。乃或奉其說。顚倒本末混淆內外。使神聖之舊典。淪於浮圖之狂瀾者。其學雖究九經通百家。皆眞備之流亞也。儒者曰。漢土爲中國。其外爲四夷。禮樂刑政皆中國所設。三綱五常非四夷所有。而學者耳目習熟。不悟其非。甚則以夷自處。使儒敎與斯道背馳者。其文雖陵韓柳駕李杜。皆仲麻呂之流亞也。雖然二人亦生神明之域。讀聖賢之書。縱其身不能全名節。豈有意於爲後世倡哉。蓋察其用心。一則恐失之。一則貪榮利而不知其弊之至此也。不亦可惜乎。孔子曰。苟患失之則莫所不至。孟軻曰。苟爲先利而後義。不奪不厭。世之舍此從彼者。其亦可以鑒矣。

新字:苟読其書者。誠宜体周孔之本意。資明倫正名之大義。以光隆神皇之道。二人者則不然。当僧玄昉瀆官闈。真備職任中宮。隠黙不言。当釈道鏡称法王。真備身列台輔。又号帝師。不曽袖手観望。乃率百寮拝賀於其前。若仲麻呂。則棄君親廃彛倫。北面称臣於李唐。嗚呼妖僧覬覦神器。天地之大変。真備処之而不怍也。失節於異域。臣子之至辱。仲麻呂為之而不恥也。其失徳玷行。在不学無術者。猶合不容於名教。況於二人之碩学宏才耶。抑以不学無術為之。則罪止其身。以二人之学与才為之。則人将相謂曰。大臣猶尊敬禅師。晃卿尚臣事西土。吾輩何人豈合忤法王之意。豈合不慕大唐之化。此其所以播悪於衆。貽害於後世者。二人者不得不任其責也。及至後世虚文浮華日盛一日。神聖之流風遺俗。蕩焉殆尽。世之言道者。不侫仏則阿儒。仏者曰梵経為内典。儒書為外典。某仏者某神之本地。某神者某仏之垂跡也。而学者不弁其妄。乃或奉其説。顛倒本末混淆内外。使神聖之旧典。淪於浮図之狂瀾者。其学雖究九経通百家。皆真備之流亜也。儒者曰。漢土為中国。其外為四夷。礼楽刑政皆中国所設。三綱五常非四夷所有。而学者耳目習熟。不悟其非。甚則以夷自処。使儒教与斯道背馳者。其文雖陵韓柳駕李杜。皆仲麻呂之流亜也。雖然二人亦生神明之域。読聖賢之書。縦其身不能全名節。豈有意於為後世倡哉。蓋察其用心。一則恐失之。一則貪栄利而不知其弊之至此也。不亦可惜乎。孔子曰。苟患失之則莫所不至。孟軻曰。苟為先利而後義。不奪不厭。世之舎此従彼者。其亦可以鑒矣。

書き下し

苟くも其の書を読む者は、誠に宜しく周孔の本意を体し、明倫正名の大義に資り、以て神皇の道を光隆すべし。二人の者は則ち然らず。僧玄昉が官闈を瀆すに当たり、真備は中宮に職任せられながら、隠黙して言はず。釈道鏡が法王と称するに当たり、真備身は台輔に列し、又帝師と号すれども、曽て袖手観望せざるのみならず、乃ち百寮を率ゐて其の前に拝賀す。仲麻呂の若きは、則ち君親を棄て彝倫を廃し、北面して李唐に臣と称す。嗚呼、妖僧の神器を覬覦するは、天地の大変なり。真備之に処して怍ぢざるなり。節を異域に失ふは、臣子の至辱なり。仲麻呂之を為して恥ぢざるなり。其の徳を失ひ行を玷すは、不学無術の者に在りても、猶ほ名教に容れられざるべし。況んや二人の碩学宏才をや。抑も不学無術を以て之を為せば、則ち罪は其の身に止まる。二人の学と才とを以て之を為せば、則ち人将に相謂ひて曰はんとす、大臣すら猶ほ禅師を尊敬し、晃卿すら尚ほ西土に臣事す、吾が輩何人ぞ、豈に法王の意に忤ふべけんや、豈に大唐の化を慕はざるべけんやと。此れ其の悪を衆に播き、害を後世に貽す所以にして、二人の者は其の責に任ぜざるを得ざるなり。後世に及びて虚文浮華日に盛んなること一日の如く、神聖の流風遺俗、蕩として殆ど尽く。世の道を言ふ者、仏に佞せざれば則ち儒に阿る。仏者は曰く、梵経は内典為り、儒書は外典為り、某仏とは某神の本地なり、某神とは某仏の垂跡なりと。而して学者其の妄を弁ぜず、乃ち或いは其の説を奉じ、本末を顚倒し内外を混淆し、神聖の旧典をして浮図の狂瀾に淪ましむ。其の学は九経を究め百家に通ずと雖も、皆真備の流亜なり。儒者は曰く、漢土は中国為り、其の外は四夷なり、礼楽刑政は皆中国の設くる所、三綱五常は四夷の有する所に非ずと。而して学者の耳目習熟して、其の非を悟らず、甚だしきは則ち夷を以て自ら処り、儒教をして斯の道と背馳せしむ。其の文は韓柳を陵ぎ李杜に駕すと雖も、皆仲麻呂の流亜なり。然りと雖も二人も亦神明の域に生まれ、聖賢の書を読む。縦ひ其の身名節を全うする能はざるも、豈に後世の倡を為すに意有らんや。蓋し其の用心を察するに、一は之を失はんことを恐れ、一は栄利を貪りて其の弊の此に至るを知らざるなり。亦惜しからずや。孔子曰く、苟くも失はんことを患ふれば、則ち至らざる所なし。孟軻曰く、苟くも利を先にして義を後にすれば、奪はずんば厭かずと。世の此を舎てて彼に従ふ者、其れ亦以て鑑みるべし。

現代語訳

もしその書(儒教の書)を読む者は、本当に周公・孔子の本意を体得し、人倫を明らかにし名分を正す大義に拠って、神皇の道を輝かせ盛んにすべきです。(吉備真備・安倍仲麻呂の)二人はそうではありませんでした。僧の玄昉が宮中を汚したとき、真備は中宮の職にありながら、黙って何も言いませんでした。僧の道鏡が法王と称したとき、真備は大臣の列にあり、帝の師とも呼ばれていたのに、手をこまねいて傍観しただけでなく、百官を率いてその前で拝賀しました。仲麻呂にいたっては、君と親を捨て、人倫を廃し、北面して唐に臣下と称しました。ああ、妖僧が神器をうかがうことは天地の大変事です。真備はそれに接して恥じませんでした。異国で節操を失うことは、臣子として最大の恥です。仲麻呂はそれを行って恥じませんでした。その徳を失い行いを汚すことは、学も術もない者であっても名教に容れられないことです。まして二人のような碩学で才の広い者ならなおさらです。そもそも学も術もない者がすれば、罪はその身にとどまります。二人の学と才でこれを行えば、人々はこう言い合うでしょう。大臣でさえ禅師を尊敬している、公卿(晃卿)でさえ西の国に臣として仕えている、私たちごときが何者で、法王の意に逆らえようか、大唐の感化を慕わずにいられようか、と。これが悪を人々に広め、害を後世に残した理由であり、二人はその責任を負わざるをえません。後世になると、中身のない文や浮わついた華やかさが日に日に盛んになり、神聖の流風遺俗はほとんど消え尽きました。世に道を語る者は、仏に媚びなければ儒に阿ります。仏者は、梵語の経典が内典で儒書は外典だ、某仏は某神の本地であり、某神は某仏の垂迹(神として現れた姿)だ、と言います。学者はその妄を弁えず、その説を奉じて本末を逆さにし、内外を混同し、神聖の旧典を仏教の狂った波に沈めます。そうした学者は、九経を究め百家に通じていても、みな真備の同類です。儒者は、漢土が中国で、その外は四夷だ、礼楽刑政はみな中国が設けたもので、三綱五常は四夷にはないものだ、と言います。学者は耳目が慣れきって、その非を悟らず、甚だしくは自分を夷の側に置き、儒教をこの道と背かせます。そうした者は、文が韓愈・柳宗元を凌ぎ、李白・杜甫を超えても、みな仲麻呂の同類です。とはいえ、二人も神明の国に生まれ聖賢の書を読んだ者です。たとえ自身が名節を全うできなくても、後世の先例を作るつもりがあったわけではないでしょう。その心の使い方を推し量るに、一人は(地位を)失うことを恐れ、もう一人は栄利を貪って、その弊害がここまで至ることを知らなかったのです。惜しいことではありませんか。孔子は、もし失うことを憂えれば、どんなことでもしてしまう、と言いました。孟子は、もし利を先にし義を後にすれば、奪わなければ満足しない、と言いました。世の、これを捨てて彼に従う者は、これを鑑とすべきです。

解説

才能や学識のある人の過ちは、本人だけでなく周囲と後世に悪い前例を残す、と戒める一節です。東湖は吉備真備と安倍仲麻呂を例に、立場を失う恐れや栄利への欲が判断を曇らせると述べます。現代では、能力や肩書のある人ほど、その振る舞いが部下の基準になるということです。管理職は、見て見ぬふりをしたり権威に迎合したりしていないかを自分に問い、また外の流行に合わせて自分たちの軸を曲げていないか、定期的に確かめたいものです。

この章句が説くこと

弘道館記述義藤田東湖吉備真備安倍仲麻呂明倫正名本末転倒

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