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弘道館記述義 / 聖子神孫・人に学んで善を為す 応神帝の姿勢

而聖子神孫。尙不肯自足。樂取於人以爲善。臣彪謹案。神代尙矣。神武帝以還。十有四世。九百有餘年。其間未有書契。其有之則實始於應神帝云。當帝之時。三韓稱藩朝貢。阿直岐之來自百濟也。菟道皇子師之習經典。帝特遣使徵賢人於百濟。於是王仁及辰孫王隨使入朝。帝嘉之以爲皇子之師。辰孫王(據續紀。)先是百濟貢縫衣女。王仁等之來。又貢冶工卓素吳服西素釀酒仁香等。方。是時。天下乂安。四海肅靜。無有一物不得其所者。自常情而觀之。則尙何外求之爲。獨聖主之心則不然也。衣食既饒。兵甲既足。而更召織縫釀冶之工於海外。厚生利用之政。於是乎益廣矣。風俗既美。綱紀既張。而更求文獻於異域。正德之敎於是乎大備矣。苟非光明正大視宇內爲一家者。則其孰能與此。厥後列聖相承崇尙儒敎以培養斯道者。蓋皆本於帝之美意也。昔者孟軻述虞舜之德曰。樂取於人以爲善。自耕稼陶漁以至於爲帝。無非取於人者。嗚呼神州之與西土。絶海殊域。帝之於虞舜。隔世異代。而其取於人爲善之美。若合符節。抑亦所謂先聖後聖其揆一也者。其斯之謂歟。帝之廟祀往往遍於海內。而世徒稱贊其武德。不知其大有功於文敎。是以弓馬之士。皆致崇敬。縉紳之家。或闕欽仰。豈可乎哉。

新字:而聖子神孫。尚不肯自足。楽取於人以為善。臣彪謹案。神代尚矣。神武帝以還。十有四世。九百有余年。其間未有書契。其有之則実始於応神帝云。当帝之時。三韓称藩朝貢。阿直岐之来自百済也。菟道皇子師之習経典。帝特遣使徴賢人於百済。於是王仁及辰孫王随使入朝。帝嘉之以為皇子之師。辰孫王(拠続紀。)先是百済貢縫衣女。王仁等之来。又貢冶工卓素呉服西素醸酒仁香等。方。是時。天下乂安。四海粛静。無有一物不得其所者。自常情而観之。則尚何外求之為。独聖主之心則不然也。衣食既饒。兵甲既足。而更召織縫醸冶之工於海外。厚生利用之政。於是乎益広矣。風俗既美。綱紀既張。而更求文献於異域。正徳之教於是乎大備矣。苟非光明正大視宇内為一家者。則其孰能与此。厥後列聖相承崇尚儒教以培養斯道者。蓋皆本於帝之美意也。昔者孟軻述虞舜之徳曰。楽取於人以為善。自耕稼陶漁以至於為帝。無非取於人者。嗚呼神州之与西土。絶海殊域。帝之於虞舜。隔世異代。而其取於人為善之美。若合符節。抑亦所謂先聖後聖其揆一也者。其斯之謂歟。帝之廟祀往往遍於海内。而世徒称賛其武徳。不知其大有功於文教。是以弓馬之士。皆致崇敬。縉紳之家。或闕欽仰。豈可乎哉。

書き下し

而して聖子神孫、尚ほ自ら足れりとするを肯ぜず、人に取りて以て善を為すを楽しむ。臣彪謹んで案ずるに、神代は尚し。神武帝以還十有四世、九百有餘年、其の間未だ書契有らず。其れ有るは則ち実に応神帝に始まると云ふ。帝の時に当たり、三韓藩と称し朝貢す。阿直岐の百済より来たるや、菟道皇子之に師として経典を習ふ。帝特に使を遣はして賢人を百済に徴す。是に於て王仁及び辰孫王、使に随ひて入朝す。帝之を嘉して以て皇子の師と為す。辰孫王(続紀に拠る)。是より先、百済は縫衣女を貢ず。王仁等の来たるや、又た冶工卓素・呉服西素・醸酒仁香等を貢ず。方に是の時、天下乂安にして、四海粛静、一物として其の所を得ざる者有ること無し。常情より観れば、則ち尚ほ何ぞ外に求むることを為さん。独り聖主の心は則ち然らず。衣食既に饒かに、兵甲既に足る。而して更に織縫醸冶の工を海外に召す。厚生利用の政、是に於て益〻広し。風俗既に美にして、綱紀既に張る。而して更に文献を異域に求む。正徳の教へ是に於て大いに備はる。苟くも光明正大にして宇内を視ること一家の如き者に非ずんば、則ち其れ孰か能く此に与らん。厥の後、列聖相承け、儒教を崇尚して以て斯の道を培養する者、蓋し皆帝の美意に本づくなり。昔者孟軻、虞舜の徳を述べて曰く、人に取りて以て善を為すを楽しむ。耕稼陶漁より以て帝と為るに至るまで、人に取るに非ざる者無し、と。嗚呼、神州と西土とは絶海殊域、帝と虞舜とは世を隔て代を異にす。而れども其の人に取りて善を為すの美は、符節を合はするが若し。抑も亦た所謂先聖後聖其の揆一なりとは、其れ斯の謂ならんか。帝の廟祀は往往海内に遍し。而るに世は徒に其の武徳を称賛して、其の大いに文教に功有るを知らず。是を以て弓馬の士は皆崇敬を致すも、縉紳の家は或いは欽仰を闕く。豈に可ならんや。

現代語訳

そして聖なる天皇とその子孫は、なお自ら満足することをよしとせず、人から取り入れて善を為すことを楽しみました。臣の彪が謹んで考えますに、神代は遠い昔です。神武天皇以後、十四世、九百年余りのあいだ、まだ文字がありませんでした。文字が実際に始まったのは応神天皇のときからだといいます。天皇の時代、三韓は藩国と称して朝貢しました。阿直岐が百済から来ると、菟道皇子はこれを師として経典を習いました。天皇は特に使者を遣わして賢人を百済に求めました。そこで王仁と辰孫王が使者に随って来朝しました。天皇はこれを喜んで皇子の師としました。辰孫王(『続日本紀』による)。これより前に、百済は縫衣の女を貢ぎました。王仁らが来たときには、さらに鍛冶の工人の卓素、機織りの呉服西素、酒造りの仁香らを貢ぎました。まさにこの時、天下は治まり、四海は静まり、一つとして所を得ない物はありませんでした。普通の人の感覚で見れば、なお外に求める必要などないでしょう。ただ聖主の心はそうではありません。衣食はすでに豊かで、武器もすでに足りていました。それでもさらに織りや縫い、醸造や鍛冶の工人を海外から召しました。暮らしを豊かにし、物を役立てる政が、ここでいっそう広がりました。風俗はすでに美しく、綱紀もすでに張っていました。それでもさらに書物を異国に求めました。徳を正す教えが、ここで大いに備わりました。光り輝いて正大で、天下を一家のように見る方でなければ、誰がこのようにできたでしょう。その後、歴代の聖なる天皇が儒教を尊んで、この道を培い養ったのは、みな天皇の美しいお心に基づいています。昔、孟子は虞舜の徳を述べて「人から取り入れて善を為すことを楽しんだ。耕し、陶器を作り、漁をした時から帝となるまで、人から取り入れないものはなかった」と言いました。ああ、我が国と中国とは海を隔てた別の地で、応神天皇と虞舜とは世を隔て代を異にします。それでも人から取り入れて善を為す美しさは、割符を合わせたようにぴったりです。いわゆる「先の聖人も後の聖人も、その道は一つ」とは、このことでしょう。天皇の廟祀はたびたび国中に広がっています。ところが世間は、ただその武徳をほめたたえるだけで、文教に大きな功があったことを知りません。そのため武士は皆崇敬するのに、貴族や学者の家は崇敬を欠くことがあります。それでよいのでしょうか。

解説

すでに豊かで安定していたにもかかわらず、さらに外から技術者と学問を迎えた応神帝の姿勢は、現代の組織にとって示唆に富みます。うまくいっているときこそ外に学ぶ姿勢を保てるかが、成長を分けます。成功した管理職ほど自分のやり方に満足しがちですが、他部署や他社、若手から取り入れる柔軟さを持ち続けたいものです。また、武力だけでなく学びの功績も評価されるべきだという指摘は、目立つ成果だけでなく、育成や仕組みづくりなど地味な貢献を正当に評価する姿勢にも通じます。

この章句が説くこと

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