近思録 / 巻11 教学
而以己處之者、不獨使夫資之下者、勉思企及。而才之高者、亦不敢易乎近矣。明道先生曰:憂子弟之輕俊者、只教以經學念書、不得令作文字。子弟凡百玩好皆奪志。至於書札、於儒者事最近。然一向好著、亦自喪志。如王虞顔柳輩、誠爲好人則有之。曾見有善書者知道否?平生精力用於此、非惟徒廢時日、於道便有妨處。足知喪志也。胡安定在湖州置治道齋。學者有欲明治道者、講之於中。如治民治兵水利筭數之類。嘗言劉彜善治水利、後累爲政、皆興水利有功。凡立言欲涵蓄意思、不使知德者厭、無德者惑。教人未見意趣、必不樂學。欲且教之歌舞、如古詩三百篇、皆古人作之。如關雎之類、正家之始。故用之鄉人、用之邦國、日使人聞之。此等詩其言簡奧、今人未易曉。別欲作詩、略言教童子洒掃應對事長之節、令朝夕歌之、似當有助。子厚以禮教學者最善、使學者先有所據守。語學者以所見未到之理、不惟所聞不深澈、反將理低看了。舞射便見人誠。古之教人、莫非使之成己。自洒掃應對上、便可到聖人事。自「幼子常視無誑」以上、便是教以使人事。「先傳後倦」、君子教人有序、先傳以小者近者、而後教以大者遠者。
新字:而以己処之者、不独使夫資之下者、勉思企及。而才之高者、亦不敢易乎近矣。明道先生曰:憂子弟之軽俊者、只教以経学念書、不得令作文字。子弟凡百玩好皆奪志。至於書札、於儒者事最近。然一向好著、亦自喪志。如王虞顔柳輩、誠為好人則有之。曽見有善書者知道否?平生精力用於此、非惟徒廃時日、於道便有妨処。足知喪志也。胡安定在湖州置治道斎。学者有欲明治道者、講之於中。如治民治兵水利筭数之類。嘗言劉彜善治水利、後累為政、皆興水利有功。凡立言欲涵蓄意思、不使知徳者厭、無徳者惑。教人未見意趣、必不楽学。欲且教之歌舞、如古詩三百篇、皆古人作之。如関雎之類、正家之始。故用之郷人、用之邦国、日使人聞之。此等詩其言簡奥、今人未易暁。別欲作詩、略言教童子洒掃応対事長之節、令朝夕歌之、似当有助。子厚以礼教学者最善、使学者先有所拠守。語学者以所見未到之理、不惟所聞不深澈、反将理低看了。舞射便見人誠。古之教人、莫非使之成己。自洒掃応対上、便可到聖人事。自「幼子常視無誑」以上、便是教以使人事。「先伝後倦」、君子教人有序、先伝以小者近者、而後教以大者遠者。
書き下し
而して己を以て之に処するは、独り夫の資の下なる者をして、勉めて企及を思わしむるのみならず。而して才の高き者も、亦敢えて近きを易(あなど)らず。明道先生曰く、子弟の軽俊なる者を憂えば、只だ教うるに経学念書を以てし、文字を作らしむるを得ず。子弟凡百の玩好は皆志を奪う。書札に至りては、儒者の事に於いて最も近し。然れども一向に好み著(つ)くれば、亦自ら志を喪う。王・虞・顔・柳の輩の如きは、誠に好人たること則ち之れ有り。曾て善書の者の道を知るを見るや否や。平生の精力を此に用うれば、惟だ徒らに時日を廃するのみに非ず、道に於いて便ち妨ぐる処有り。以て志を喪うを知るに足る。胡安定湖州に在りて治道斎を置く。学者の治道を明らかにせんと欲する者有れば、之を中に講ず。治民・治兵・水利・算数の類の如し。嘗て劉彝は水利を治むるに善しと言う、後に累りに政を為し、皆水利を興して功有り。凡そ言を立つるは意思を涵蓄して、徳を知る者をして厭わしめず、徳無き者をして惑わしめざらんことを欲す。人を教えて未だ意趣を見ざれば、必ず学を楽しまず。且く之に歌舞を教えんと欲す。古詩三百篇の如き、皆古人之を作る。関雎の類の如きは、家を正すの始めなり。故に之を郷人に用い、之を邦国に用い、日に人をして之を聞かしむ。此等の詩は其の言簡奥にして、今人未だ暁り易からず。別に詩を作り、略〻童子に洒掃応対・長に事うるの節を言い、朝夕之を歌わしめんと欲す、当に助け有るべきに似たり。子厚礼を以て学者に教うるは最も善し、学者をして先ず拠守する所有らしむ。学者に語るに見る所の未だ到らざるの理を以てすれば、惟だ聞く所深澈ならざるのみならず、反って理を将(もっ)て低く看了す。舞射すれば便ち人の誠を見る。古の人を教うるは、之をして己を成さしむるに非ざるは莫し。洒掃応対の上よりして、便ち聖人の事に到るべし。「幼子には常に誑(あざむ)く無きを視(しめ)す」より以上は、便ち是れ教うるに人に事うることを以てするなり。「先ず伝えて後に倦む」とは、君子人を教うるに序有り、先ず伝うるに小なる者近き者を以てし、而る後に教うるに大なる者遠き者を以てす。
現代語訳
(前からの続き。聖人が身近な行いを示して)自分をその位置に置いてみせるのは、資質の劣った者に努めて追いつこうと思わせるだけではない。才能の高い者もまた、身近なことを軽んじなくなるのである。程顥(明道先生、北宋の儒者)は言う。子弟の中で軽はずみで才気走った者が心配なら、経書を学び書を読むことだけを教え、文章を作らせてはならない。子弟のあらゆる趣味や遊びは、みな志を奪う。書道となると、儒者の仕事に最も近い。しかし一途にそれを好みつづければ、やはり自分から志を失う。王羲之・虞世南・顔真卿・柳公権(いずれも書の名人)のような人々は、まことに立派な人であったことは確かである。だが書の上手な者で道を知っている者を見たことがあるだろうか。生涯の精力をここに注げば、ただ時間を無駄にするだけでなく、道にとって妨げになるところがある。志を失うことがこれでわかる。胡瑗(安定先生、北宋の教育者)は湖州で治道斎を設けた。学生の中で政治の道を明らかにしたい者がいれば、その中で講義した。民の治め方、兵の治め方、水利、算術のたぐいである。かつて劉彝(りゅうい、胡瑗の門人)は水利を治めるのが得意だと言われたが、のちにたびたび地方の政治を担当し、どこでも水利を興して功績があった。およそ言葉を立てるときは、意味を内に含ませて、徳を知る者には飽きさせず、徳のない者には惑わせないようにしたい。人を教えて、その者がまだ面白みを見いだしていなければ、必ず学ぶことを楽しまない。そこでまず歌や舞を教えたい。古詩三百篇(『詩経』)のようなものは、みな古人が作ったものである。関雎のような詩は、家を正すことの始まりである。だからこれを郷の人々に用い、国に用いて、毎日人々に聞かせたのである。こうした詩は言葉が簡潔で奥深く、今の人には容易にわからない。別に詩を作って、子どもに掃除や応対、目上に仕える作法をおおまかに述べ、朝夕にそれを歌わせたいと思う。役に立つはずだと思われる。張載(子厚、横渠先生)が礼によって学生を教えるのは最も善い。学生にまず拠って守るものを持たせるからである。学生に、まだ見えていない段階の道理を語ると、聞いたことが深く通らないだけでなく、かえって道理を低く見てしまう。舞や射をさせると、その人の誠がすぐに見える。昔の人を教えるやり方は、どれもその人に自分を完成させるためのものであった。掃除や応対のところから、そのまま聖人の事に到ることができる。『礼記』の「幼い子にはいつも欺かないことを示す」以上は、つまり人に仕えることを教えるものである。『論語』の「先に伝え、後に倦む」とは、君子が人を教えるには順序があり、まず小さなこと身近なことを伝え、そのあとで大きなこと遠いことを教えるという意味である。
解説
この章句が説くこと
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論語・八佾篇子、太廟に入り、事毎に問う。或曰く、『誰か鄒人の子を礼を知ると謂うや、太廟に入りて事毎に問う。』子これを聞きて曰く、『是れ礼なり。』
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論語・八佾篇子曰く、『夏の礼、吾能く之を言う。杞は徵すに足らず。殷の礼、吾能く之を言う。宋は徵すに足らず。文献足らざる故なり。足らば、則ち吾能く之を徵せん。』
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論語・学而篇有子曰く、「礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯を美と為す。小大之に由れども、行われざる所有り。和を知りて和すれども、礼を以て之を節せざれば、亦行う可からざるなり。」
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論語・八佾篇孔子季氏を謂う、「八佾庭に舞わす。是れをも忍ぶ可くんば、孰れをか忍ぶ可からざらん。」
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論語・八佾篇子曰く、君に事えて礼を尽くせば、人以て諂いと為すなり。
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論語・八佾篇林放礼の本を問う。子曰く、「大なるかな問いや。礼は其の奢らんよりは、寧ろ倹せよ。喪は其の易めんよりは、寧ろ戚めよ。」
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