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近思録 / 巻10 政事

君實嘗問先生云:欲除一人給事中、誰可爲者?先生曰:初若泛論人才、卻可。今既如此、頤雖有其人、何可言?君實曰:出於公口、入於光耳、又何害?先生終不言。先生云:韓持國服義最不可得。一日、頤與持國、范夷叟泛舟於潁昌西湖。須臾客將云、有一官員上書、謁見大資。頤將謂有甚急切公事。乃是求知己。頤云大資居位卻不求人、乃使人倒來求己、是甚道理?夷叟云:只爲正叔太執。求薦章常事也。頤云:不然。只爲曾有不求者不與、來求者與之、遂致人如此。持國便服。先生因言今日供職、只第一件便做他底不得。吏人押申轉運司狀、頤不曾簽。國子監自係臺省、臺省係朝廷官。外司有事、合行申狀。豈有臺省倒申外司之理?只爲從前人只計較利害、不計較事體、直得憑地。須看聖人欲正名處、見得道名不正時、便至禮樂不興。是自然住不得。學者不可不通世務。天下事、譬如一家。非我爲則彼爲、非甲爲則乙爲。「人無遠慮、必有近憂。」思慮當在事外。聖人之責人也常緩。便見只欲事正、無顯人過惡之意。伊川先生曰:今之守令、唯制民之産。一事不得爲。其他在法度中、甚有可爲者、患人不爲耳。明道先生作縣、凡坐處皆書「視民如傷」四字。常曰:「顥常愧此四字。」伊川每見人論前輩之短、則曰:「汝輩且取他長處。」

新字:君実嘗問先生云:欲除一人給事中、誰可為者?先生曰:初若泛論人才、却可。今既如此、頤雖有其人、何可言?君実曰:出於公口、入於光耳、又何害?先生終不言。先生云:韓持国服義最不可得。一日、頤与持国、范夷叟泛舟於潁昌西湖。須臾客将云、有一官員上書、謁見大資。頤将謂有甚急切公事。乃是求知己。頤云大資居位却不求人、乃使人倒来求己、是甚道理?夷叟云:只為正叔太執。求薦章常事也。頤云:不然。只為曽有不求者不与、来求者与之、遂致人如此。持国便服。先生因言今日供職、只第一件便做他底不得。吏人押申転運司状、頤不曽簽。国子監自係台省、台省係朝廷官。外司有事、合行申状。豈有台省倒申外司之理?只為従前人只計較利害、不計較事体、直得憑地。須看聖人欲正名処、見得道名不正時、便至礼楽不興。是自然住不得。学者不可不通世務。天下事、譬如一家。非我為則彼為、非甲為則乙為。「人無遠慮、必有近憂。」思慮当在事外。聖人之責人也常緩。便見只欲事正、無顕人過悪之意。伊川先生曰:今之守令、唯制民之産。一事不得為。其他在法度中、甚有可為者、患人不為耳。明道先生作県、凡坐処皆書「視民如傷」四字。常曰:「顥常愧此四字。」伊川毎見人論前輩之短、則曰:「汝輩且取他長処。」

書き下し

君実嘗て先生に問ひて云ふ、一人を給事中に除せんと欲す、誰か為すべき者ぞ。先生曰く、初め若し泛く人才を論ずれば、却つて可なり。今既に此くの如し、頤其の人有りと雖も、何ぞ言ふべけんや。君実曰く、公の口より出で、光の耳に入る、又何ぞ害あらん。先生終に言はず。先生云ふ、韓持国の義に服すること最も得べからず。一日、頤持国、范夷叟と潁昌の西湖に舟を泛ぶ。須臾にして客将云ふ、一官員有り上書して、大資に謁見せんと。頤将に謂へらく甚の急切の公事か有らんと。乃ち是れ己を知られんことを求むるなり。頤云ふ、大資位に居りて却つて人を求めず、乃ち人をして倒に来りて己に求めしむ、是れ甚の道理ぞ。夷叟云ふ、只正叔太だ執するが為なり。薦章を求むるは常事なり。頤云ふ、然らず。只曾て求めざる者有れば与へず、来り求むる者は之に与ふるが為に、遂に人をして此くの如くならしむ。持国便ち服す。先生因りて言ふ、今日職に供するに、只第一件便ち他の底を做し得ず。吏人申して転運司に押する状、頤曾て簽せず。国子監は自ら台省に係り、台省は朝廷の官に係る。外司事有れば、合に申状を行ふべし。豈に台省倒に外司に申すの理有らんや。只従前の人只利害を計較して、事体を計較せざるが為に、直だ憑地なるを得たり。須らく聖人の名を正さんと欲する処を看て、名正しからざる時、便ち礼楽興らざるに至ると道ふを見得べし。是れ自然に住むることを得ず。学者は世務に通ぜざるべからず。天下の事は、譬へば一家の如し。我為さざれば則ち彼為し、甲為さざれば則ち乙為す。「人遠き慮り無ければ、必ず近き憂ひ有り。」思慮は当に事外に在るべし。聖人の人を責むるや常に緩し。便ち只事の正しからんことを欲して、人の過悪を顕はすの意無きを見る。伊川先生曰く、今の守令、唯だ民の産を制するのみ。一事も為すを得ず。其の他は法度の中に在りて、甚だ為すべき者有り、人の為さざるを患ふるのみ。明道先生県を作め、凡そ坐する処に皆「民を視ること傷むが如し」の四字を書す。常に曰く、「顥常に此の四字に愧づ。」伊川人の前輩の短を論ずるを見る毎に、則ち曰く、「汝が輩且く他の長ずる処を取れ。」

現代語訳

君実(くんじつ、司馬光)がかつて先生(程頤)に尋ねた。ある人を給事中(詔勅を審査する官)に任じたいが、誰がふさわしいか。先生は言った。初めに広く人材を論じるのであれば、かえってよい。今こうして特定の任命の話になった以上、私にふさわしい人がいても、どうして言えようか。君実が言った。あなたの口から出て、私の耳に入るだけだ。何の害があろう。先生はとうとう言わなかった。先生が言う。韓持国(かんじこく、韓維)が義に服するさまは、なかなか得がたいものであった。ある日、私は持国や范夷叟(はんいそう、范純礼)と潁昌(えいしょう、今の河南の地)の西湖に舟を浮かべた。しばらくして取次の者が、ある役人が書面を差し出して大資(韓維のこと、大資政殿学士)に謁見したいと言っていると告げた。私は何か急を要する公務があるのかと思った。ところが、自分を知ってもらいたいと求めに来たのであった。私は言った。大資は高位にありながら自ら人材を求めず、かえって人に逆にやって来させて自分に求めさせている。これはどういう道理か。夷叟が言った。それは正叔(程頤)があまりに頑固だからだ。推薦状を求めるのは普通のことだ。私は言った。そうではない。かつて求めない者には与えず、求めに来る者には与えたからこそ、とうとう人をこのようにさせてしまったのだ。持国はすぐに納得した。先生はそこで言った。今日職務に就いて、最初の一件からもう前任者のやり方はできなかった。役人が転運司(地方の財政監察官)あてに差し出す上申状に署名させようとしたが、私は署名しなかった。国子監はもともと台省(中央官庁)に属し、台省は朝廷の官に属する。外の役所に用事があれば、そちらが上申状を出すべきである。どうして台省が逆に外の役所に上申する道理があろうか。ただ以前の人たちが利害ばかり計算して、事の体裁を考えなかったから、こんなふうになってしまったのである。聖人が名を正そうとしたところを見て、名が正しくなければ、ついには礼楽が興らなくなると言ったことを見て取らなければならない。これは自然にとどめられないことである。学ぶ者は世の務めに通じていなければならない。天下の事は、たとえば一つの家のようなものである。自分がしなければ彼がし、甲がしなければ乙がする。「人は遠い配慮がなければ、必ず身近な憂いがある」。思慮は事の外に及ぶべきである。聖人が人を責めるときは、いつもゆるやかである。そこに、ただ事が正しくなることを望んで、人の過ちや悪をあらわにする意図がないことが見える。伊川先生が言う。今の地方長官は、ただ民の財産を定めること(田制)だけは一つもできない。そのほかは法度の中で、大いにできることがある。ただ人が行わないのが心配なのである。明道先生(程顥)は県を治めたとき、座る所にはすべて「民を見ること傷を負った者を見るように」の四字を書いていた。いつも「私はこの四字にいつも恥じている」と言っていた。伊川は人が先輩の短所を論じるのを見るたびに、「おまえたちは、とりあえずその人の長所を取れ」と言った。

解説

程頤と程顥の官界での逸話を集めた条である。司馬光に給事中の人選を問われ、特定の任命の場で名を挙げるのは筋違いだと最後まで答えなかった程頤の態度は、人事の公正さへの潔癖を示す。推薦状を求めに来る役人の話では、求めない者に与えず求める者に与えたから人が売り込みに来るのだと、韓維の人材登用の仕方そのものを問題にした。国子監が外の役所に上申する慣例を拒んだのは、利害でなく事体、つまり筋目を守る正名の実践である。天下の事は一家のようなもので、思慮は事の外に及ぼせという教えも実務的だ。程顥が座右に「視民如傷」と書き、常にこれに恥じると言った姿、先輩の短所を論じる門人に長所を取れと諭す程頤の言葉は、人の上に立つ者の心構えとして今も通用する。

この章句が説くこと

正名事体視民如傷人材長所

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