近思録 / 巻7 出処
伊川先生曰:人多說某不教人習舉業。某何嘗不教人習舉業也?人若不習舉業而望及第、卻是責天理而不修人事。但舉業既可以及第即已。若更去上面盡力求必得之道、是惑也。
新字:伊川先生曰:人多説某不教人習舉業。某何嘗不教人習舉業也?人若不習舉業而望及第、却是責天理而不修人事。但舉業既可以及第即已。若更去上面尽力求必得之道、是惑也。
書き下し
伊川先生曰く、人多く某は人に挙業を習わしめずと説く。某、何ぞ嘗て人に挙業を習わしめざらんや。人若し挙業を習わずして及第を望まば、却ってこれ天理を責めて人事を修めざるなり。但だ挙業すでに以て及第すべくんば即ち已む。若し更にその上に去りて力を尽くし必ず得るの道を求めば、これ惑いなり。
現代語訳
程頤先生が言う。人はよく、私が科挙の受験勉強を教えないと言う。私がいつ受験勉強を教えなかっただろうか。もし受験勉強をせずに合格を望むなら、それは天理に責任を求めて人事を尽くさないということだ。ただし、受験勉強で合格できるところまで来たならそれで止める。それ以上に力を尽くして、必ず合格する道を求めようとするなら、それは惑いである。
解説
実務的な線引きの一条である。受験勉強を否定しているという評判に、程頤自身が反論する。やらずに受かることを望むのは、天に責任を押しつけて自分の努力を怠ることだ、と。ここまでは常識的だが、後半に本題がある。合格できるところまで来たら止めよ。それ以上、必ず受かる道を求めて力を注ぐのは惑いだ、と。必要十分を超えた努力を、努力ではなく執着として扱っている。時間と力には限りがあり、確実性を上げ続けることに注ぎ込めば、他に回すべきものが失われる。どこで止めるかを決める、という一点でこれは今の仕事にも効く。
この章句が説くこと
挙業天理を責めて人事を修めず必得の道を求むるは惑い止める線
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