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近思録 / 巻6 家道

歸妹、九二守其幽貞、未失夫婦常正之道。世人以媟狎爲常、故以貞靜爲變常。不知乃常久之道也。世人多慎於擇壻、而忽於擇婦。其實壻易見、婦難知。所繫甚重。豈可忽哉?人無父母、生日當倍悲痛。更安忍置酒張樂以爲樂?若具慶者可矣。問:行狀云、「盡性至命、必本于孝弟。」不識孝弟何以能盡性至命也?曰:後人便將性命別作一般事說了。性命孝弟、只是一統底事。就孝弟中便可盡性至命。如酒掃應對與盡性至命、亦是一統底事。無有本末、無有精粗、卻被後來人言性命者、別作一般高遠說。故舉孝弟、是於人切近者言之。然今時非無孝弟之人、而不能盡性至命者、由之而不知也。問:第五倫視其子之疾與兄子之疾不同。自謂之私。如何?曰:不待安寢與不安寢。只不起與十起、便是私也。父子之愛本是公。才著些心做、便是私也。又問:視己子與兄子有間否?曰:聖人立法、曰:「兄弟之子猶子也。」是欲視之猶子也。又問:天性自有輕重。疑若有間然。曰:只爲今人以私心看了。孔子曰:「父子之道、天性也。」此只就孝上說、故言父子天性。若君臣兄弟賓主朋友之類、亦豈不是天性?只爲今人小看卻、不推其本所由來故爾。

新字:帰妹、九二守其幽貞、未失夫婦常正之道。世人以媟狎為常、故以貞静為変常。不知乃常久之道也。世人多慎於択壻、而忽於択婦。其実壻易見、婦難知。所繋甚重。豈可忽哉?人無父母、生日当倍悲痛。更安忍置酒張楽以為楽?若具慶者可矣。問:行状云、「尽性至命、必本于孝弟。」不識孝弟何以能尽性至命也?曰:後人便将性命別作一般事説了。性命孝弟、只是一統底事。就孝弟中便可尽性至命。如酒掃応対与尽性至命、亦是一統底事。無有本末、無有精粗、却被後来人言性命者、別作一般高遠説。故舉孝弟、是於人切近者言之。然今時非無孝弟之人、而不能尽性至命者、由之而不知也。問:第五倫視其子之疾与兄子之疾不同。自謂之私。如何?曰:不待安寝与不安寝。只不起与十起、便是私也。父子之愛本是公。才著些心做、便是私也。又問:視己子与兄子有間否?曰:聖人立法、曰:「兄弟之子猶子也。」是欲視之猶子也。又問:天性自有軽重。疑若有間然。曰:只為今人以私心看了。孔子曰:「父子之道、天性也。」此只就孝上説、故言父子天性。若君臣兄弟賓主朋友之類、亦豈不是天性?只為今人小看却、不推其本所由来故爾。

書き下し

帰妹の九二、其の幽貞を守り、未だ夫婦常正の道を失はず。世人媟狎を以て常と為す、故に貞静を以て変常と為す。乃ち常久の道なるを知らざるなり。世人多く壻を択ぶに慎みて、婦を択ぶに忽せにす。其の実壻は見易く、婦は知り難し。繋る所甚だ重し。豈に忽せにすべけんや。人父母無ければ、生日は当に倍悲痛すべし。更に安んぞ酒を置き楽を張りて以て楽しみと為すに忍びんや。若し具慶なる者は可なり。問ふ、「行状に云ふ、『性を尽くし命に至るは、必ず孝弟に本づく』と。識らず孝弟何を以て能く性を尽くし命に至るや」と。曰く、「後人便ち性命を将て別に一般の事と作して説き了る。性命孝弟は、只だ是れ一統底の事なり。孝弟の中に就きて便ち性を尽くし命に至るべし。灑掃応対と性を尽くし命に至るとの如きも、亦た是れ一統底の事なり。本末有る無く、精粗有る無し、却つて後来の人の性命を言ふ者に、別に一般の高遠の説を作さる。故に孝弟を挙ぐるは、是れ人に於いて切近なる者に於いて之を言ふなり。然れども今時孝弟の人無きに非ず、而も性を尽くし命に至る能はざる者は、之に由りて知らざればなり」と。問ふ、「第五倫其の子の疾と兄の子の疾とを視ること同じからず。自ら之を私と謂ふ。如何」と。曰く、「安寝すると安寝せざるとを待たず。只だ起きざると十たび起くると、便ち是れ私なり。父子の愛は本是れ公なり。才かに些の心を著けて做せば、便ち是れ私なり」と。又問ふ、「己が子と兄の子とを視るに間有りや否や」と。曰く、「聖人法を立てて、曰く、『兄弟の子は猶ほ子のごとし』と。是れ之を視ること猶ほ子のごとくせしめんと欲するなり」と。又問ふ、「天性自ら軽重有り。疑ふらくは間有るが若く然り」と。曰く、「只だ今人私心を以て看了するが為なり。孔子曰く、『父子の道は、天性なり』と。此れ只だ孝の上に就きて説く、故に父子は天性と言ふ。君臣兄弟賓主朋友の類の若きも、亦た豈に是れ天性ならざらんや。只だ今人小さく看却して、其の本の由りて来たる所を推さざるが為の故のみ」と。

現代語訳

帰妹の卦の九二は、奥ゆかしく貞節を守り、夫婦の常の正しい道を失っていない。世の人はなれなれしく戯れ合うことを常とするから、貞節で静かなことをかえって常道から外れたものと見る。それこそが常に久しく続く道であることを知らないのである。世の人は婿を選ぶことには慎重だが、嫁を選ぶことはおろそかにする。実際は、婿は見定めやすく、嫁は知りにくい。しかも関わるところはきわめて重い。どうしておろそかにできようか。人は父母を亡くしていれば、誕生日にはいっそう悲しみ痛むべきである。どうして酒宴を設け音楽を奏でて楽しむことに忍びようか。父母がともに健在であればそれでよい。問うた。「行状(明道先生の伝記)に『性を尽くし天命に至るのは、必ず孝弟に基づく』とある。孝弟がどうして性を尽くし天命に至ることになるのかわからない」。答えた。「後の人は性命を別の一つの事として説いてしまった。性命と孝弟とは、ひとつながりの事である。孝弟の中で、そのまま性を尽くし天命に至ることができる。掃除や応対と、性を尽くし天命に至ることも、やはりひとつながりの事である。本と末の区別も、精と粗の区別もない。それなのに後の性命を論じる人々によって、別の高遠な説にされてしまった。だから孝弟を挙げたのは、人にとって身近なところで言ったのである。しかし今の世に孝弟の人がいないわけではないのに、性を尽くし天命に至ることができないのは、それに従って行いながらその意味を知らないからである」。問うた。「第五倫(だいごりん、後漢の官人)は、自分の子の病気と兄の子の病気とで看病の仕方が違い、自らそれを私心だと言った。これはどうか」。答えた。「安らかに眠れたかどうかは問題ではない。自分の子には一度も起きず、兄の子には一晩に十回起きたということ自体が私心なのである。父子の愛はもともと公である。わずかでも意識して心をつけて行えば、それが私である」。また問うた。「自分の子と兄の子とを見るのに差があってよいか」。答えた。「聖人は法を立てて『兄弟の子はわが子と同じ』と言った。これはわが子と同じように見させようとしたのである」。また問うた。「天性にはおのずから軽重がある。差があるように思われるが」。答えた。「それはただ今の人が私心で見てしまうからである。孔子は『父子の道は天性である』と言った。これはただ孝について言ったので、父子を天性と言ったのである。君臣・兄弟・賓主・朋友の類も、どうして天性でないことがあろうか。ただ今の人が小さく見てしまい、その本がどこから来ているかを推し量らないからにすぎない」。

解説

程頤の語で、婚姻・誕生日・孝弟・肉親の愛の公私を論じる。孝弟と性命をひとつながりの事とし、掃除や応対のような日常の所作にも本末精粗の別はないという考えは、宋学が高遠な理を日常の実践から切り離さないことをよく示す。後漢の第五倫が兄の子の看病には一晩十度起き、わが子には起きなかったのに、わが子のほうが心配で眠れなかったと告白した故事を引き、意識して公平にふるまうこと自体がすでに私だと程頤は言う。公私の区別を、行為の外形でなく心の置き方に見る厳しさである。部下を公平に扱おうと意識しすぎて、かえって身内に冷たくなるリーダーもいる。公とは作為のない自然な愛の延長だという指摘は示唆に富む。

この章句が説くこと

孝弟性命公私天性婚姻

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