近思録 / 巻3 致知
自秦而下、其學不傳。予悼夫聖人之志不明於後世也、故作傳以明之。俾後之人、通其文而求其義、得其意而法其用、則三代可復也。是傳也、雖未能極聖人之蘊奧、庶幾學者得其門而入矣。詩書載道之文、春秋聖人之用。詩書如藥方、春秋如用藥治病。聖人之用、全在此書、所謂「不如載之行事、深切著明」者也。有重疊言者、如征伐盟會之類。蓋欲成書、勢須如此。不可事事各求異義、但一字有異、或上下文異、則義須別。《五經》之有《春秋》、猶法律之有斷例也。律令唯言其法、至於斷例、則始見其法之用也。學《春秋》亦善。一句是一事。是非便見於此。此亦窮理之要。然他經豈不可以窮理?但他經論其義、《春秋》因其行事是非較著、故窮理爲要。嘗語學者、且先讀《論語》《孟子》、更讀一經、然後看《春秋》。先識得箇義理、方可看《春秋》。《春秋》以何爲準?無如《中庸》。欲知《中庸》、無如權。須是時而爲中。若以手足胼胝、閉戶不出、二者之間取中、便不是中。若當手足胼胝、則於此爲中。當閉戶不出、則於此爲中。權之爲言、秤錘之義也。何物爲權?義也、時也。只是說得到義、義以上更難說、在人自看如何。《春秋》傳爲按、經爲斷。
新字:自秦而下、其学不伝。予悼夫聖人之志不明於後世也、故作伝以明之。俾後之人、通其文而求其義、得其意而法其用、則三代可復也。是伝也、雖未能極聖人之蘊奥、庶幾学者得其門而入矣。詩書載道之文、春秋聖人之用。詩書如薬方、春秋如用薬治病。聖人之用、全在此書、所謂「不如載之行事、深切著明」者也。有重畳言者、如征伐盟会之類。蓋欲成書、勢須如此。不可事事各求異義、但一字有異、或上下文異、則義須別。《五経》之有《春秋》、猶法律之有断例也。律令唯言其法、至於断例、則始見其法之用也。学《春秋》亦善。一句是一事。是非便見於此。此亦窮理之要。然他経豈不可以窮理?但他経論其義、《春秋》因其行事是非較著、故窮理為要。嘗語学者、且先読《論語》《孟子》、更読一経、然後看《春秋》。先識得箇義理、方可看《春秋》。《春秋》以何為準?無如《中庸》。欲知《中庸》、無如権。須是時而為中。若以手足胼胝、閉戸不出、二者之間取中、便不是中。若当手足胼胝、則於此為中。当閉戸不出、則於此為中。権之為言、秤錘之義也。何物為権?義也、時也。只是説得到義、義以上更難説、在人自看如何。《春秋》伝為按、経為断。
書き下し
秦より下、其の学伝はらず。予夫の聖人の志の後世に明らかならざるを悼む、故に伝を作りて以て之を明らかにす。後の人をして、其の文に通じて其の義を求め、其の意を得て其の用に法らしめば、則ち三代復すべきなり。是の伝や、未だ聖人の蘊奥を極むること能はずと雖も、庶幾はくは学者其の門を得て入らん。詩書は道を載するの文、春秋は聖人の用なり。詩書は薬方の如く、春秋は薬を用ひて病を治するが如し。聖人の用は、全く此の書に在り、所謂「之を行事に載するの深切著明なるに如かず」なる者なり。重畳して言ふ者有り、征伐盟会の類の如し。蓋し書を成さんと欲すれば、勢ひ須らく此の如くなるべし。事事に各々異義を求むべからず、但だ一字異なる有り、或いは上下の文異なれば、則ち義須らく別なるべし。五経の春秋有るは、猶ほ法律の断例有るがごときなり。律令は唯だ其の法を言ふ、断例に至りては、則ち始めて其の法の用を見るなり。春秋を学ぶも亦た善し。一句是れ一事なり。是非便ち此に見る。此れ亦た理を窮むるの要なり。然れども他経豈に以て理を窮むべからざらんや。但だ他経は其の義を論じ、春秋は其の行事に因りて是非較著なり、故に理を窮むるに要と為す。嘗て学者に語る、且く先づ論語孟子を読み、更に一経を読みて、然る後に春秋を看よと。先づ箇の義理を識り得て、方に春秋を看るべし。春秋は何を以て準と為す。中庸に如くは無し。中庸を知らんと欲せば、権に如くは無し。須らく是れ時にして中を為すべし。若し手足胼胝すると、戸を閉ぢて出でざるとを以て、二者の間に中を取らば、便ち是れ中ならず。若し手足胼胝すべきに当たれば、則ち此に於て中と為す。戸を閉ぢて出でざるべきに当たれば、則ち此に於て中と為す。権の言為る、秤錘の義なり。何物をか権と為す。義なり、時なり。只だ是れ説きて義に到り得るのみ、義以上は更に説き難し、人の自ら看ること如何に在り。春秋は伝を按と為し、経を断と為す。
現代語訳
秦より後、その学問は伝わらなかった。私は聖人の志が後世に明らかでないことを悼み、そこで伝を作ってそれを明らかにした。後の人が、その文に通じてその義を求め、その意を得てそのはたらきにならうようにすれば、三代の治は再び実現できる。この伝は、まだ聖人の奥深さを極めることはできないが、どうか学ぶ者がその門を見つけて入ることができるように願う。『詩経』『書経』は道を載せた文章であり、『春秋』は聖人のはたらきである。『詩経』『書経』は薬の処方のようなものであり、『春秋』は薬を用いて病を治すようなものである。聖人のはたらきは、すべてこの書にある。いわゆる孔子の「実際の出来事に載せて示すほうが、深く切実で明らかであることには及ばない」というものである。重ねて書いているものがある。征伐や盟会の類である。思うに書物を成そうとすれば、勢いそうならざるをえない。一つ一つの事にそれぞれ別の意義を求めてはならない。ただ一字が違ったり、前後の文が違ったりすれば、意義は別でなければならない。五経に『春秋』があるのは、法律に判例があるようなものである。法令はただその法を言うだけだが、判例になってはじめてその法の用い方が見える。『春秋』を学ぶのもまたよい。一句が一つの事であり、是非がそこに現れる。これもまた理を窮める要である。しかしほかの経書でも理を窮められないことがあろうか。ただほかの経書はその義を論じるが、『春秋』は実際の出来事によって是非がはっきりしているので、理を窮めるのに要となるのである。かつて学ぶ者に語った。ひとまずまず『論語』『孟子』を読み、さらに一つの経書を読んで、そのあとで『春秋』を読めと。まず義理を知ってはじめて『春秋』を読むことができる。『春秋』は何を基準とするか。『中庸』に及ぶものはない。『中庸』を知ろうとするなら、権(はかり)に及ぶものはない。時に応じて中をなさなければならない。もし、禹のように手足にたこができるほど働くことと、顔回のように門を閉じて外に出ないこととの二つの間に中を取るなら、それは中ではない。手足にたこができるほど働くべき時なら、そこでそうすることが中である。門を閉じて出ないでいるべき時なら、そこでそうすることが中である。権という言葉は、秤の重りという意味である。何を権とするか。義であり、時である。ただ説いて義に至ることができるだけであって、義より上はさらに説きがたい。それは人が自分でどう見るかにかかっている。『春秋』は、伝が事実の調書であり、経が判決である。
解説
この章句が説くこと
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