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近思録 / 巻3 致知

先生云:亦不妨。只看如何用。當儲貳則做儲貳使。九四近君、便作儲貳、亦不害。但不要拘一。若執一事、則三百八十四爻、只作得三百八十四件事便休了。看易且要知時。凡六爻人人有用。聖人自有聖人用、賢人自有賢人用。衆人自有衆人用、學者自有學者用。君有君用、臣有臣用。無所不通。因問坤卦是臣之事、人君有用處否?先生曰:是何無用?如「厚德載物」、人君安可不用?易中只是言反復往來上下。作易自天地幽明、至於昆蟲草木微物、無不合。今時人看易、皆不識得易是何物。只就上穿鑿。若念得不熟、與上添一德、亦不覺多。就上減一德、亦不覺少。譬如不識此兀子、若減一隻腳、亦不知是少。若添一隻、亦不知是多。若識則自添減不得也。遊定夫問伊川「陰陽不測之謂神。」伊川曰:賢是疑了問?是揀難底問?伊川以《易傳》示門人曰:只說得七分、後人更須自體究。伊川先生《春秋傳·序》曰:天之生民、必有出類之才、起而君長之。治之而爭奪息、導之而生養遂、教之而倫理明。然後人道立、天道成、地道平。二帝而上、聖賢世出。隨時有作。順乎風氣之宜、不先天以開人、各因時而立政。

新字:先生云:亦不妨。只看如何用。当儲貳則做儲貳使。九四近君、便作儲貳、亦不害。但不要拘一。若執一事、則三百八十四爻、只作得三百八十四件事便休了。看易且要知時。凡六爻人人有用。聖人自有聖人用、賢人自有賢人用。衆人自有衆人用、学者自有学者用。君有君用、臣有臣用。無所不通。因問坤卦是臣之事、人君有用処否?先生曰:是何無用?如「厚徳載物」、人君安可不用?易中只是言反復往来上下。作易自天地幽明、至於昆虫草木微物、無不合。今時人看易、皆不識得易是何物。只就上穿鑿。若念得不熟、与上添一徳、亦不覚多。就上減一徳、亦不覚少。譬如不識此兀子、若減一隻脚、亦不知是少。若添一隻、亦不知是多。若識則自添減不得也。遊定夫問伊川「陰陽不測之謂神。」伊川曰:賢是疑了問?是揀難底問?伊川以《易伝》示門人曰:只説得七分、後人更須自体究。伊川先生《春秋伝·序》曰:天之生民、必有出類之才、起而君長之。治之而争奪息、導之而生養遂、教之而倫理明。然後人道立、天道成、地道平。二帝而上、聖賢世出。随時有作。順乎風気之宜、不先天以開人、各因時而立政。

書き下し

先生云ふ、亦た妨げず。只だ如何に用ふるかを看よ。儲弐に当たれば則ち儲弐と做して使ふ。九四は君に近し、便ち儲弐と作すも、亦た害あらず。但だ一に拘らざらんことを要す。若し一事に執すれば、則ち三百八十四爻は、只だ三百八十四件の事と作し得て便ち休み了らん。易を看るには且く時を知らんことを要す。凡そ六爻は人人用有り。聖人には自ら聖人の用有り、賢人には自ら賢人の用有り。衆人には自ら衆人の用有り、学者には自ら学者の用有り。君には君の用有り、臣には臣の用有り。通ぜざる所無し。因りて坤卦は是れ臣の事なり、人君に用ふる処有りや否やを問ふ。先生曰く、是れ何ぞ用無からん。「徳を厚くして物を載す」の如き、人君安んぞ用ひざるべけんや。易中は只だ是れ反復往来上下を言ふ。易を作るは天地幽明より、昆虫草木の微物に至るまで、合はざる無し。今時の人の易を看るは、皆易の是れ何物なるかを識り得ず。只だ上に就きて穿鑿す。若し念じ得ること熟せざれば、上に与(ため)に一徳を添ふるも、亦た多きを覚えず。上に就きて一徳を減ずるも、亦た少なきを覚えず。譬へば此の兀子を識らざるが如し、若し一隻の脚を減ずるも、亦た是れ少なきを知らず。若し一隻を添ふるも、亦た是れ多きを知らず。若し識れば則ち自ら添減し得ざるなり。游定夫伊川に「陰陽測られざる之を神と謂ふ」を問ふ。伊川曰く、賢は是れ疑ひ了りて問ふか、是れ難しき底を揀びて問ふか。伊川易伝を以て門人に示して曰く、只だ七分を説き得たり、後人更に須らく自ら体究すべし。伊川先生春秋伝の序に曰く、天の民を生ずる、必ず出類の才有りて、起ちて之に君長たり。之を治めて争奪息み、之を導きて生養遂げ、之を教へて倫理明らかなり。然る後に人道立ち、天道成り、地道平らかなり。二帝よりして上、聖賢世々出づ。時に随ひて作す有り。風気の宜しきに順ひ、天に先だちて以て人を開かず、各時に因りて政を立つ。

現代語訳

先生(程頤)は言った。それでも差し支えない。ただどのように用いるかを見ればよい。跡継ぎの太子にあたる場面なら、太子として用いればよい。九四は君主に近い位置にあるから、太子とすることも害はない。ただ一つに固執しないことが必要である。もし一つの事に固執すれば、三百八十四の爻は、ただ三百八十四件の事柄を表すだけで終わってしまう。易を読むには、まず時を知ることが必要である。およそ六つの爻は、誰にでも用いどころがある。聖人には聖人の用い方があり、賢人には賢人の用い方がある。普通の人には普通の人の用い方があり、学ぶ者には学ぶ者の用い方がある。君主には君主の用い方があり、臣下には臣下の用い方がある。通じないところはない。そこで、坤の卦は臣下の事を言うものだが、君主にも用いるところがあるのかと問うた。先生は言った。どうして用いるところがないことがあろうか。「徳を厚くして物を載せる」というようなことは、君主がどうして用いないでいられようか。易の中では、ただ反復往来と上下を言っているだけである。易を作ったのは、天地や見えるもの見えないものから、昆虫や草木のような小さな物に至るまで、合わないものはない。今の人が易を読むと、みな易がどういうものかが分かっておらず、ただ上っ面でほじくり返している。もし熟読していなければ、上に一つ徳を加えても多いとは感じず、上から一つ徳を減らしても少ないとは感じない。たとえば、この腰掛けを知らないようなものである。脚を一本減らしても少ないと分からず、一本加えても多いと分からない。知っていれば、おのずと加えたり減らしたりはできない。游酢(定夫、程門の弟子)が伊川に「陰陽の測りがたいことを神という」について問うた。伊川は言った。君は疑問を持ったうえで問うているのか、それとも難しいところを選んで問うているのか。伊川は『易伝』を門人に示して言った。七分だけを説きえた。後の人がさらに自分で体得し究めなければならない。伊川先生は『春秋伝』の序で言う。天が民を生むと、必ず並外れた才能の者が現れ、立ち上がって君長となる。彼が治めると争いや奪い合いがやみ、導くと生活と養いが遂げられ、教えると人倫の筋道が明らかになる。そうしてはじめて人の道が立ち、天の道が成り、地の道が平らかになる。堯・舜の二帝より前は、聖人や賢人が代々現れた。時に従って作るところがあった。風土と気運のよろしきに順い、天に先立って人を開くことはせず、それぞれ時に応じて政治を立てた。

解説

程頤の易についての語と、『春秋伝』の序の冒頭を収める。九四を太子と解する説に対し、場面に応じて用いればよく、一事に固執すれば三百八十四爻がただ三百八十四の事になってしまうと答える。爻は聖人にも衆人にも、君にも臣にも、それぞれの用い方があるという考え方は、易を固定した予言書ではなく、あらゆる立場の人が時に応じて読む書としてとらえている。『易伝』は七分しか説けていない、残りは自ら体究せよという言葉は、学ぶ者の主体性を求める。一つの原則を、立場によって異なる形で生かすという発想は、同じ方針を経営者と現場がそれぞれの持ち場で読み替えることにも通じる。

この章句が説くこと

易時固執体究春秋伝

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