近思録 / 巻3 致知
「易有聖人之道四焉:以言者尚其辭、以動者尚其變、以制器者尚其象、以卜筮者尚其占。」吉凶消長之理、進退存亡之道、備於辭。推辭考卦、可以知變。象與占在其中矣。「君子居則觀其象而玩其辭、動則觀其變而玩其占。」得於辭不達其意者有矣、未有不得於辭而能通其意者也。至微者理也、至著者象也。體用一源、顯微無間。「觀會通以行其典禮」、則辭無所不備。故善學者求言必自近。易於近者、非知言者也。予所傳者辭也。由辭以得意、則在乎人焉。伊川先生答張閎中書曰:易傳未傳、自量精力未衰、尚覬有少進爾。來書云:「易之義本起於數。」謂義起於數則非也。有理而後有象、有象而後有數。易因象以明理、由象以知數。得其義則象數在其中矣。必欲窮象之隱微、盡數之毫忽、乃尋流逐末。術家之所尚、非儒者之所務也。知時識勢、學易之大方也。大畜初二、乾體剛健、而不足以進。四五陰柔而能止。時之盛衰、勢之強弱、學易者所宜深識也。諸卦二五、雖不當位、多以中爲美。三四雖當位、或以不中爲過。中常重於正也。蓋中則不違於正、正不必中也。天下之理莫善於中、於九二六五可見。問:胡先生解九四作太子、恐不是卦義。
新字:「易有聖人之道四焉:以言者尚其辞、以動者尚其変、以制器者尚其象、以卜筮者尚其占。」吉凶消長之理、進退存亡之道、備於辞。推辞考卦、可以知変。象与占在其中矣。「君子居則観其象而玩其辞、動則観其変而玩其占。」得於辞不達其意者有矣、未有不得於辞而能通其意者也。至微者理也、至著者象也。体用一源、顕微無間。「観会通以行其典礼」、則辞無所不備。故善学者求言必自近。易於近者、非知言者也。予所伝者辞也。由辞以得意、則在乎人焉。伊川先生答張閎中書曰:易伝未伝、自量精力未衰、尚覬有少進爾。来書云:「易之義本起於数。」謂義起於数則非也。有理而後有象、有象而後有数。易因象以明理、由象以知数。得其義則象数在其中矣。必欲窮象之隠微、尽数之毫忽、乃尋流逐末。術家之所尚、非儒者之所務也。知時識勢、学易之大方也。大畜初二、乾体剛健、而不足以進。四五陰柔而能止。時之盛衰、勢之強弱、学易者所宜深識也。諸卦二五、雖不当位、多以中為美。三四雖当位、或以不中為過。中常重於正也。蓋中則不違於正、正不必中也。天下之理莫善於中、於九二六五可見。問:胡先生解九四作太子、恐不是卦義。
書き下し
「易に聖人の道四つ有り。以て言ふ者は其の辞を尚び、以て動く者は其の変を尚び、以て器を制する者は其の象を尚び、以て卜筮する者は其の占を尚ぶ」。吉凶消長の理、進退存亡の道は、辞に備はる。辞を推し卦を考ふれば、以て変を知るべし。象と占とは其の中に在り。「君子居れば則ち其の象を観て其の辞を玩び、動けば則ち其の変を観て其の占を玩ぶ」。辞に得て其の意に達せざる者は之有り、未だ辞に得ずして能く其の意に通ずる者有らざるなり。至微なる者は理なり、至著なる者は象なり。体用一源、顕微無間なり。「会通を観て以て其の典礼を行ふ」ときは、則ち辞備はらざる所無し。故に善く学ぶ者は言を求むること必ず近きよりす。近きを易る者は、言を知る者に非ざるなり。予の伝ふる所の者は辞なり。辞に由りて以て意を得るは、則ち人に在り。伊川先生張閎中に答ふる書に曰く、易伝未だ伝へざるは、自ら精力の未だ衰へざるを量り、尚ほ少しく進む有らんことを覬(こひねが)ふのみ。来書に云ふ、「易の義は本数より起こる」と。義数より起こると謂ふは則ち非なり。理有りて後に象有り、象有りて後に数有り。易は象に因りて以て理を明らかにし、象に由りて以て数を知る。其の義を得れば則ち象数其の中に在り。必ず象の隠微を窮め、数の毫忽を尽くさんと欲するは、乃ち流れを尋ねて末を逐ふなり。術家の尚ぶ所にして、儒者の務むる所に非ざるなり。時を知り勢を識るは、易を学ぶの大方なり。大畜の初二は、乾体剛健なるも、以て進むに足らず。四五は陰柔にして能く止む。時の盛衰、勢の強弱は、易を学ぶ者の宜しく深く識るべき所なり。諸卦の二五は、位に当たらずと雖も、多く中を以て美と為す。三四は位に当たると雖も、或いは中ならざるを以て過ちと為す。中は常に正より重し。蓋し中なれば則ち正に違はず、正は必ずしも中ならず。天下の理は中より善きは莫し、九二六五に於て見るべし。問ふ、胡先生九四を解して太子と作す、恐らくは是れ卦の義にあらざらん。
現代語訳
『易』の繋辞伝に「易には聖人の道が四つある。言葉に用いる者はその辞を尊び、行動に用いる者はその変化を尊び、器物を作るのに用いる者はその象を尊び、占いに用いる者はその占を尊ぶ」とある。吉凶や盛衰の理、進退や存亡の道は、辞に備わっている。辞を推し卦を考えれば、変化を知ることができる。象と占はその中にある。「君子は、平時にはその象を観てその辞を味わい、行動するときにはその変化を観てその占を味わう」。辞を得ていてもその意に達しない者はいるが、辞を得ないでその意に通じる者はいない。最も微かなものは理であり、最も顕著なものは象である。本体とはたらきは一つの源から出ており、顕れたものと微かなものとの間に隔たりはない。「物事が集まり通じ合うところを観察して、その典礼を行う」なら、辞には備わらないところがない。だからよく学ぶ者は、言葉を求めるのに必ず身近なところから始める。身近なものを軽んじる者は、言葉を知る者ではない。私が伝えるのは辞である。辞によって意を得るのは、その人次第である。程頤(伊川先生)は張閎中(程頤の門人)に答えた手紙で言う。『易伝』をまだ人に伝えていないのは、自分の精力がまだ衰えていないと見て、なお少しでも進歩があればと願っているからにすぎない。あなたの手紙には「易の意義はもともと数から起こった」とある。意義が数から起こると言うのは誤りである。理があってのちに象があり、象があってのちに数がある。易は象によって理を明らかにし、象によって数を知るのである。その意義を得れば、象と数はその中にある。象の隠れた微妙さを窮め、数のごく細かいところまで尽くそうとするのは、流れをたどって末を追うことである。それは術家が尊ぶことであって、儒者が務めることではない。時を知り勢いを見分けることが、易を学ぶ大きな方法である。大畜の卦の初九・九二は、乾の体で剛健であるが、進むには足りない。六四・六五は陰で柔らかいが、よく止めることができる。時の盛衰、勢いの強弱は、易を学ぶ者が深く見分けるべきところである。諸卦の二と五の爻は、位に当たっていなくても、多くは中であることを美とする。三と四の爻は、位に当たっていても、中でないことを過ちとすることがある。中は常に正より重い。思うに、中であれば正に違わないが、正は必ずしも中ではない。天下の理は中より善いものはない。九二と六五においてそれを見ることができる。ある人が問うた。胡瑗(胡先生、北宋の儒者)は九四を太子と解釈したが、それは卦の意義ではないのではないか。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻3 致知先生云ふ、亦た妨げず。只だ如何に用ふるかを看よ。儲弐に当たれば則ち儲弐と做して使ふ。九四は君に近し、便ち儲弐と作すも、亦た害あらず。但だ一に拘らざらんことを要す。若し一事に執すれば、則ち三百八十四爻は、只だ三百八十四件の事と作し得て便ち休み了らん。易を看るには且く時を知らんことを要す。凡そ六爻は人人用有り。聖人には自ら聖人の用有り、賢人には自ら賢人の用有り。衆人には自ら衆人の用有り、学者には自ら学者の用有り。君には君の用有り、臣には臣の用有り。通ぜざる所無し。因りて坤卦は是れ臣の事なり、人君に用ふる処有りや否やを問ふ。先生曰く、是れ何ぞ用無からん。「徳を厚くして物を載す」の如き、人君安んぞ用ひざるべけんや。易中は只だ是れ反復往来上下を言ふ。易を作るは天地幽明より、昆虫草木の微物に至るまで、合はざる無し。今時の人の易を看るは、皆易の是れ何物なるかを識り得ず。只だ上に就きて穿鑿す。若し念じ得ること熟せざれば、上に与(ため)に一徳を添ふるも、亦た多きを覚えず。上に就きて一徳を減ずるも、亦た少なきを覚えず。譬へば此の兀子を識らざるが如し、若し一隻の脚を減ずるも、亦た是れ少なきを知らず。若し一隻を添ふるも、亦た是れ多きを知らず。若し識れば則ち自ら添減し得ざるなり。游定夫伊川に「陰陽測られざる之を神と謂ふ」を問ふ。伊川曰く、賢は是れ疑ひ了りて問ふか、是れ難しき底を揀びて問ふか。伊川易伝を以て門人に示して曰く、只だ七分を説き得たり、後人更に須らく自ら体究すべし。伊川先生春秋伝の序に曰く、天の民を生ずる、必ず出類の才有りて、起ちて之に君長たり。之を治めて争奪息み、之を導きて生養遂げ、之を教へて倫理明らかなり。然る後に人道立ち、天道成り、地道平らかなり。二帝よりして上、聖賢世々出づ。時に随ひて作す有り。風気の宜しきに順ひ、天に先だちて以て人を開かず、各時に因りて政を立つ。
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易経・繋辞上易に聖人の道四つ有り。以て言う者は其の辞を尚(たっと)び、以て動く者は其の変を尚び、以て器を制する者は其の象を尚び、以て卜筮する者は其の占を尚ぶ。是を以て君子将に為す有らんとし、将に行う有らんとして、問いて以て言えば、其の命を受くること響きの如し。遠近幽深と无く、遂に来物を知る。天下の至精に非ずんば、其れ孰(たれ)か能く此れに与(あず)からん。
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『近思録』巻2 為学「至るを知りて之に至る」は、知を致すなり。至る所を知らんことを求めて後に之に至る。之を知ること先に在り、故に与に幾すべし。所謂「条理を始むる者は、智の事なり」。「終はるを知りて之を終ふ」は、力行なり。既に終はる所を知れば、則ち力め進みて之を終ふ。之を守ること後に在り、故に与に義を存すべし。所謂「条理を終ふる者は、聖の事なり」。此れ学の始終なり。君子は敬を主として以て其の内を直くし、義を守りて以て其の外を方にす。敬立ちて内直く、義形れて外方なり。義は外に形るるも、外に在るに非ざるなり。敬義既に立てば、其の徳盛んなり。大ならんことを期せずして大なり、徳孤ならざるなり。用ふる所として周からざる無く、施す所として利あらざる無し。孰か疑ひと為さんや。動くに天を以てするを無妄と為し、動くに人欲を以てすれば則ち妄なり。無妄の意大なるかな。邪心無しと雖も、苟も正理に合はざれば、則ち妄なり、乃ち邪心なり。既已に無妄なれば、宜しく往く有るべからず。往けば則ち妄なり。故に無妄の彖に曰く、「其れ正に匪ざれば眚(わざはひ)有り、往く攸有るに利あらず」と。人の蘊蓄は、学に由りて大なり。多く前古の聖賢の言と行とを聞くに在り。跡を考へて以て其の用を観、言を察して以て其の心を求む。識りて之を得、以て蓄へて其の徳を成す。咸の象に曰く、「君子以て虚にして人を受く」と。伝に曰く、「中に私主無ければ、則ち感じて通ぜざる無し。量を以て之を容れ、合ふを択びて之を受くるは、聖人の感ずれば必ず通ずるの道に非ざるなり」と。其の九四に曰く、「貞なれば吉にして悔亡ぶ、憧憧として往来すれば、朋爾の思ひに従ふ」と。伝に曰く、「感なる者は、人の動なり」と。故に咸は皆人身に就きて象を取る。四は心の位に当たりて其の心に咸ずと言はず、感は乃ち心なり。感の道は通ぜざる所無し。私係する所有れば、則ち感通を害す、所謂悔なり。聖人の天下の心を感ぜしむるは、寒暑雨暘の通ぜざる無く応ぜざる無きが如き者も、亦た貞なるのみ。貞なる者は、虚中無我の謂なり。
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『近思録』巻3 致知凡そ思ひを致して説き得ざる処に到りて、始めて復た審らかに思ひ明らかに弁ず、乃ち善く学ぶと為す。告子の若きは則ち説き得ざる処に到りて遂に已み、更に復た求めず。伊川先生曰く、凡そ文字を看るには、先づ須らく其の文義を暁りて、然る後に其の意を求むべし。未だ文義暁らずして、意を見る者有らざるなり。学者は自得せんことを要す。六経は浩渺として、乍ち来たりて尽く暁り難し。且く路径を見得て後、各自ら一箇の門庭を立て得て、帰りて之を求めて可なり。凡そ文字を解するは、但だ其の心を易くすれば自ら理を見る。理は只だ是れ人理甚だ分明なり、一条の平坦底の道路の如し。詩に曰く、「周道は砥の如く、其の直きこと矢の如し」と。此の謂なり。或るひと曰く、聖人の言は、恐らくは浅近を以て他を看るべからず。曰く、聖人の言は、自ら近き処有り、自ら深遠なる処有り。近き処の如きは怎生(いかん)ぞ強ひて鑿ちて深遠ならしめ得んや。揚子曰く、「聖人の言は遠きこと天の如く、賢人の言は近きこと地の如し」と。頤之を改めて曰く、聖人の言は、其の遠きこと天の如く、其の近きこと地の如し。学者の文義に泥まざる者は、又全く背き却きて遠く去る。文義を理会する者は、又滞泥して通ぜず。子濯孺子の将たるの事の如き、孟子は只だ其の師に背かざるの意を取るのみ。人は須らく上面に就きて君に事ふるの道の如何なるかを理会すべし。又万章の舜の廩を完くし井を浚ふの事を問ふが如き。孟子は只だ他に大意を答ふるのみ。人須らく井を浚ひて如何にして出で得来たり、廩を完くして又怎生にして下り得来たるかを理会せんことを要せば、此くの若きの学は、徒に心力を費やすのみ。凡そ書を観るに相類を以て其の義に泥むべからず。爾らずんば、則ち字字相梗(ふさ)がる。当に其の文勢上下の意を観るべし、「充実せる之を美と謂ふ」の如き、詩の「美」と同じからず。問ふ、瑩中嘗て文中子を愛す、或るひと易を学ぶを問ふ。子曰く、「終日乾乾」にして可なりと。此の語最も尽くせり。文王の聖なる所以も、亦た只だ是れ箇の已まざるなり。
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易経・繋辞上夫れ易は、聖人の深きを極めて幾(き)を研(きわ)むる所以なり。唯だ深きが故に、能く天下の志に通ず。唯だ幾なるが故に、能く天下の務めを成す。唯だ神なるが故に、疾(と)からずして速やかに、行かずして至る。子の曰く「易に聖人の道四つ有り」とは、此れを之れ謂うなり。子曰く、「夫れ易は、何を為す者ぞや。夫れ易は物を開き務めを成し、天下の道を冒(おお)う、斯(か)くの如き者のみ。是の故に、聖人は以て天下の志に通じ、以て天下の業を定め、以て天下の疑いを断つ」と。是の故に、蓍(し)の徳は、円にして神。卦の徳は、方にして知。六爻の義は、易にして貢(つ)ぐ。聖人此を以て心を洗い、退きて密に蔵(かく)れ、吉凶は民と患いを同じくす。神以て来たるを知り、知以て往(さ)にしを蔵む。其れ孰か能く此れに与らんや。古の聡明叡知にして神武にして殺さざる者か。
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