近思録 / 巻2 為学
此卷總論為學之要。蓋「尊德性」矣、必「道問學」、明乎道體、知所指歸、斯可究為學之大凡矣。
新字:此巻総論為学之要。蓋「尊徳性」矣、必「道問学」、明乎道体、知所指帰、斯可究為学之大凡矣。
書き下し
此の巻は総べて為学の要を論ず。蓋し「徳性を尊び」て、必ず「問学に道(よ)る」、道体に明らかにして、指帰する所を知らば、斯に為学の大凡を究むべし。
現代語訳
この巻は、学問をするうえでの要点を総合的に論じる。思うに、『中庸』にいう「徳性を尊ぶ」ことをしたうえで、必ず「問い学ぶことによる」必要がある。道の本体を明らかにして、目指して帰着すべきところを知ったなら、そこで学問をすることの大筋を究めることができる。
解説
『近思録』巻二「為学」の冒頭に置かれた、編者による巻の解題である。巻一で道の本体を示したあと、ここから学問の方法に入る。引かれている「徳性を尊びて問学に道る」は『中庸』の句で、内なる徳を大切にすることと、外に向かって問い学ぶことの両方を求める。朱熹と論敵の陸九淵のあいだでは、どちらを重んじるかが大きな争点となったが、朱熹は両者を車の両輪として説き、とりわけ問学の地道な積み重ねを重視した。この巻には程顥・程頤・張載らの学問論が多く収められ、顔回を手本とすること、立志、敬と義などが繰り返し説かれる。仕事でも、志や価値観を磨くことと、知識や技能を学ぶことはどちらか一方では足りない。行き先を知ったうえで学ぶことが大切である。
この章句が説くこと
為学徳性問学道体指帰
関連する章句
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『近思録』巻2 為学大抵学は言はずして自得する者、乃ち自得なり。安排布置する者有るは、皆自得に非ざるなり。視聴思慮動作は、皆天なり。人は但だ其の中に於て真と妄とを識り得んことを要するのみ。明道先生曰く、学は只だ鞭辟近裏、己に著けんことを要するのみ。故に「切に問ひて近く思へば、則ち仁其の中に在り」。「言忠信、行篤敬ならば、蛮貊の邦と雖も行はれん。言忠信ならず、行篤敬ならずんば、州里と雖も行はれんや。立てば則ち其の前に参するを見、輿に在れば則ち其の衡に倚るを見る、夫れ然る後に行はる」。只だ此れ是れ学なり。質の美なる者は明らかにし得て尽くし、査滓便ち渾化す。却って天地と体を同じくす。其の次は惟だ荘敬持養す。其の至るに及びては則ち一なり。「忠信は徳に進む所以、辞を修めて其の誠を立つるは業に居る所以」なる者は、乾道なり。「敬以て内を直くし、義以て外を方にす」なる者は、坤道なり。凡そ人才かに学べば、便ち須らく力を著くる処を知るべし。既に学べば便ち須らく力を得る処を知るべし。人の園圃を治めて、知力を役すること甚だ労する有り。先生曰く、蠱の象に「君子以て民を振ひ徳を育ふ」と。君子の事は、惟だ此の二者有るのみ、余に他無し。二者は己の為人の為の道なり。「博く学びて篤く志し、切に問ひて近く思ふ」、何を以て「仁其の中に在り」と言ふか。学者要ず之を思ひ得よ。此を了すれば便ち是れ上に徹し下に徹するの道なり。弘にして毅ならざれば、則ち立ち難し。毅にして弘ならざれば、則ち以て之に居る無し。伊川先生曰く、古の学者は、優柔厭飫して、先後次序有り。今の学者は、却って只だ一場の話説を做して、高きを務むるのみ。常に杜元凱の語を愛す、「江海の浸すが若く、膏沢の潤すが若く、渙然として氷釈け、怡然として理順ふ。然る後に得たりと為すなり」と。今の学者は、往往にして游夏を以て小と為し、学ぶに足らずとす。然れども游夏の一言一事は、却って総べて是れ実なり。後の学者は高きを好む。
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『近思録』巻2 為学文は密察ならんことを要し、心は洪放ならんことを要す。疑ひを知らざる者は、只だ是れ便ち実作せざるなり。既に実作すれば則ち須らく疑ひ有るべし。必ず行はれざる処有る、是れ疑ひなり。心大なれば則ち百物皆通じ、心小なれば則ち百物皆病む。人功有りと雖も、学に及ばざるも、心も亦た宜しく忘るべからず。心苟も忘れざれば、則ち人事に接すと雖も即ち是れ実行にして、道に非ざる莫きなり。心若し之を忘るれば、則ち終身之に由るも、則ち是れ俗事なり。内外を合し、物我を平らかにす、此れ道を見るの大端なり。既に学びて先づ功業を以て意と為す者有れば、学に於て便ち相害す。既に意有れば、必ず穿鑿創意して事端を作起するなり。徳未だ成らずして先づ功業を以て事と為すは、是れ大匠に代はりて斲るなり、手を傷つけざること希なり。窃かに嘗て病む、孔孟既に没して、諸儒囂然として、約に反り源を窮むることを知らず、苟作に勇なり。逮ばざるの資を持して、急に後世に知られんとす。明者一覧すれば、肺肝を見るが如く然り。多く其の量を知らざるを見る。方に且に其の弊を創艾し、黙して吾が誠を養はんとす。顧みるに患ふる所は日力足らずして、未だ果たして他を為さざるなり。学未だ至らずして好んで変を語る者は、必ず終に患ひ有るを知る。蓋し変は軽々しく議すべからず。若し驟然として変を語れば、則ち操術の已に正しからざるを知る。凡そ事の蔽蓋して底を見ざるは、只だ是れ益を求めざるなり。人の其の道義を言ふを肯ぜざる有り、得る所至る所底を見るを得ず。又「言に於て説ばざる所無し」にも非ず。耳目外に役せらる。外事を攬る者は、其の実は是れ自ら隋(おこた)り(一本に「墮」に作る)、肯へて自ら治めず。只だ短長を言ひて、躬に反ること能はざる者なり。学者は大小志小にして気軽なるは宜しからず。志小なれば則ち足り易く、足り易ければ則ち進むに由無し。気軽なれば則ち未だ知らざるを以て已に知れりと為し、未だ学ばざるを以て已に学べりと為す。
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『近思録』巻2 為学経義を求むるが如きは、皆栽培の意なり。昔周茂叔に受学せしとき、毎に顔子仲尼の楽しむ処、楽しむ所は何事なるかを尋ねしむ。見る所期する所は、遠く且つ大ならざるべからず、然れども之を行ふは亦た須らく力を量りて漸有るべし。志大にして心労し、力小にして任重ければ、恐らくは終に事を敗らん。朋友の講習は、更に「相観て善くす」の工夫の多きに如くは莫し。須らく是れ其の心を大にして、開闊ならしむべし。譬へば九層の台を為るが如し、須らく大いに脚を做して始めて得べし。明道先生曰く、舜の畎畝の中より発(おこ)り、百里奚の市より挙げらるるに至るまで、若し熟せんことを要せば、也た須らく這裏より過ぐべし。参や、竟に魯を以て之を得たり。明道先生記誦博識を以て「物を玩びて志を喪ふ」と為す。礼楽は只だ進反の間に在り、便ち性情の正を得。父子君臣は、天下の定理にして、天地の間に逃るる所無し。安んじて天分を得、私心有らざれば、則ち一不義を行ひ、一不辜を殺して、為さざる所有り。分毫の私有れば、便ち是れ王者の事ならず。性を論じて気を論ぜざれば、備はらず。気を論じて性を論ぜざれば、明らかならず。之を二つにすれば則ち是ならず。学を論ずれば便ち理を明らかにせんことを要し、治を論ずれば便ち須らく体を識るべし。曾点漆雕開は已に大意を見る、故に聖人之に与す。根本は須らく是れ先づ培壅すべし、然る後に趨向を立つべきなり。趨向既に正しければ、造る所の浅深は、則ち勉むると勉めざるとに由るなり。敬義夾持して、直ちに上りて天徳に達するは此よりす。懈意一たび生ずれば、便ち是れ自棄自暴なり。学ばざれば便ち老いて衰ふ。人の学の進まざるは、只だ是れ勇ならざればなり。学者の気に勝たれ、習に奪はるるは、只だ志を責むべし。内重ければ則ち以て外の軽きに勝つべく、得ること深ければ則ち以て誘ひの小なるを見るべし。董仲舒謂ふ、「其の義を正して、其の利を謀らず。其の道を明らかにして、其の功を計らず」と。孫思邈曰く、「胆は大ならんことを欲して心は小ならんことを欲し、智は円ならんことを欲して行ひは方ならんことを欲す」と。以て法と為すべし。
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『近思録』巻2 為学「志を遜(へりくだ)り、務めて時に敏なれば、厥の修乃ち来たる」。仲尼の才の美と雖も、然も且つ敏にして以て之を求む。今逮ばざるの資を持して、徐徐として以て其の自ら適くを聴かんと欲するは、聞く所に非ざるなり。善を明らかにするを本と為す。之を固執すれば乃ち立ち、之を拡充すれば乃ち大に、之を易視すれば則ち小なり。人の能く之を弘むるに在るのみ。今且く只だ徳性を尊びて問学に道るを将て心と為し、日に自ら問学に於て背く所有りや否や、徳性に於て懈る所有りや否やを求めよ。此の義も亦た是れ文を博くし礼を約し、下学上達なり、此を以て一年警策せば、安んぞ長ぜざるを得んや。毎日須らく多少を求めて益と為すべし。亡き所を知り、少しの不善を改め得。此れ徳性上の益なり。書を読みて義理を求む。書を編むには須らく理会して帰著する所有るべし、徒に写し過ぐること勿れ。又多く前言往行を識る。此れ問学上の益なり。俄頃の間度有らしむること勿れ。逐日此に似(ごと)くすること、三年ならば、庶幾はくは進むこと有らん。
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『近思録』巻2 為学古の学者は己の為にす、これを己に得んと欲すればなり。「今の学者は人の為にす」、これを人に見わさんと欲すればなり。
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『近思録』巻2 為学学者は須らく是れ実を務むべし、名に近づかんことを要せずして方に是なり。意、名に近づくこと有れば、則ち是れ偽なり。大本すでに失う、更に何事を学ばん。名を為すと利を為すと、清濁は異なると雖も、その利心は則ち一なり。
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