近思録 / 巻2 為学
濂溪先生曰:聖希天、賢希聖、士希賢。伊尹顔淵、大賢也。伊尹恥其君不爲堯舜。一夫不得其所、若撻於市。顔淵「不遷怒不貳過」、「三月不違仁」。志伊尹之所志、學顔子之所學、過則聖、及則賢、不及則亦不失於令名。
新字:濂渓先生曰:聖希天、賢希聖、士希賢。伊尹顔淵、大賢也。伊尹恥其君不為堯舜。一夫不得其所、若撻於市。顔淵「不遷怒不貳過」、「三月不違仁」。志伊尹之所志、学顔子之所学、過則聖、及則賢、不及則亦不失於令名。
書き下し
濂渓先生曰く、聖は天を希い、賢は聖を希い、士は賢を希う。伊尹・顔淵は大賢なり。伊尹はその君の堯舜と為らざるを恥ず。一夫のその所を得ざれば、市に撻たるるが若し。顔淵は「怒りを遷さず、過ちを弐びせず」、「三月仁に違わず」。伊尹の志す所を志し、顔子の学ぶ所を学べば、過ぎれば則ち聖、及べば則ち賢、及ばざるも亦た令名を失わず。
現代語訳
周敦頤先生が言う。聖人は天を目標とし、賢人は聖人を目標とし、士は賢人を目標とする。伊尹と顔淵は大賢である。伊尹は自分の君主が堯舜のようでないことを恥じた。一人でも所を得ない者があれば、自分が市中で鞭打たれたように感じた。顔淵は怒りを人に移さず、同じ過ちを繰り返さず、三月のあいだ仁に背かなかった。伊尹の志したところを志し、顔子の学んだところを学べば、それを越えれば聖人、届けば賢人、届かなくてもよい評判を失うことはない。
解説
目標の置き方を階段にした一条である。士は賢を、賢は聖を、聖は天を目指す。自分の一つ上を見よ、という設計だ。そして具体的な手本を二人挙げる。伊尹は、一人でも所を得ない者がいれば自分が市中で鞭打たれたように感じた——責任の感じ方の水準である。顔淵は、怒りを人に移さず、同じ過ちを二度しなかった——自己統御の水準である。志は伊尹に、学びは顔子に。目標が高すぎて動けなくなることへの手当ても付いている。届かなくても良い評判は失わない、と。
この章句が説くこと
聖は天を希い賢は聖を希う伊尹の志顔子の学怒りを遷さず過ちを弐びせず
関連する章句
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