近思録 / 巻2 為学
學者須是務實、不要近名方是。有意近名、則是僞也。大本已失、更學何事?爲名與爲利、清濁雖不同、然其利心則一也。
新字:学者須是務実、不要近名方是。有意近名、則是偽也。大本已失、更学何事?為名与為利、清濁雖不同、然其利心則一也。
書き下し
学者は須らく是れ実を務むべし、名に近づかんことを要せずして方に是なり。意、名に近づくこと有れば、則ち是れ偽なり。大本すでに失う、更に何事を学ばん。名を為すと利を為すと、清濁は異なると雖も、その利心は則ち一なり。
現代語訳
学ぶ者は実を務めるべきで、名に近づこうとしないでこそ正しい。名に近づこうという気持ちがあれば、それはもう偽りである。根本をすでに失っているのだから、この上何を学ぶというのか。名のためにするのと利のためにするのとでは、清いか濁っているかの違いはあっても、利を求める心という点では同じである。
解説
名を求めるのも利を求めるのも同じだ、と言い切る一条である。世間では、金のために働くのは俗で、名誉のために働くのは高尚だとされやすい。程頤はその区別を認めない。清濁の差はあっても、どちらも利心だ、と。学問においてこれが厳しいのは、名を求める気持ちが混じった時点で「大本すでに失う」と断じられるからだ。動機に不純が入れば、その先の努力はすべて偽りの上に積まれることになる。近思録が繰り返し戻ってくる為己の学の、最も厳しい表現である。
この章句が説くこと
実を務む名に近づくは偽大本すでに失う名と利は一つ
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