近思録 / 巻1 道体
中者、天下之大本。天地之間、亭亭當當、直上直下之正理。出則不是。惟敬而無失最盡。伊川先生曰:公則一、私則萬殊。「人心不同如面」只是私心。凡物有本末、不可分本末爲兩斷事。「灑掃應對」是其然、必有所以然。楊子拔一毛不爲、墨子又摩頂放踵爲之。此皆是不得中。至如子莫執中、欲執此二者之中。不知怎麽執得?識得則事事物物上皆天然有箇中在那上、不待人安排也。安排著則不中矣。問時中如何?曰:中字最難識、須是默識心通。且試言一廳、則中央爲中。一家則廳中非中而堂爲中。言一國則堂非中而國之中爲中。推此類可見矣。如「三過其門不入」在禹稷之世爲中、若「居陋巷」則非中也。居陋巷在顔子之時爲中、若「三過其門不入」、則非中也。無妄之謂誠、不欺其次矣。冲漠無朕、萬象森然已具。未應不是先、已應不是後。如百尺之木、自根本至枝葉、皆是一貫。不可道上面一段事、無形無兆卻待人旋安排、引入來教入塗轍。既是塗轍、卻只是一箇塗轍。近取諸身、百理皆具。屈伸往來之義、只於鼻息之間見之。屈伸往來、只是理不必將既屈之氣、復爲方伸之氣。生生之理、自然不息。
新字:中者、天下之大本。天地之間、亭亭当当、直上直下之正理。出則不是。惟敬而無失最尽。伊川先生曰:公則一、私則万殊。「人心不同如面」只是私心。凡物有本末、不可分本末為両断事。「灑掃応対」是其然、必有所以然。楊子抜一毛不為、墨子又摩頂放踵為之。此皆是不得中。至如子莫執中、欲執此二者之中。不知怎麽執得?識得則事事物物上皆天然有箇中在那上、不待人安排也。安排著則不中矣。問時中如何?曰:中字最難識、須是黙識心通。且試言一庁、則中央為中。一家則庁中非中而堂為中。言一国則堂非中而国之中為中。推此類可見矣。如「三過其門不入」在禹稷之世為中、若「居陋巷」則非中也。居陋巷在顔子之時為中、若「三過其門不入」、則非中也。無妄之謂誠、不欺其次矣。沖漠無朕、万象森然已具。未応不是先、已応不是後。如百尺之木、自根本至枝葉、皆是一貫。不可道上面一段事、無形無兆却待人旋安排、引入来教入塗轍。既是塗轍、却只是一箇塗轍。近取諸身、百理皆具。屈伸往来之義、只於鼻息之間見之。屈伸往来、只是理不必将既屈之気、復為方伸之気。生生之理、自然不息。
書き下し
中なる者は天下の大本なり。天地の間、亭亭当当として、直上直下の正理なり。出づれば則ち是ならず。惟だ敬して失ふ無きこと最も尽くせり。伊川先生曰く、公なれば則ち一、私なれば則ち万殊なり。「人心の同じからざること面の如し」とは只だ是れ私心なり。凡そ物に本末有り、本末を分かちて両断の事と為すべからず。「灑掃応対」は是れ其の然り、必ず然る所以有り。楊子は一毛を抜くも為さず、墨子は又頂を摩して踵に放(いた)るも之を為す。此れ皆是れ中を得ず。子莫の中を執るが如きに至りては、此の二者の中を執らんと欲す。知らず怎麽(いかん)ぞ執り得ん。識り得れば則ち事事物物の上に皆天然に箇の中の那の上に在る有り、人の安排を待たざるなり。安排著すれば則ち中ならず。時中は如何と問ふ。曰く、中の字最も識り難し、須らく是れ黙識心通すべし。且く試みに一庁を言へば、則ち中央を中と為す。一家なれば則ち庁中は中に非ずして堂を中と為す。一国を言へば則ち堂は中に非ずして国の中を中と為す。此の類を推せば見るべし。「三たび其の門を過ぎて入らず」の如きは禹稷の世に在りては中と為す、若し「陋巷に居る」は則ち中に非ざるなり。陋巷に居るは顔子の時に在りては中と為す、若し「三たび其の門を過ぎて入らず」は、則ち中に非ざるなり。無妄之を誠と謂ひ、欺かざるは其の次なり。冲漠として朕無く、万象森然として已に具はる。未だ応ぜざるも是れ先ならず、已に応ずるも是れ後ならず。百尺の木の、根本より枝葉に至るまで、皆是れ一貫なるが如し。上面の一段の事、形無く兆無く、却って人の旋(にはか)に安排して、引き入れ来たりて塗轍に入らしむるを待つと道ふべからず。既に是れ塗轍なれば、却って只だ是れ一箇の塗轍なり。近く諸を身に取れば、百理皆具はる。屈伸往来の義は、只だ鼻息の間に於て之を見る。屈伸往来は只だ是れ理なり、必ずしも既に屈するの気を将て、復た方に伸びんとするの気と為さず。生生の理、自然に息まず。
現代語訳
中とは天下の大本である。天地の間にまっすぐに立ち、上から下まで貫く正しい理である。そこから外れればもう正しくない。ただ敬によってそれを失わないようにするのが最も行き届いたやり方である。程頤(伊川先生)は言う。公であれば一つにまとまり、私であればばらばらに分かれる。「人の心が同じでないのは顔が違うのと同じだ」というのは、私心のことを言っているにすぎない。およそ物には本と末があるが、本と末を切り離して二つの事柄としてはならない。「掃除や応対」は表に現れた然る姿であり、そこには必ずそうである理由がある。楊朱は毛一本を抜いて天下のためになるとしてもそれをしない。墨子は頭のてっぺんからかかとまですり減らしてでもそれをする。これはどちらも中を得ていない。子莫が中を執ったというのは、この二者の真ん中を取ろうとしたのである。いったいどうやってそれを執れるというのか。分かってみれば、一つ一つの事、一つ一つの物の上に、みな天然に中というものがそこにあるのであり、人が配置するのを待つものではない。配置しようとしたとたん、中ではなくなる。ある人が時中(時にかなった中)とはどういうことかと問うた。答えて言う。中という字は最も分かりにくい。黙って心で悟り通じるしかない。試しに一つの広間で言えば、その中央が中である。一軒の家で言えば、広間の中央は中ではなく、母屋が中である。一国で言えば、母屋は中ではなく、国の中心が中である。この類を推していけば分かる。「三度自分の家の門の前を通っても入らなかった」というのは、禹や稷(后稷、農業をつかさどった臣)の時代には中であった。もしそのときに「狭い路地に住む」なら中ではない。狭い路地に住むのは顔回(顔子、孔子の高弟)の時には中であった。もしそのときに「三度門を過ぎても入らない」なら、中ではない。偽りがないことを誠といい、欺かないことはその次である。ひっそりとして何の兆しもないうちに、万物の姿はすでに整然と備わっている。まだ応じていないからといって先にあるのではなく、すでに応じたからといって後にあるのでもない。百尺の木が、根元から枝葉まで一貫しているようなものである。上の方の事柄は形も兆しもないので、人がにわかに手配して引き入れ、決まった軌道に乗せるのを待つのだと言ってはならない。軌道であるなら、それはただ一本の軌道にすぎない。身近に自分の身体に取ってみれば、あらゆる理がすべて備わっている。縮んでは伸び、去っては来るという道理は、鼻の呼吸のあいだにそれを見ることができる。屈伸往来はただ理なのであって、すでに縮んだ気を、これから伸びる気にもう一度使うというわけではない。生み出し続ける理は、自ずからやむことがない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『慎思録』巻之五礼楽は、聖人の人に教ふるの具なり。故に曰く、礼楽は斯須も身を去るべからず、と。蓋し礼楽に本有り文有り。礼楽の文は繁多なりと雖も、然れども礼の本は是れ一箇の敬、楽の本は是れ一箇の和なり。礼、之を外に表せば、則ち制度品節と為り、楽、之を外に表せば、則ち詠歌舞蹈と為る。所謂礼楽の文なり。本無ければ則ち立たず、文無ければ則ち行はれず。故に礼楽は本と文とを兼ねて全備と為す。礼勝れば則ち離る。故に楽有るを要す。楽勝れば則ち流る。故に礼有るを要す。二者相済ふべく、一を闕くべからざるなり。
-
『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段答ふ、汝のいへる所は、枝葉にかかはり、文字の沙汰にて、本を失へり。君子は本をつとむと云ふ。万事に渉りてかくのごとし。先づ初学の者は、本末知るを先務とすべし。末に至りては、繁多にして分れ難し。天地有りて物を生じ、物生じて後に名あり。名有りて後、文字を加へて名を書す。文字は伏羲の後、倉頡が作ると云ふに非ずや。いまだ名も附けず、文字も無き前より天道あり。天道といへども、人有りて付けたる名なり。我が云ふ所を、名を離れて聞くべし。既に聖人は仁を本となし、老子は大道を以て仁の本となし、道と仁と名は二つなり。文字に依りて、何れが本と論議分るべきや。声も無く臭も無くして、万物の体と成る物を、暫く名づけて、乾とも天とも、道とも理とも、命とも性とも、
-
『都鄙問答』卷之四・醫ノ志ヲ問ノ段答、博学は我も好む所なり、捨つるにあらず。然れども、医学熟して後のことなり。本末を正す時は、医学は本と知るべし。有子曰く、本立ちて道生ずと。本末の違へるは、君子の道にあらず。扠汝は、世俗の聞きなれぬことを云ふを、博学と思はれ候や。それは麁相なる了簡なり。良医は聞きなれぬことを云ふものに非ず。医書に、望聞問切と云ふことあり。先づ病人に望み、容体を見るを望と云ふ。様子を聞きて、病を知るを聞と云ふ。不審を問ひて察するを問と云ふ。脈を診て病を定むるを切と云ふ。然れば病人に望み、其の容体を観て後に、疾のことを言はせて聞き、又委細のことは、看病の者に問ひ、且つ脈を診て、我が意に合へるか合はざるかと得心して、薬を用ゆべきことなり。それに人の聞きなれぬことを云ひ、
-
『墨子』修身君子は、戰に陳有りと雖も、勇を本と為す。喪に禮有りと雖も、哀を本と為す。士に學有りと雖も、行を本と為す。是の故に本を置くこと安からざる者は、末を豐かにするを務むること無かれ。近き者親しまざれば、逺きを來すを務むること無かれ。親戚附かざれば、外交を務むること無かれ。事に始め無ければ、終に多業を務むること無かれ。物を舉げて闇ければ、博聞を務むること無かれ。是の故に先王の天下を治むるや、必ず邇きを察して逺きを來す。君子は邇きを察して邇き修まる者なり。修めざる行を見、毁を見て、之を身に反す者なり。此を以て怨み省かれて行い修まる。譖慝の言は、之を耳に入るること無く、批扞の聲は、之を口に出だすこと無く、人を殺傷するの孩は、之を心に存すること無くんば、詆訐の民有りと雖も、依る所無からん。故に君子は事に力めて日に彊く、願欲は日に逾え、設壯は日に盛んなり。君子の道や、貧しければ則ち亷を見わし、富めば則ち義を見わし、生けば則ち愛を見わし、死すれば則ち哀を見わす。四行なる者は虚假す可からず、之を身に反す者なり。心に蔵する者は以て愛を竭くすこと無く、身に動く者は以て恭を竭くすこと無く、口に出づる者は以て馴を竭くすこと無し。之を四支に暢べ、之を肌膚に接し、華髮隳巔にして猶お舎てざる者は、其れ唯だ聖人か。
-
司馬法・嚴位凡そ大善は本を用い、其の次は末を用う。略を執り微を守り、本末は唯(た)だ権(はか)るのみ、戦なり。
-
説苑・說叢其の身を脩めずして之を人に求む、是を失倫と謂う。其の內を治めずして、其の外を脩む、是を大廢と謂う。重く載せて之を危くし、策を操りて之に隨う、全うする所以に非ざるなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る