近思録 / 巻1 道体
生之謂性。性即氣、氣即性、生之謂也。人生氣稟、理有善惡。然不是性中元有此兩物相對而生也。有自幼而善、有自幼而惡。是氣稟有然也。善固性也、然惡亦不可不謂之性也。蓋生之謂性。人生而靜、以上不容說。才說性時便已不是性也。凡人說性、只是說「繼之者善也。」孟子言性善是也。夫所謂「繼之者善也」者、猶水流而就下也。皆水也、有流而至海終無所汙。此何煩人力之爲也?有流而未遠固已漸濁。有出而甚遠方有所濁。有濁之多者、有濁之少者。清濁雖不同、然不可以濁者不爲水也。如此則人不可以不加澄治之功。故用力敏勇則疾清、用力緩怠則遲清。及其清也、則卻只是元初水也。不是將清來換卻濁、亦不是取出濁來置在一隅也。水之清、則性善之謂也。故不是善與惡在性中爲兩物相對、各自出來。此理、天命也。順而循之、則道也。循此而脩之、各得其分則教也。自天命以至於教、我無加損焉。此舜有天下而不與焉者也。觀天地生物氣象。萬物之生意最可觀、此元者善之長也。斯可謂仁也。滿腔子是惻隱之心。天地萬物之理無獨必有對。皆自然而然、非有安排也。每中夜以思、不知手之舞之、足之蹈之也。
新字:生之謂性。性即気、気即性、生之謂也。人生気稟、理有善悪。然不是性中元有此両物相対而生也。有自幼而善、有自幼而悪。是気稟有然也。善固性也、然悪亦不可不謂之性也。蓋生之謂性。人生而静、以上不容説。才説性時便已不是性也。凡人説性、只是説「継之者善也。」孟子言性善是也。夫所謂「継之者善也」者、猶水流而就下也。皆水也、有流而至海終無所汚。此何煩人力之為也?有流而未遠固已漸濁。有出而甚遠方有所濁。有濁之多者、有濁之少者。清濁雖不同、然不可以濁者不為水也。如此則人不可以不加澄治之功。故用力敏勇則疾清、用力緩怠則遅清。及其清也、則却只是元初水也。不是将清来換却濁、亦不是取出濁来置在一隅也。水之清、則性善之謂也。故不是善与悪在性中為両物相対、各自出来。此理、天命也。順而循之、則道也。循此而脩之、各得其分則教也。自天命以至於教、我無加損焉。此舜有天下而不与焉者也。観天地生物気象。万物之生意最可観、此元者善之長也。斯可謂仁也。満腔子是惻隠之心。天地万物之理無独必有対。皆自然而然、非有安排也。毎中夜以思、不知手之舞之、足之蹈之也。
書き下し
生之を性と謂ふ。性は即ち気、気は即ち性なり、生之を謂ふなり。人生まれて気稟あり、理として善悪有り。然れども是れ性中に元より此の両物有りて相対して生ずるにあらざるなり。幼より善なる有り、幼より悪なる有り。是れ気稟の然る有るなり。善は固より性なり、然れども悪も亦た之を性と謂はざるべからざるなり。蓋し生之を性と謂ふ。「人生まれて静かなり」、以上は説くを容れず。才かに性を説く時は便ち已に是れ性ならざるなり。凡そ人の性を説くは、只だ是れ「之を継ぐ者は善なり」を説くなり。孟子の性善を言ふは是れなり。夫れ所謂「之を継ぐ者は善なり」とは、猶ほ水の流れて下に就くがごときなり。皆水なり、流れて海に至るまで終に汚す所無き有り。此れ何ぞ人力の為すを煩はさんや。流れて未だ遠からずして固より已に漸く濁る有り。出でて甚だ遠くして方に濁る所有る有り。濁ることの多き者有り、濁ることの少なき者有り。清濁同じからずと雖も、然れども濁れる者を以て水ならずと為すべからざるなり。此の如くなれば則ち人は以て澄治の功を加へざるべからず。故に力を用ふること敏勇なれば則ち疾く清み、力を用ふること緩怠なれば則ち遅く清む。其の清むに及びてや、則ち却って只だ是れ元初の水なり。是れ清を将て来たりて濁に換へ却るにあらず、亦た是れ濁を取り出だし来たりて一隅に置き在くにもあらざるなり。水の清きは、則ち性善の謂なり。故に是れ善と悪と性中に在りて両物と為りて相対し、各自に出で来たるにあらず。此の理は天命なり。順ひて之に循ふは、則ち道なり。此に循ひて之を修め、各其の分を得るは、則ち教なり。天命より以て教に至るまで、我に加損無し。此れ舜天下を有ちて与らざる者なり。天地の物を生ずる気象を観よ。万物の生意最も観るべし、此れ「元は善の長なり」。斯れ仁と謂ふべきなり。満腔子是れ惻隠の心なり。天地万物の理は独なる無く必ず対有り。皆自然にして然り、安排有るに非ざるなり。毎に中夜以て思ふに、手の之を舞ひ、足の之を踏むを知らざるなり。
現代語訳
「生まれつきのものを性という」。性はすなわち気であり、気はすなわち性である。生まれつきのものを言うのである。人は生まれると気質を授かり、理として善と悪が生じる。しかしそれは、性の中にもともと善と悪という二つのものが向かい合って生じてくるということではない。幼いときから善い者もいれば、幼いときから悪い者もいる。これは授かった気質がそうさせるのである。善はもちろん性であるが、悪もまた性と呼ばないわけにはいかない。思うに、生まれつきのものを性というのである。『礼記』にいう「人が生まれて静かである」より以前のことは、言葉で説くことができない。性を説こうとしたとたん、それはもう性そのものではなくなっている。およそ人が性を説くのは、『易』にいう「これを継ぐものは善である」を説いているにすぎない。孟子が性善を言ったのがこれである。そもそも「これを継ぐものは善である」とは、水が流れて低い方へ向かうようなものである。どれも水である。流れて海に至るまで最後まで汚れないものがある。これはどうして人の力を煩わせる必要があろうか。流れ出てまだ遠くないうちに、もう次第に濁るものがある。流れ出てずっと遠くまで行ってから濁るものもある。濁りの多いものもあれば、少ないものもある。清濁は同じでないが、濁ったものを水でないとすることはできない。そうであるから、人は澄ませる努力を加えなければならない。だから力の用い方が機敏で勇ましければ早く澄み、ゆるく怠っていれば遅く澄む。澄んでみれば、それはもとの最初の水にほかならない。清い水を持ってきて濁った水と取り替えるのではなく、濁りを取り出して片隅に置くのでもない。水が澄んでいること、それが性善ということである。だから善と悪が性の中で二つのものとして向かい合い、それぞれ出てくるのではない。この理は天命である。それに従って沿っていくのが道である。それに沿って修め、それぞれがその分を得るのが教である。天命から教に至るまで、私が何かを加えたり減らしたりすることはない。これが、舜が天下を保ちながらそれに関与しなかったということである。天地が万物を生み出す様子を観察せよ。万物の生き生きとした意気が最も見るに値する。これが『易』にいう「元は善の長である」ことであり、これこそ仁と言うべきものである。胸いっぱいに満ちているのが惻隠(いたみ思いやる)の心である。天地万物の理には、単独のものはなく必ず対がある。すべて自ずからそうなっているのであり、誰かが配置したのではない。夜中にこれを思うたびに、思わず手が舞い足が踊るのに気づかないほどである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・雍也篇宰我問いて曰く、「仁者は之に告げて『井に仁有り』と曰うと雖も、其れ之に従わんか。」子曰く、「何為れぞ其れ然らんや。君子は逝かしむ可きも、陥る可からず。欺く可きも、罔う可からず。」
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論語・八佾篇子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如(いかん)せん;人にして仁ならずんば、楽を如せん。
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論語・憲問篇「克・伐・怨・欲、行われずんば、以て仁と為す可きか。」子曰く、「以て難しと為す可し。仁は則ち吾知らざるなり。」
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論語・里仁篇子曰わく、不仁者は久しく約に処るべからず、長く楽に処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。
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論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
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論語・微子篇微子これを去り、箕子これに為に奴となり、比干諫めて死す。孔子曰わく、殷に三仁有り。
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