近思録 / 巻1 道体
醫書言「手足痿痹爲不仁。」此言最善名狀。仁者以天地萬物爲一體、莫非己也。認得爲己、何所不至?若不有諸己、自不與己相干。如手足不仁、氣已不貫、皆不屬己。故博施濟衆、乃聖之功用。仁至難言、故止曰「己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬、可謂仁之方也已。」欲令如是觀仁、可以得仁之體。
新字:医書言「手足痿痹為不仁。」此言最善名状。仁者以天地万物為一体、莫非己也。認得為己、何所不至?若不有諸己、自不与己相干。如手足不仁、気已不貫、皆不属己。故博施済衆、乃聖之功用。仁至難言、故止曰「己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬、可謂仁之方也已。」欲令如是観仁、可以得仁之体。
書き下し
医書に「手足の痿痺を不仁と為す」と言う。この言、最も善く状を名づく。仁者は天地万物を以て一体と為し、己に非ざるは莫し。認め得て己と為さば、何の至らざる所あらん。もし諸れを己に有たざれば、自ら己と相い干せず。手足の不仁なるが如く、気すでに貫かざれば、皆な己に属せず。故に博く施し衆を済うは、乃ち聖の功用なり。仁は至って言い難し。故にただ「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂うべきのみ」と曰う。
現代語訳
医書では、手足の麻痺を「不仁」と呼ぶ。この言い方が、状態を最もよく名づけている。仁の人は天地万物をひとつの身体とみなし、自分でないものはない。自分のものと認めれば、及ばないところはない。もし自分のものと思わなければ、おのずと自分とは関わりがなくなる。手足が麻痺すれば気が通わず、もはや自分に属さないのと同じである。だから広く施して人々を救うのは、聖人の働きなのだ。仁はきわめて言い表しにくい。だからただ「自分が立ちたいと思えば人を立て、自分が達したいと思えば人を達せしめる。身近なところに譬えを取れる、これが仁の道といえる」とだけ言うのである。
解説
仁を、医学の用語から説明した有名な一条である。麻痺した手足は「不仁」と呼ばれる。気が通わなくなり、自分の身体でありながら自分に属さなくなる。逆に言えば、仁とは気が通っている状態のことだ、と。だから仁の人は天地万物を自分の身体として感じる。組織に置き換えれば分かりやすい。関わりが切れた部署は、まだ社内にありながら自分の身体ではなくなっている。痛みが伝わらなくなったところは、すでに麻痺しているのだ。程顥はここから論語の「己立たんと欲して人を立つ」へつなぐ。遠くの理屈ではなく、身近なところから始めよ、と。
この章句が説くこと
手足の痿痺を不仁と為す天地万物を一体と為す己立たんと欲して人を立つ能く近く譬を取る仁実践
関連する章句
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「仁なる者は、人なり。合せて之を言えば、道なり。」
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論語・雍也篇子貢曰く、「如し博く民に施して能く衆を済うこと有らば、何如。仁と謂う可きか。」子曰く、「何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か。堯舜も其れ猶お諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂う可きのみ。」
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言志四録・南洲手抄物我一体は即ち是れ仁なり。我れ公情を執つて以て公事を行ふ、天下服せざる無し。治乱の機は公と不公とに在り。周子曰ふ、己に公なる者は人に公なりと。伊川又公理を以て仁の字を釈す。余姚も亦博愛を更めて公愛と為せり。并せ攷ふ可し。
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論語・顔淵篇顔淵、仁を問う。子曰く、「己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや。」顔淵曰く、「請う、其の目を問わん。」子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」顔淵曰く、「回不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせん。」
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論語・衛霊公篇子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は、吾蹈みて死する者を見たり。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。
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伝習録・陸澄録問う、「程子云う、『仁者は天地万物を以て一体と為す』と。何ぞ墨氏の兼愛は、反りて之を仁と謂うを得ざるか」と。先生曰く、「此れ亦た甚だ言い難し。須らく是れ諸君、自ら体認し出だし来たりて始めて得べし。仁は是れ造化生生不息の理なり。瀰漫周遍し、処として是ならざる無しと雖も、然れども其の流行発生も、亦た只だ個の漸有り。所以に生生不息なり。冬至に一陽生ずるが如きは、必ず一陽生ずるより而る後に漸漸として六陽に至る。若し一陽の生ずる無くんば、豈に六陽有らんや。陰も亦た然り。惟だ其れ漸なり。所以に便ち個の発端の処有り。惟だ其れ個の発端の処有り。所以に生ず。惟だ其れ生ず。所以に息(や)まず。之を木に譬うれば、其の始め芽を抽(ぬ)くは、便ち是れ木の生意の発端の処なり。芽を抽きて然る後に幹を発し、幹を発して然る後に枝を生じ葉を生ず。然る後に是れ生生不息なり。若し芽無くんば、何を以て幹有り枝葉有らんや。能く芽を抽くは、必ず是れ下面に個の根の在る有り。根有りて方に生ず。根無くんば便ち死す。根無くんば何より芽を抽かん。父子・兄弟の愛は、便ち是れ人心の生意の発端の処なり。木の芽を抽くが如し。此より而して民を仁し、而して物を愛するは、便ち是れ幹を発し枝を生じ葉を生ずるなり。墨氏の兼愛は差等無し。自家の父子・兄弟を将(もっ)て途人と一般に看做す。便ち自ら発端の処を没し了る。芽を抽かざれば便ち他に根無きを知り得たり。便ち是れ生生不息に非ず。安くんぞ之を仁と謂うを得んや。孝・弟は仁を為すの本なりとは、却って是れ仁の理、裏面より発生し出づるなり」と。