剣徴 / 精神は剣より鋭し
淮南子主術訓、兵莫憯於心、而莫邪爲下、原注云、憯利也、以志意精誠伐人爲利、言心は、我精神を以て敵の心魂を碎くほどするどなることは無し、鏌鋣の名劍も及ぶ所に非ずと也、是は蜀の馬稷が心攻心戰の說也、敵の根本を摧きて見れば、枝葉は捨置ても破るゝと云こと也、手先のわざは枝葉也、魂は根本也、敵の魂を挫けば、手先の業は自ら用に達ぬことになり行と也、我純一無維必死三昧の境に立ち、身を肉醬になして敵を殺死せんと願欲する念慮氣魄、驀直端的に敵の心に透徹とつらぬき、感動とひゞけば、巧手上工のわざも用にたゝぬぞ、此に至て干將莫邪の銳利も論ずるに足らざる也、是ひとり其理致有のみに非ず、既に事實の徵となすべき者有り、因て附載して以て互に原文の意を相發するもの爾り、必しも博考を衒に非ず、唯學者の考索に便りす、搜神記、楚熊渠子夜行、見寢石、以爲伏虎、彎弓射之、沒金鍛羽、下視知其石也、因後射之、矢摧無迹、漢世復有李廣、爲右北平大守、射虎得石亦如之、劉向曰、誠之至也、而金石爲之開、況於人乎、夫唱而不和、動而不隨、中以有不全者也、
新字:淮南子主術訓、兵莫憯於心、而莫邪為下、原注云、憯利也、以志意精誠伐人為利、言心は、我精神を以て敵の心魂を砕くほどするどなることは無し、鏌鋣の名剣も及ぶ所に非ずと也、是は蜀の馬稷が心攻心戦の説也、敵の根本を摧きて見れば、枝葉は捨置ても破るゝと云こと也、手先のわざは枝葉也、魂は根本也、敵の魂を挫けば、手先の業は自ら用に達ぬことになり行と也、我純一無維必死三昧の境に立ち、身を肉醬になして敵を殺死せんと願欲する念慮気魄、驀直端的に敵の心に透徹とつらぬき、感動とひゞけば、巧手上工のわざも用にたゝぬぞ、此に至て干将莫邪の鋭利も論ずるに足らざる也、是ひとり其理致有のみに非ず、既に事実の徴となすべき者有り、因て附載して以て互に原文の意を相発するもの爾り、必しも博考を衒に非ず、唯学者の考索に便りす、捜神記、楚熊渠子夜行、見寝石、以為伏虎、彎弓射之、没金鍛羽、下視知其石也、因後射之、矢摧無迹、漢世復有李広、為右北平大守、射虎得石亦如之、劉向曰、誠之至也、而金石為之開、況於人乎、夫唱而不和、動而不随、中以有不全者也、
書き下し
淮南子主術訓に「兵は心より憯きは莫く、而して莫邪は下と為す」とあり、原注に云ふ、憯は利也、志意精誠を以て人を伐つを利と為す、言心は、我精神を以て敵の心魂を砕くほどするどなることは無し、鏌鋣の名剣も及ぶ所に非ずと也、是は蜀の馬稷が心攻心戦の説也、敵の根本を摧きて見れば、枝葉は捨置ても破るゝと云こと也、手先のわざは枝葉也、魂は根本也、敵の魂を挫けば、手先の業は自ら用に達ぬことになり行と也、我純一無雑必死三昧の境に立ち、身を肉醤になして敵を殺死せんと願欲する念慮気魄、驀直端的に敵の心に透徹とつらぬき、感動とひゞけば、巧手上工のわざも用にたゝぬぞ、此に至て干将莫邪の鋭利も論ずるに足らざる也、是ひとり其理致有のみに非ず、既に事実の徴となすべき者有り、因て附載して以て互に原文の意を相発するもの爾り、必しも博考を衒に非ず、唯学者の考索に便りす、搜神記に「楚の熊渠子、夜行きて寝石を見、以て伏虎と為し、弓を彎きて之を射るに、金を没し羽を鍛す。下り視て其の石なるを知る。因りて後に之を射れば、矢摧けて迹無し。漢の世に復た李広有り、右北平の大守たりしとき、虎を射て石を得ること亦之の如し。劉向曰く、誠の至りなり。而して金石も之が為に開く。況や人に於いてをや。夫れ唱へて和せず、動きて随はざるは、中に以て全からざる者有ればなり」
現代語訳
『淮南子』主術訓に「武器は心より鋭いものはなく、莫邪(名剣)も下である」とあり、原注に、憯は鋭いの意で、志と誠をもって人を討つことを鋭いとする、とあります。この心は、自分の精神で敵の心魂を砕くほど鋭いものはなく、鏌鋣の名剣も及ばない、ということです。これは蜀の馬稷(馬謖のことか)の「心を攻める戦い」の説です。敵の根本を砕けば、枝葉は放っておいても破れるという意味です。手先の技は枝葉であり、魂は根本です。敵の魂を挫けば、手先の技はおのずと役に立たなくなります。自分が純一無雑で必死三昧の境に立ち、身を肉醤にしてでも敵を倒したいという念と気魄が、まっすぐ敵の心に通り、響き渡れば、巧みな名人の技も役に立ちません。ここに至れば、干将・莫邪の鋭さも論ずるに足りません。これは理屈があるだけでなく、すでに事実の証拠となるものがあります。そこで付記して、原文の意を互いに明らかにします。必ずしも博識を見せびらかすのではなく、学ぶ者が考えを巡らす便宜のためです。『捜神記』に「楚の熊渠子が夜道を行き、横たわる石を見て伏せた虎だと思い、弓を引いて射たところ、矢は鏃を没し羽まで貫いた。近づいて見て石だと知った。後でもう一度射たが、矢は砕けて跡形もなかった。漢の世にまた李広がおり、右北平の太守だったとき、虎を射て石を得たのも同じだった。劉向は言う、誠の極みである。金石も誠のために開く。まして人においてはなおさらだ。唱えても和さず、動いても従わないのは、内に完全でないものがあるからだ」とあります。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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言志四録・言志耋録 第三百三十四条 人道は誠敬のみ人道は只だ是れ誠敬のみ。生きては既に生を全うし、死しては乃ち死に安んず。敬よりして誠なり。生死は天より来る、順ひて之を受く。誠よりして敬なり。夫の短長を較べ、苦楽を説くに至りては、則ち竟に是れ男女親族の私情にして、死者に於ては此の遺念無きのみ。
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『大和俗訓』巻之七・躬行下一程子曰、財ををしみては、よく善を行ふことなり難し。誠なくしては、善をなす事はなり難しと。此言むべなるかな。財を用ひずして、ただ言を以て人をかたらふとも、人を救ひがたし。人もまた悦ばずして其人のために忠を尽さざれば功をなすこと成りがたし。項羽を婦人の仁といひしも是なり。又凡の事、いつはりを以て善を行へば、中心より出でざる故、善を行ふに専一ならずして、其事成就せず。誠の善とすべからず。人も亦信とせず。感通の理なし。
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