啓発録 / 去稚心
源平ノコロ并ニ元龜天正ノ間マデハ隨分十二三歲ニテ母ニ訣レ父ニ暇乞シテ初陣ナト致シ手柄功名ヲ顯シ候人物モ有之候此等ハミナ稚心ナキ故ナリモシ稚心アラバ親ノ臂ノ下ヨリ一寸モ離レ候事ハ相成申間敷マシテ手柄功名ノ立ツベキヨシハコレナキ義ナリ
新字:源平ノコロ并ニ元亀天正ノ間マデハ随分十二三歳ニテ母ニ訣レ父ニ暇乞シテ初陣ナト致シ手柄功名ヲ顕シ候人物モ有之候此等ハミナ稚心ナキ故ナリモシ稚心アラバ親ノ臂ノ下ヨリ一寸モ離レ候事ハ相成申間敷マシテ手柄功名ノ立ツベキヨシハコレナキ義ナリ
書き下し
源平のころ并に元亀天正の間までは、随分十二三歳にて、母に訣れ、父に暇乞して初陣なと致し、手柄功名を顕し候人物も有之候。此等はみな稚心なき故なり。もし稚心あらば、親の臂の下より一寸も離れ候事は相成申間敷。まして手柄功名の立つべきよしはこれなき義なり。
現代語訳
源平のころ、また元亀・天正のころまでは、十二、三歳で母に別れ、父に暇乞いをして初陣などをし、手柄や功名を現した人物もありました。これらはみな稚心がなかったからです。もし稚心があれば、親のひじの下から少しでも離れることはできないでしょう。まして手柄や功名が立つはずはありません。
解説
稚心がなければ何ができるかを、歴史の例で示した段です。源平の合戦や戦国の元亀・天正の時代には、十二、三歳で初陣に出た者がいたと左内は言います。当時の事情を細かく論じる文ではなく、年齢の幼さと心の幼さは別だという点を言いたいのです。親のひじの下から離れられない、という比喩が、安全な場所に居続けようとする心理をよく捉えています。会社でいえば、守られた持ち場を出たくない人に大きな仕事は回りません。若手に早く場数を踏ませる意味を、本人の覚悟の側から説明する材料になります。
この章句が説くこと
稚心初陣覚悟独立場数啓発録
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