肝要工夫録 / 治世の武道
おそれ多き事ながら、神君の御敎に、亂世に武を嗜むは珍しからず、たとへば、鼠の人にとらへらるゝを苦しみ、喰ひ付くが如し。治世に武道を嗜むを、眞の武道を好む人といふべしと仰ありしとぞ。又司馬法に、國大なりといへども、戰を好む時は必ず亡ぶ、天下やすしと雖も、戰を忘るゝ時は危しといへり。されば、武士は武道を以て君につかふまつり、孝弟忠信の助とする事なれば、いかに御治世なればとても、寸陰も武の道を忘るべからず。しかるに、今柔弱の徒は、此道に怠り、いたづらに君の祿を食み、たゞ己の私欲にふけり、逸遊を恣にして、一月が中に、わづか六日七日の當番を以て、君より賜はるところの祿にむくふと心得る人も少からず、若し一月に六日七日の當番を以て、高祿を賜はるの當然となさば、我々が家に召使ふ處の奴僕などは、期年僅の米金を得て、寒暑の厭なく、裾高く引あげ、瓶引さげ、米炊ぎ、一月中にたゞ一日の安きいとまもなく、勤むる者の勞を、柔弱の武士にたくらべ見る時は、奴僕には、あまたの俸米を與ふるとも、更に惜む事なかるべし、何ぞ奴僕にも恥ざらむや。たゞ武士は五常の道を本として、御奉公の暇あらば、日夜文武の道を勵み、主君の御用に立つべきの工夫こそ、肝要の事なれ。
新字:おそれ多き事ながら、神君の御教に、乱世に武を嗜むは珍しからず、たとへば、鼠の人にとらへらるゝを苦しみ、喰ひ付くが如し。治世に武道を嗜むを、真の武道を好む人といふべしと仰ありしとぞ。又司馬法に、国大なりといへども、戦を好む時は必ず亡ぶ、天下やすしと雖も、戦を忘るゝ時は危しといへり。されば、武士は武道を以て君につかふまつり、孝弟忠信の助とする事なれば、いかに御治世なればとても、寸陰も武の道を忘るべからず。しかるに、今柔弱の徒は、此道に怠り、いたづらに君の禄を食み、たゞ己の私欲にふけり、逸遊を恣にして、一月が中に、わづか六日七日の当番を以て、君より賜はるところの禄にむくふと心得る人も少からず、若し一月に六日七日の当番を以て、高禄を賜はるの当然となさば、我々が家に召使ふ処の奴僕などは、期年僅の米金を得て、寒暑の厭なく、裾高く引あげ、瓶引さげ、米炊ぎ、一月中にたゞ一日の安きいとまもなく、勤むる者の労を、柔弱の武士にたくらべ見る時は、奴僕には、あまたの俸米を与ふるとも、更に惜む事なかるべし、何ぞ奴僕にも恥ざらむや。たゞ武士は五常の道を本として、御奉公の暇あらば、日夜文武の道を励み、主君の御用に立つべきの工夫こそ、肝要の事なれ。
書き下し
おそれ多き事ながら、神君の御敎に、亂世に武を嗜むは珍しからず、たとへば、鼠の人にとらへらるゝを苦しみ、喰ひ付くが如し。治世に武道を嗜むを、眞の武道を好む人といふべしと仰ありしとぞ。又司馬法に、國大なりといへども、戰を好む時は必ず亡ぶ、天下やすしと雖も、戰を忘るゝ時は危しといへり。されば、武士は武道を以て君につかふまつり、孝弟忠信の助とする事なれば、いかに御治世なればとても、寸陰も武の道を忘るべからず。しかるに、今柔弱の徒は、此道に怠り、いたづらに君の祿を食み、たゞ己の私欲にふけり、逸遊を恣にして、一月が中に、わづか六日七日の當番を以て、君より賜はるところの祿にむくふと心得る人も少からず、若し一月に六日七日の當番を以て、高祿を賜はるの當然となさば、我々が家に召使ふ處の奴僕などは、期年僅の米金を得て、寒暑の厭なく、裾高く引あげ、瓶引さげ、米炊ぎ、一月中にたゞ一日の安きいとまもなく、勤むる者の勞を、柔弱の武士にたくらべ見る時は、奴僕には、あまたの俸米を與ふるとも、更に惜む事なかるべし、何ぞ奴僕にも恥ざらむや。たゞ武士は五常の道を本として、御奉公の暇あらば、日夜文武の道を勵み、主君の御用に立つべきの工夫こそ、肝要の事なれ。
現代語訳
恐れ多いことながら、神君の御教えに、「乱世に武を嗜むのは珍しくない。たとえば、鼠が人に捕らえられるのを苦しんで食いつくようなものだ。治世に武道を嗜むのを、真に武道を好む人というべきだ」と仰せになったとのことです。また『司馬法』に、「国が大きくても戦を好めば必ず滅び、天下が安らかでも戦を忘れれば危うい」とあります。ですから、武士は武道をもって君に仕え、孝弟忠信の助けとするものですから、いかに御治世であっても、わずかな間も武の道を忘れてはいけません。ところが、今の柔弱の徒は、この道を怠り、むなしく君の禄を食み、ただ自分の私欲にふけり、逸遊をほしいままにして、一月のうちわずか六、七日の当番で、君から賜る禄に報いていると心得る人も少なくありません。もし一月に六、七日の当番で高禄を賜ることが当然であるなら、我々の家に召し使う奴僕などは、一年にわずかな米金を得て、寒暑を厭わず、裾を高くからげ、瓶を提げ、米を炊ぎ、一月のうちにただ一日の安らかな暇もなく勤める者の労を、柔弱な武士と比べてみれば、奴僕には多くの俸米を与えても、少しも惜しいことはないでしょう。どうして奴僕にも恥じないでいられましょうか。ただ武士は五常の道を本とし、ご奉公の暇があれば、日夜文武の道に励み、主君の御用に立つ工夫こそが肝要です。
解説
この章句が説くこと
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