肝要工夫録 / 善の種を蒔く
陰德あれば陽報ありといへる事、誰もいふ事にて、人の知らざる慈悲、惠あれば、人も知りてうらやむ程の福の報ふこととなり。聖人の敎にも、善を積むの家には餘んの慶あり、不善を積の家には餘んの殃あり、と。また善を作せば、天より百の祥を降し、不善を作せば天より百の殃を降すともあり。禍福ともにみな己より求むるところなり。たとへば、草木の種を植ゆるに、かならずその草木を生ず。善を蒔けば福を生じ、惡を植ゆればわざわひを生ずること、また同じ。小人の惡をなして福の來たらむ事を欲するは、茄子を植ゑて瓜の生ぜむことを欲し、豆を植ゑて麥の生ぜむことを欲するよりも甚し。さればこそ、福をねがはゞ、出精して善のたねを植ゑべし、然れども、人として人たるの道を行ひ、善を積むこと、福をもとむるの爲にあらず、論語にも、耕やうへ其中にあるの敎あれども、凡人は目あてなければ怠るものなれば、福をまねくことを目當として善を行ふも、亦た善に勸むの工夫なるべし。
新字:陰徳あれば陽報ありといへる事、誰もいふ事にて、人の知らざる慈悲、恵あれば、人も知りてうらやむ程の福の報ふこととなり。聖人の教にも、善を積むの家には余んの慶あり、不善を積の家には余んの殃あり、と。また善を作せば、天より百の祥を降し、不善を作せば天より百の殃を降すともあり。禍福ともにみな己より求むるところなり。たとへば、草木の種を植ゆるに、かならずその草木を生ず。善を蒔けば福を生じ、悪を植ゆればわざわひを生ずること、また同じ。小人の悪をなして福の来たらむ事を欲するは、茄子を植ゑて瓜の生ぜむことを欲し、豆を植ゑて麦の生ぜむことを欲するよりも甚し。さればこそ、福をねがはゞ、出精して善のたねを植ゑべし、然れども、人として人たるの道を行ひ、善を積むこと、福をもとむるの為にあらず、論語にも、耕やうへ其中にあるの教あれども、凡人は目あてなければ怠るものなれば、福をまねくことを目当として善を行ふも、亦た善に勧むの工夫なるべし。
書き下し
陰德あれば陽報ありといへる事、誰もいふ事にて、人の知らざる慈悲、惠あれば、人も知りてうらやむ程の福の報ふこととなり。聖人の敎にも、善を積むの家には餘んの慶あり、不善を積の家には餘んの殃あり、と。また善を作せば、天より百の祥を降し、不善を作せば天より百の殃を降すともあり。禍福ともにみな己より求むるところなり。たとへば、草木の種を植ゆるに、かならずその草木を生ず。善を蒔けば福を生じ、惡を植ゆればわざわひを生ずること、また同じ。小人の惡をなして福の來たらむ事を欲するは、茄子を植ゑて瓜の生ぜむことを欲し、豆を植ゑて麥の生ぜむことを欲するよりも甚し。さればこそ、福をねがはゞ、出精して善のたねを植ゑべし、然れども、人として人たるの道を行ひ、善を積むこと、福をもとむるの爲にあらず、論語にも、耕やうへ其中にあるの敎あれども、凡人は目あてなければ怠るものなれば、福をまねくことを目當として善を行ふも、亦た善に勸むの工夫なるべし。
現代語訳
陰徳あれば陽報ありということは、誰もが言うことで、人の知らない慈悲や恵みがあれば、人も知ってうらやむほどの福の報いがあるということです。聖人の教えにも、「善を積む家には余りの慶びがあり、不善を積む家には余りの災いがある」とあります。また「善を行えば天から百の祥を降し、不善を行えば天から百の災いを降す」ともあります。禍福はともにみな自分から求めるところです。たとえば、草木の種を植えれば必ずその草木が生えます。善を蒔けば福を生じ、悪を植えれば禍を生じることも同じです。小人が悪を行って福が来ることを望むのは、茄子を植えて瓜が生えることを望み、豆を植えて麦が生えることを望むより甚だしいことです。ですから、福を願うなら、精を出して善の種を植えるべきです。しかし、人として人たる道を行い、善を積むのは、福を求めるためではありません。『論語』にも、耕して…その中にあり、という教えがありますが、凡人は目当てがないと怠るものですから、福を招くことを目当てとして善を行うのも、善に励む工夫でしょう。
解説
この章句が説くこと
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新語・慎微夫れ目の黒白を別つ能わず、耳の清濁を別つ能わず、口の善悪を言う能わざるは、則ち所謂能わざるなり。故に道を設くる者は見曉し易く、凡人の心に通じて、不能の行に達する所以なり。道は、人の行く所なり。夫れ大道は之を履みて行けば、則ち能わざる無し。故に之を道と謂う。故に孔子曰く、「道の行われざるや」と。人の行う能わざるを言うなり。故に顔淵に謂いて曰く、「之を用うれば則ち行い、之を舎つれば則ち蔵す、惟だ我と爾と是れ有るかな」と。顔淵の道世に施せども之を用うる莫きを言うなり。人の仁を懐き義を行い、纖微を分別し、天地を忖度する能わざるに由り、乃ち身を苦しめ形を労し、深山に入り、神仙を求め、二親を棄て、骨肉を捐て、五穀を絶ち、詩・書を廃し、天地の宝に背き、不死の道を求む。世に通じ非を防ぐ所以に非ざるなり。
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『大和俗訓』巻之八・応接一人の善言を聞きて移りやすきは、誠によし。人の不善なる言を聞きて、移りやすき人あり。まよへりと云ふべし。是知なければなり。よく心の内に思案し、其言の是非をわきまへて、悪しき言にまよふべからず。一古人の言に、衆人を以て人を望めば、人従ひやすしといへり。衆人とは凡夫のことなり。人の我に対し不義なるをば、凡夫なればかくこそあらめと思ひ、なだめ許して咎めざれば、人我に従ひやすく、人そむかずとなり。君子の道を以て矩にして、凡夫を一々ただせば、一も矩にあはず。一人も全き人なかるべし。かくの如くすれば、人我に従はず、背きやすし。ひが事多きは、うき世のならひぞと思ひさとりて、人をとがめ世をうらみざる事、君子の心なり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、性善を知るは、至極のことにて有べけれど、我等ごときは、何程聞ても得らるべきにあらず。孟子の如き器量あらば善ならん。後世の者、所詮及び難し。又世界数万億の中に、纔に二十人三十人、仮令九十百に至り、得心する人ありとも、いはゞ少しのことなり。只心易云て、世渡りを能するこそ善かるべけれ。仏者ならば、極楽へ往生すと云て悦ばせ、儒者ならば、天地に升降と云こそ、勝んと思へり。仮令覚ればとて、同じ天地なれば、苦んで益なきことにあらずや。
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