酔古堂剣掃 / 集情・我は幸ひに不癡不慧の中に在り
隔簾聞墮釵聲而不動念者,此人不癡則慧,我幸在不癡不慧中。
新字:隔簾聞堕釵声而不動念者,此人不痴則慧,我幸在不痴不慧中。
書き下し
簾を隔てて釵を墮す聲を聞きて念を動かさざる者は、此の人癡ならずんば則ち慧なり、我は幸ひに不癡不慧の中に在り。
現代語訳
簾の向こうで女性が簪を落とす音を聞いても心を動かさない者は、よほどの愚か者でなければ、よほどの悟った者です。私は幸いにも、愚かでもなく悟ってもいない、その間にいます。
解説
美しいものに心が動くことを、正直に、そしてユーモアを込めて肯定した一則です。釵は女性の髪に挿す簪で、簾越しにそれが落ちる音は、姿の見えない女性の気配を感じさせます。その音に何の心も動かないのは、情を知らない愚か者か、すべてを超越した悟りの人のどちらかだと言います。癡は愚か、慧は悟りの知恵です。そして自分はそのどちらでもなく、心が動いてしまう凡人であることを幸いだと言い切るのです。聖人ぶらずに、人並みに心が揺れることを認める素直さが、この句の魅力です。何事にも動じないことだけが立派なのではなく、心を動かされる感受性を持っていることも、人としての豊かさだと気づかせてくれます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
情感受性凡人素直心
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