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肝要工夫録 / 忠は我を忘れる

先祖代々、我が身まで數百年來、安樂に暮し、其家を相續すること、君の御恩の廣大なること、たとふべきものなし。先づ君につかふるには、唯だ忠の一字を朝暮忘るべからず、一體忠の字は、君にかぎらず、朋友其外、人に對して、こゝろのまことを十分に盡すことなり。この誠をつくすべきの最上は、君に止まる故に、專ら君に對していふなり。されば、君につかふるには、何事も裏表なく、己れが力一ぱいに盡すべき事なり。その心力をつくさむとおもはゞ、先づ君あることを知りて、我あることをわするゝを肝要の工夫とすべし。もし幸を得て、昇進する事あらば、我が不肖を以て此職に任じ、果して御爲になるか、ならざるかと、薄氷を踏むが如く、深淵に臨むが如く、唯だ其任を重んじて、いよいよ人をも敬ひ、己を謙虛するものなり。(謙虛とは、いんぎんにへりくだりて、胸中に慢心なきをいふ。かやうの人は、衆人の【贔屓/贔貧】するものなり。古人の言葉に、足多きものは倒れずといふて、蜈蚣や、【蚰/蛅】は、死んでも倒れぬものにて、足の助け多き故なり。人もそのごとくにて、おのれの高貴才智に誇らず、謙虛なるときは、衆人ひゐきして、助け多きゆゑに、無實のつまづきなどなきことなり。)是れ我あることを知らざるゆゑなり。

新字:先祖代々、我が身まで数百年来、安楽に暮し、其家を相続すること、君の御恩の広大なること、たとふべきものなし。先づ君につかふるには、唯だ忠の一字を朝暮忘るべからず、一体忠の字は、君にかぎらず、朋友其外、人に対して、こゝろのまことを十分に尽すことなり。この誠をつくすべきの最上は、君に止まる故に、専ら君に対していふなり。されば、君につかふるには、何事も裏表なく、己れが力一ぱいに尽すべき事なり。その心力をつくさむとおもはゞ、先づ君あることを知りて、我あることをわするゝを肝要の工夫とすべし。もし幸を得て、昇進する事あらば、我が不肖を以て此職に任じ、果して御為になるか、ならざるかと、薄氷を踏むが如く、深淵に臨むが如く、唯だ其任を重んじて、いよいよ人をも敬ひ、己を謙虚するものなり。(謙虚とは、いんぎんにへりくだりて、胸中に慢心なきをいふ。かやうの人は、衆人の【贔屓/贔貧】するものなり。古人の言葉に、足多きものは倒れずといふて、蜈蚣や、【蚰/蛅】は、死んでも倒れぬものにて、足の助け多き故なり。人もそのごとくにて、おのれの高貴才智に誇らず、謙虚なるときは、衆人ひゐきして、助け多きゆゑに、無実のつまづきなどなきことなり。)是れ我あることを知らざるゆゑなり。

書き下し

先祖代々、我が身まで數百年來、安樂に暮し、其家を相續すること、君の御恩の廣大なること、たとふべきものなし。先づ君につかふるには、唯だ忠の一字を朝暮忘るべからず、一體忠の字は、君にかぎらず、朋友其外、人に對して、こゝろのまことを十分に盡すことなり。この誠をつくすべきの最上は、君に止まる故に、專ら君に對していふなり。されば、君につかふるには、何事も裏表なく、己れが力一ぱいに盡すべき事なり。その心力をつくさむとおもはゞ、先づ君あることを知りて、我あることをわするゝを肝要の工夫とすべし。もし幸を得て、昇進する事あらば、我が不肖を以て此職に任じ、果して御爲になるか、ならざるかと、薄氷を踏むが如く、深淵に臨むが如く、唯だ其任を重んじて、いよいよ人をも敬ひ、己を謙虛するものなり。(謙虛とは、いんぎんにへりくだりて、胸中に慢心なきをいふ。かやうの人は、衆人の贔屓するものなり。古人の言葉に、足多きものは倒れずといふて、蜈蚣や、蚰は、死んでも倒れぬものにて、足の助け多き故なり。人もそのごとくにて、おのれの高貴才智に誇らず、謙虛なるときは、衆人ひゐきして、助け多きゆゑに、無實のつまづきなどなきことなり。)是れ我あることを知らざるゆゑなり。

現代語訳

先祖代々、自分の身まで数百年来、安楽に暮らし、その家を相続していることは、君の御恩が広大でたとえようがありません。まず君に仕えるには、ただ忠の一字を朝夕忘れてはいけません。そもそも忠の字は、君に限らず、朋友その他、人に対して心の真を十分に尽くすことです。この誠を尽くすべき最上の相手が君ですから、専ら君に対していうのです。ですから、君に仕えるには、何事も裏表なく、自分の力いっぱい尽くすべきです。その心力を尽くそうと思うなら、まず君あることを知り、我あることを忘れるのを、肝要の工夫とすべきです。もし幸いに昇進することがあれば、不肖の私がこの職に就いて、果たして御ためになるかならないかと、薄氷を踏むように、深淵に臨むように、ただその任を重んじて、いよいよ人を敬い、自分は謙虚にするものです。(謙虚とは、丁寧にへりくだって、胸中に慢心がないことをいいます。こういう人は、多くの人が贔屓にするものです。古人の言葉に、「足の多い者は倒れない」といい、蜈蚣や蚰蜒は死んでも倒れないもので、足の助けが多いからです。人もそのようで、自分の高貴さや才智に誇らず、謙虚であれば、多くの人が贔屓して助けが多いので、思いがけないつまずきなどがありません。)これは、自分というものを忘れているからです。

解説

忠を、君に限らず人に対して心の真を尽くすことと定義し、我を忘れて仕えることを工夫の要とする条です。昇進時には薄氷を踏む思いで職の重さを受け止め、謙虚にせよと説き、足の多いムカデが倒れない比喩で、謙虚な人は助けが多いと述べます。現代の管理職にも、昇進は自己の成功ではなく責任の増加だという教訓になります。謙虚さは単なる美徳ではなく、周囲の協力を集める実利でもあります。権限が増すほど、助けてくれる人を増やす姿勢が求められます。

この章句が説くこと

忠我を忘れる謙虚昇進薄氷を踏む足多き者

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