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肝要工夫録 / 退けられても恨まず

又退けらるゝ事ありとも、我が不肖なるゆゑに、この職に備はらず、我が身、御役退けられ、我より勝りたるもの、此職を司り、御爲とならば、この上もなき事なりと、いよ〱天にしたがふべきものなり。むかし楚國の令尹子文といへる人は、三度官に昇り、また三度退役したれども、いさゝか喜怒の色見えずと、是れ全く君あることを知りて、我あることを知らざればなり。凡そ人は身勝手の御奉公といふものにて、擧げらるゝときは愈よ君に諂ひ、人に驕り、また退けらるゝ時は、いよ〱天を恨み、君をそしるなり。今の人、立身すれば天へものぼるごとくによろこび、さぞかし御爲にもなるべき御奉公をするかと思へば、唯だ身分の昇進、食祿の倍增、諸人の尊敬に逢ひぬる事をよろこぶのみなり。さて誰々も、當時己が持つところの祿は、君の賜なれば、たとへ身に罪なくとも、唯今にも其祿をかへせとの仰あらば、畏り奉りて、さし上げねばならぬ道理なり。然れば、御奉公の筋に於ては、いか樣なる事ありとも、ゆめゆめ不足のこと、いふべき事にあらず。彼是勝手づくをおもひて、不足をいふは、不屈至極のことなり。

新字:又退けらるゝ事ありとも、我が不肖なるゆゑに、この職に備はらず、我が身、御役退けられ、我より勝りたるもの、此職を司り、御為とならば、この上もなき事なりと、いよ〱天にしたがふべきものなり。むかし楚国の令尹子文といへる人は、三度官に昇り、また三度退役したれども、いさゝか喜怒の色見えずと、是れ全く君あることを知りて、我あることを知らざればなり。凡そ人は身勝手の御奉公といふものにて、挙げらるゝときは愈よ君に諂ひ、人に驕り、また退けらるゝ時は、いよ〱天を恨み、君をそしるなり。今の人、立身すれば天へものぼるごとくによろこび、さぞかし御為にもなるべき御奉公をするかと思へば、唯だ身分の昇進、食禄の倍增、諸人の尊敬に逢ひぬる事をよろこぶのみなり。さて誰々も、当時己が持つところの禄は、君の賜なれば、たとへ身に罪なくとも、唯今にも其禄をかへせとの仰あらば、畏り奉りて、さし上げねばならぬ道理なり。然れば、御奉公の筋に於ては、いか様なる事ありとも、ゆめゆめ不足のこと、いふべき事にあらず。彼是勝手づくをおもひて、不足をいふは、不屈至極のことなり。

書き下し

又退けらるゝ事ありとも、我が不肖なるゆゑに、この職に備はらず、我が身、御役退けられ、我より勝りたるもの、此職を司り、御爲とならば、この上もなき事なりと、いよ〱天にしたがふべきものなり。むかし楚國の令尹子文といへる人は、三度官に昇り、また三度退役したれども、いさゝか喜怒の色見えずと、是れ全く君あることを知りて、我あることを知らざればなり。凡そ人は身勝手の御奉公といふものにて、擧げらるゝときは愈よ君に諂ひ、人に驕り、また退けらるゝ時は、いよ〱天を恨み、君をそしるなり。今の人、立身すれば天へものぼるごとくによろこび、さぞかし御爲にもなるべき御奉公をするかと思へば、唯だ身分の昇進、食祿の倍增、諸人の尊敬に逢ひぬる事をよろこぶのみなり。さて誰々も、當時己が持つところの祿は、君の賜なれば、たとへ身に罪なくとも、唯今にも其祿をかへせとの仰あらば、畏り奉りて、さし上げねばならぬ道理なり。然れば、御奉公の筋に於ては、いか樣なる事ありとも、ゆめゆめ不足のこと、いふべき事にあらず。彼是勝手づくをおもひて、不足をいふは、不屈至極のことなり。

現代語訳

また、退けられることがあっても、自分が不肖なのでこの職に務まらず、自分が役を退けられ、自分より優れた者がこの職を司り、御ためになるなら、これ以上のことはないと、いよいよ天に従うべきです。昔、楚国の令尹の子文という人は、三度官に昇り、また三度退役しても、少しも喜怒の色を見せなかったといいます。これはまったく君あることを知って、我あることを知らなかったからです。およそ人は身勝手のご奉公をするもので、挙げられるときはいよいよ君に諂い、人に驕り、退けられるときはいよいよ天を恨み、君をそしります。今の人は、立身すれば天にも昇るように喜び、さぞ御ためになるご奉公をするのかと思えば、ただ身分の昇進、俸禄の倍増、人々の尊敬を得たことを喜ぶだけです。さて、だれもが今持っている禄は君の賜物ですから、たとえ身に罪がなくても、いますぐその禄を返せとの仰せがあれば、畏まって差し上げなければならない道理です。そうであれば、ご奉公の筋においては、どのようなことがあっても、決して不足を言うべきではありません。あれこれ勝手を思って不足を言うのは、不届き至極のことです。

解説

昇進時の謙虚さに続き、降格や退任の際の心構えを述べた条です。春秋時代の楚の令尹子文が三度昇り三度退いても喜怒の色を見せなかったという故事を引き、我を忘れて職に当たる姿勢を示します。現代の組織でも、異動や降格のとき、人は処遇への不満から任務への熱意を失いがちです。管理職は、自分の処遇に関わらず、役が組織のために果たされているかを基準に身を処すと、周囲の信頼を保てます。ただし、不当な扱いへの異議まで封じる趣旨と読むべきではないでしょう。

この章句が説くこと

退役令尹子文喜怒天に従う禄不足

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