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韓非子 / 顯學第五十

今或謂人曰「使子必智而壽」,則世必以爲狂。夫智,性也;壽,命也。性命者,非所學於人也,而以人之所不能爲說人,此世之所以謂之爲狂也。謂之不能然,則是諭也,夫諭性也。以仁義教人,是以智與壽說也,有度之主弗受也。故善毛嗇、西施之美,無益吾面;用脂澤粉黛,則倍其初。言先王之仁義,無益於治;明吾法度,必吾賞罰者,亦國之脂澤粉黛也。故明主急其助而緩其頌,故不道仁義。今巫祝之祝人曰:「使若千秋萬歲。」千秋萬歲之聲括耳,而一日之壽無徵於人,此人所以簡巫祝也。今世儒者之說人主,不善今之所以爲治,而語已治之功;不審官法之事,不察姦邪之情,而皆道上古之傳譽、先王之成功。儒者飾辝曰:「聽吾言,則可以霸王。」此說者之巫祝,有度之主不受也。故明主舉實事,去無用,不道仁義者故,不聽學者之言。今不知治者必曰:「得民之心。」欲得民之心而可以爲治,則是伊尹、管仲無所用也,將聽民而已矣。民智之不可用,猶嬰兒之心也。夫嬰兒不剔首則腹痛,不㨽痤則寖益。剔首、揊痤,必一人抱之,慈母治之,然猶啼呼不止,嬰兒子不知犯其所小苦、致其所大利也。

新字:今或謂人曰「使子必智而寿」,則世必以為狂。夫智,性也;寿,命也。性命者,非所学於人也,而以人之所不能為説人,此世之所以謂之為狂也。謂之不能然,則是諭也,夫諭性也。以仁義教人,是以智与寿説也,有度之主弗受也。故善毛嗇、西施之美,無益吾面;用脂沢粉黛,則倍其初。言先王之仁義,無益於治;明吾法度,必吾賞罰者,亦国之脂沢粉黛也。故明主急其助而緩其頌,故不道仁義。今巫祝之祝人曰:「使若千秋万歳。」千秋万歳之声括耳,而一日之寿無徴於人,此人所以簡巫祝也。今世儒者之説人主,不善今之所以為治,而語已治之功;不審官法之事,不察姦邪之情,而皆道上古之伝誉、先王之成功。儒者飾辝曰:「聴吾言,則可以覇王。」此説者之巫祝,有度之主不受也。故明主舉実事,去無用,不道仁義者故,不聴学者之言。今不知治者必曰:「得民之心。」欲得民之心而可以為治,則是伊尹、管仲無所用也,将聴民而已矣。民智之不可用,猶嬰児之心也。夫嬰児不剔首則腹痛,不㨽痤則寖益。剔首、揊痤,必一人抱之,慈母治之,然猶啼呼不止,嬰児子不知犯其所小苦、致其所大利也。

書き下し

今或ひと人に謂ひて曰く「子をして必ず智にして壽ならしめん」と、則ち世必ず以て狂と爲す。夫れ智は、性なり。壽は、命なり。性命なる者は、人に學ぶ所に非ざるなり、而るに人の能くせざる所を以て人に說く、此れ世の之を謂ひて狂と爲す所以なり。之を謂ひて然る能はずとすれば、則ち是れ諭なり、夫れ諭は性なり。仁義を以て人に教ふるは、是れ智と壽とを以て說くなり、有度の主は受けざるなり。故に毛嗇・西施の美を善しとするも、吾が面に益無し。脂澤粉黛を用ふれば、則ち其の初めに倍す。先王の仁義を言ふは、治に益無し。吾が法度を明らかにし、吾が賞罰を必にする者も、亦國の脂澤粉黛なり。故に明主は其の助を急にして其の頌を緩くす、故に仁義を道はず。今巫祝の人を祝して曰く、「若をして千秋萬歲ならしめん」と。千秋萬歲の聲耳に括すれども、一日の壽も人に徵無し、此れ人の巫祝を簡る所以なり。今世の儒者の人主に說くや、今の治を爲す所以を善しとせずして、已に治まるの功を語り、官法の事を審らかにせず、姦邪の情を察せずして、皆上古の傳譽、先王の成功を道ふ。儒者辝を飾りて曰く、「吾が言を聽かば、則ち以て霸王たるべし」と。此れ說者の巫祝にして、有度の主は受けざるなり。故に明主は實事を舉げ、無用を去り、仁義を道はざる者は故なり、學者の言を聽かず。今治を知らざる者は必ず曰く、「民の心を得よ」と。民の心を得んと欲して以て治を爲すべくんば、則ち是れ伊尹・管仲も用ふる所無きなり、將に民に聽かんとするのみ。民智の用ふべからざるは、猶ほ嬰兒の心のごときなり。夫れ嬰兒は首を剔らざれば則ち腹痛み、痤を㨽かざれば則ち寖く益す。首を剔り、痤を揊くは、必ず一人之を抱き、慈母之を治む、然れども猶ほ啼呼して止まず、嬰兒子は其の小苦する所を犯して、其の大利する所を致すを知らざればなり。

現代語訳

今、ある人が他人に「あなたを必ず賢く長生きにしてあげよう」と言えば、世間は必ず正気でないと思う。智恵は生まれつきのものであり、寿命は天命である。生まれつきと天命は人から学べるものではないのに、人にできないことで人に説くから、世間はこれを正気でないと言うのである。できないことはできないと言うのなら、それは事実を諭しているのであり、諭すとはありのままの本性を言うことである。仁義によって人を教えようとするのは、智恵と寿命を授けると説くのと同じで、法度をわきまえた君主は受け入れない。だから毛嗇や西施の美しさを褒めても、自分の顔には何の足しにもならないが、紅やおしろい、眉墨を使えば、もとの顔の倍も美しくなる。先王の仁義を語っても統治には何の足しにもならないが、自分の法度を明らかにし、自分の賞罰を必ず行うことは、国にとっての紅やおしろいである。だから明主は実際の助けを急ぎ、称賛の言葉は後回しにする。それで仁義を説かないのである。今、巫祝が人のために祈って「あなたを千年も万年も長生きさせよう」と言う。千秋万歳の声は耳にうるさいほど聞こえても、一日の寿命も延びた証拠はない。これが人々が巫祝を軽んじる理由である。今の世の儒者が君主に説くときは、今の統治の手立てを良しとせず、昔の治まった功績を語り、官の法の事柄を詳しく調べず、悪事の実情を見きわめず、皆大昔の伝えられた誉れや先王の成功を語る。儒者は言葉を飾って「私の言葉を聞けば覇者にも王者にもなれる」と言う。これは説く者の巫祝であって、法度をわきまえた君主は受け入れない。だから明主は実際の事柄を取り上げ、役に立たないものを除き、仁義を説かないのはこのためであり、学者の言葉を聞かない。今、統治を知らない者は必ず「民の心を得よ」と言う。民の心を得ることで統治ができるなら、殷の伊尹も斉の管仲も用はなく、ただ民の言うことを聞けばよいことになる。民の智恵が役に立たないのは、赤ん坊の心と同じである。赤ん坊は頭を剃らなければ腹が痛み、できものを切り開かなければだんだん悪くなる。頭を剃りできものを切り開くときは、必ず一人が抱きかかえ、慈母が手当てをするが、それでも泣き叫んでやまない。赤ん坊は、小さな苦痛を我慢して大きな利益を得ることが分からないからである。

解説

顕学篇で、仁義を説くことを「必ず賢く長生きにしてやる」と言うのと同じ空約束だと退け、法度と賞罰を「国の化粧品」にたとえる一段です。西施の美しさを褒めても自分の顔は変わらないが、おしろいを使えば美しくなる。先王の仁義を語っても国は治まらないが、法と賞罰は実際に効く、という比喩は鮮やかです。儒者を「説者の巫祝」と呼ぶ辛辣さも印象的です。後半の「民の心を得よ」への反論では、民は赤ん坊のように目先の痛みを嫌い大きな利益が見えない、と言い切ります。今の改革でも、反発があっても長期の利益のために必要な手当てをする判断の重さを考えさせます。

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