韓非子 / 難二第三十七
趙簡子圍衛之郛郭,犀楯、犀櫓,立於矢石之所不及,鼓之而士不起。
新字:趙簡子囲衛之郛郭,犀楯、犀櫓,立於矢石之所不及,鼓之而士不起。
書き下し
趙簡子衛の郛郭を囲む、犀楯・犀櫓もて、矢石の及ばざる所に立ち、之に鼓すれども士起たず。
現代語訳
趙簡子が衛の外城を包囲したとき、犀の皮の盾と大盾で身を守り、矢や石の届かないところに立って、進軍の太鼓を打ったが、兵士たちは奮い立たなかった。
解説
難二篇の最後の話の書き出しです。晋の卿である趙簡子(趙鞅)が衛の外城を攻めたとき、自分は犀の皮の盾に守られて矢や石の届かない安全な場所にいながら太鼓を打って進軍を命じましたが、兵士は動きませんでした。この後、簡子が兵士の疲れを嘆くと、使者の燭過が、兵士が悪いのではなく君主の用い方の問題だと答え、晋の献公・恵公・文公の例を挙げて、同じ民でも君主次第で勝ちも負けもすると説きます。簡子は盾を捨てて危険な場所に立ち、兵士は奮い立って大勝します。指揮官が自分だけ安全な場所にいて部下に危険を命じても人は動かない、という教訓は昔から語られてきましたが、韓非はこの美談にも、人を動かすのは率先垂範ではなく利と賞罰だと反論を加えることになります。
関連する章句
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『韓非子』難二第三十七昔者吾が先君献公国を并すこと十七、国を服すること三十八、戦ひて十有二勝つ、是れ民の用なり。献公没し、恵公位に即く、淫衍暴乱にして、身は玉女を好み、秦人恣に侵し、絳を去ること十七里、亦是れ人の用なり。恵公没し、文公之を授かり、衛を囲み、鄴を取り、城濮の戦ひに、五たび荊人を敗り、尊名を天下に取る、亦此の人の用なり。亦君能はざる有るのみ、士に弊無きなり」と。簡子乃ち楯・櫓を去り、矢石の及ぶ所に立ち、之に鼓して士之に乗じ、戦ひて大いに勝つ。簡子曰く、「吾革車千乗を得んよりは、行人燭過の一言を聞くに如かず」と。或ひと曰く、行人未だ以て説くこと有らざるなり、乃ち恵公は此の人を以て是れ敗れ、文公は此の人を以て是れ霸たりと道ふ、未だ人を用ふる所以を見さざるなり。簡子未だ速やかに盾・櫓を去る可からざるなり。厳親囲みに在りて、軽く矢石を犯すは、孝子の親を愛する所以なり。孝子の親を愛するは、百数の一なり。今以て身危きに処りて人尚ほ戦ふ可しと為すは、是れ百族の子の上に於けるを以て皆孝子の親を愛するが若しとするなり、是れ行人の誣なり。利を好み害を悪むは、夫の人の有する所なり。
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呂氏春秋・貴直④趙簡子、衛の附郭を攻むるに、自ら兵を將う。戰うに及びて、且に遠くに立たんとし、又犀蔽屏櫓の下に居る、之に鼓すれども士起たず。簡子、桴を投じて歎じて曰く、「鳴呼、士の遬弊すること一に此の若きか。」行人燭過、冑を免き戈を横たえて進みて曰く、「亦君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子艴然として色を作して曰く、「寡人の使う無くして、身自ら是の衆を将いるや、子親しく寡人の無能を謂う。說有らば則ち可なるも、說無くんば則ち死せん。」對えて曰く、「昔吾が先君獻公は位に即きて五年、國を兼ぬること十九、此の士を用いたるなり。惠公は位に即きて二年、淫色暴慢にして、身は玉女を好む。秦人我を襲い、絳を遜去すること七十、此の士を用いたるなり。文公位に即きて二年、之を底すに勇を以てす。故に三年にして士盡く果敢なり。城濮の戰い、五たび荊人を敗り、衛を圍み曹を取り、石社を抜き、天子の位を定め、尊名を天下に成す。此の士を用いたるなり。亦だ君の不能有るのみ。士何の弊することか之れ有らん。」簡子乃ち犀蔽屏櫓を去りて、矢石の及ぶ所に立ち、一鼓して士畢く之に乘ず。簡子曰く、「吾、革車千乘を得ん與りは、行人燭過の一言を聞くに如かず。」行人燭過は能く其の君を諫めたりと謂う可し。戰鬭の上、枹鼓方に用いらる。賞は厚きを加えず、罰は重きを加えざるに、一言にして士皆其の上の為に死するを樂しむ。
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『韓非子』難二第三十七簡子抱を投げて曰く、「烏乎、吾の士數弊す。」燭過冑を免ぎて對えて曰く、「亦た君の能わざる有るのみ。士弊れたる者無し。」
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『韓非子』難二第三十七賞厚くして信なれば、夫人は敵を軽んず。刑重くして必なれば、夫人は北げず。... 衆を將る者然らざるの數に出でずして、而も百に一人無きの行いに道る。
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呂氏春秋・期賢②趙簡子晝居し、喟然として太息して曰く、「異なるかな。吾、衛を伐たんと欲すること十年、而るに衛伐たず。」侍者曰く、「趙の大を以て、而して衛の細を伐つ、君若し欲せずんば則ち可なり。君若し之を欲せば、請う令して之を伐たんことを。」簡子曰く、「而の言の如からざるなり。衛に士十人有り、吾が所に於り。吾乃ち且に之を伐たんとすれば、十人の者、其の不義を言うなり。而して我之を伐たば、是れ我不義を為すなり。」故に簡子の時、衛十人の者を以て趙の兵を按じ、簡子の身を歿せしめたり。衛は人を用うることを知れりと謂う可し。十士を遊ばして、國家安きを得たり。簡子は好く諫に從えりと謂う可し。十士に聽きて小を侵し弱を奪うの名無し。
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『韓非子』難一第三十六卑賤は尊貴を待たずして進み、大臣は左右に因らずして見ゆ。百官脩通し、羣臣輻湊す。賞有る者は君其の功を見、罰有る者は君其の罪を知る。見知前に悖らず、賞罰後に弊れず、安んぞ葬られざるの患有らん。管仲は此の言を桓公に明らかにするに非ず、三子を去らしむ、故に曰く、管仲は度無し、と。襄子晋陽の中に囲まる、囲みを出で、功有る者五人を賞す、高赫賞首と為る。張孟談曰く、「晋陽の事、赫大功無し、今賞首と為るは、何ぞや」と。襄子曰く、「晋陽の事、寡人の国家危ふく、社稷殆し。吾が羣臣驕侮の意有らざる者無し、惟だ赫子のみ君臣の礼を失はず、是を以て之を先にす」と。仲尼之を聞きて曰く、「善く賞するかな。襄子一人を賞して天下の人臣為る者敢て礼を失ふ莫し」と。或ひと曰く、仲尼は善く賞することを知らず。夫れ善く賞罰する者は、百官敢て職を侵さず、羣臣敢て礼を失はず。上其の法を設けて、下に姦詐の心無し。此の如くんば、則ち善く賞罰すと謂ふ可し。襄子をして晋陽に於て、令行はれず、禁止まらざらしめば、是れ襄子に国無く、晋陽に君無きなり、尚ほ誰と与に守らん。今襄子晋陽に於けるや、知氏之に灌ぎ、臼竈に亀を生じ、而して民に反心無し、是れ君臣親しむなり。襄子君臣親しむの沢有り、令行はれ禁止むの法を操る、而るに猶ほ驕侮の臣有り、是れ襄子罰を失ふなり。人臣為る者は、事に乗じて功有れば則ち賞す。