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韓非子 / 外儲説右上第三十四

故左右爲社鼠,用事者爲猛狗,則術不行矣。堯欲傳天下於舜。鯀諫曰:「不祥哉!孰以天下而傳之於匹夫乎?」堯不聽,舉兵而誅殺鯀於羽山之郊。共工又諫曰:「孰以天下而傳之於匹夫乎?」堯不聽,又舉兵而誅共工於幽州之都。於是天下莫敢言無傳天下於舜。仲尼聞之曰:「堯之知舜之賢,非其難者也。夫至乎誅諫者必傳之舜,乃其難也。」一曰:「不以其所疑敗其所察則難也。」荆莊王有茅門之法曰:「羣臣大夫諸公子入朝,馬蹄踐霤者,廷理斬其輈,戮其御。」於是太子入朝,馬蹄踐霤,廷理斬其輈,戮其御。太子怒,入爲王泣曰:「爲我誅戮廷理。」王曰:「法者,所以敬宗廟,尊社稷。故能立法從令尊敬社稷者,社稷之臣也,焉可誅也?夫犯法廢令不尊敬社稷者,是臣乘君而下尚校也。臣乘君,則主失威;下尚校,則上位危。威失位危,社稷不守,吾將何以遺子孫?」於是太子乃還走,避舍露宿三日,北面再拜請死罪。一曰:楚王急召太子。楚國之法,車不得至於茆門。天雨,廷中有潦,太子遂驅車至於茆門。廷理曰:「車不得至茆門。至茆門,非法也。」太子曰:「王召急,不得須無潦。」遂驅之。廷理舉殳而擊其馬,敗其駕。

新字:故左右為社鼠,用事者為猛狗,則術不行矣。堯欲伝天下於舜。鯀諫曰:「不祥哉!孰以天下而伝之於匹夫乎?」堯不聴,舉兵而誅殺鯀於羽山之郊。共工又諫曰:「孰以天下而伝之於匹夫乎?」堯不聴,又舉兵而誅共工於幽州之都。於是天下莫敢言無伝天下於舜。仲尼聞之曰:「堯之知舜之賢,非其難者也。夫至乎誅諫者必伝之舜,乃其難也。」一曰:「不以其所疑敗其所察則難也。」荆荘王有茅門之法曰:「羣臣大夫諸公子入朝,馬蹄践霤者,廷理斬其輈,戮其御。」於是太子入朝,馬蹄践霤,廷理斬其輈,戮其御。太子怒,入為王泣曰:「為我誅戮廷理。」王曰:「法者,所以敬宗廟,尊社稷。故能立法従令尊敬社稷者,社稷之臣也,焉可誅也?夫犯法廃令不尊敬社稷者,是臣乗君而下尚校也。臣乗君,則主失威;下尚校,則上位危。威失位危,社稷不守,吾将何以遺子孫?」於是太子乃還走,避舎露宿三日,北面再拝請死罪。一曰:楚王急召太子。楚国之法,車不得至於茆門。天雨,廷中有潦,太子遂駆車至於茆門。廷理曰:「車不得至茆門。至茆門,非法也。」太子曰:「王召急,不得須無潦。」遂駆之。廷理舉殳而撃其馬,敗其駕。

書き下し

故に左右社鼠と為り、事を用ふる者猛狗と為れば、則ち術行はれず。堯天下を舜に伝へんと欲す。鯀諫めて曰く、「不祥なるかな。孰か天下を以て之を匹夫に伝へんや」と。堯聴かず、兵を挙げて鯀を羽山の郊に誅殺す。共工又諫めて曰く、「孰か天下を以て之を匹夫に伝へんや」と。堯聴かず、又兵を挙げて共工を幽州の都に誅す。是に於て天下敢て天下を舜に伝ふる無かれと言ふ莫し。仲尼之を聞きて曰く、「堯の舜の賢を知るは、其の難き者に非ざるなり。夫れ諫むる者を誅するに至りても必ず之を舜に伝ふる、乃ち其の難きなり」と。一に曰く、「其の疑ふ所を以て其の察する所を敗らざるは則ち難きなり」と。荊の荘王に茅門の法有りて曰く、「羣臣大夫諸公子入朝するに、馬蹄霤を践む者は、廷理其の輈を斬り、其の御を戮す」と。是に於て太子入朝し、馬蹄霤を践む、廷理其の輈を斬り、其の御を戮す。太子怒り、入りて王の為に泣きて曰く、「我が為に廷理を誅戮せよ」と。王曰く、「法なる者は、宗廟を敬し、社稷を尊ぶ所以なり。故に能く法を立て令に従ひ社稷を尊敬する者は、社稷の臣なり、焉んぞ誅す可けんや。夫れ法を犯し令を廃して社稷を尊敬せざる者は、是れ臣君に乗りて下校を尚ぶなり。臣君に乗れば、則ち主威を失ひ、下校を尚べば、則ち上位危ふし。威失はれ位危ふければ、社稷守られず、吾将に何を以て子孫に遺さんとする」と。是に於て太子乃ち還り走り、舎を避けて露宿すること三日、北面再拝して死罪を請ふ。一に曰く、楚王急に太子を召す。楚国の法に、車茆門に至るを得ず。天雨ふり、廷中に潦有り、太子遂に車を駆りて茆門に至る。廷理曰く、「車茆門に至るを得ず。茆門に至るは、法に非ざるなり」と。太子曰く、「王の召すこと急なり、潦無きを須つを得ず」と。遂に之を駆る。廷理殳を挙げて其の馬を撃ち、其の駕を敗る。

現代語訳

だから側近が社の鼠となり、実権を握る者が猛犬となれば、術は行われないのである。堯が天下を舜に譲ろうとした。鯀が諫めて言った。「不吉なことです。天下を匹夫に譲る者がどこにいましょうか」。堯は聞き入れず、兵を挙げて鯀を羽山の郊外で誅殺した。共工がまた諫めて言った。「天下を匹夫に譲る者がどこにいましょうか」。堯は聞き入れず、また兵を挙げて共工を幽州の都で誅した。こうして天下に、天下を舜に譲るなと言う者はいなくなった。仲尼(孔子)はこれを聞いて言った。「堯が舜の賢さを見抜いたことは、難しいことではない。諫める者を誅してまでも必ず舜に譲ったこと、それこそが難しいのだ」。別の伝えでは「疑いをさしはさむ者の言葉によって、自分が見極めたことを台無しにしないのは難しいことだ」と言ったという。荊(楚)の荘王には茅門の法があり、「群臣・大夫・公子たちが入朝する際、馬の蹄が軒下の雨だれ落ちを踏んだ者は、廷理(宮廷の司法官)がその車の轅を斬り、御者を処刑する」と定められていた。あるとき太子が入朝し、馬の蹄が雨だれ落ちを踏んだので、廷理はその轅を斬り、御者を処刑した。太子は怒り、宮中に入って王に泣きついた。「私のために廷理を誅殺してください」。王は言った。「法とは、宗廟を敬い、社稷を尊ぶためのものだ。だから法を立て、命令に従い、社稷を尊ぶ者は社稷の臣であり、どうして誅することができようか。法を犯し命令を無視して社稷を尊ばない者は、臣下が君主をしのぎ、下の者が上と張り合うことである。臣下が君主をしのげば君主は威を失い、下が上と張り合えば上の地位は危うくなる。威を失い地位が危うくなれば社稷は守れない。私はいったい何を子孫に遺せばよいのか」。そこで太子は引き返して逃げ出し、住まいを避けて三日間野宿し、北に向かって再拝して死罪を請うた。別の伝えではこうである。楚王が急いで太子を呼んだ。楚の国の法では、車は茆門まで乗り入れてはならなかった。雨が降って宮廷の庭に水たまりができていたので、太子はそのまま車を走らせて茆門まで来た。廷理が「車は茆門まで入ってはなりません。茆門に乗り入れるのは法に反します」と言うと、太子は「王のお召しが急なのだ。水たまりが引くのを待ってはいられない」と言い、そのまま車を走らせた。廷理は殳(ほこ)を振り上げてその馬を打ち、車を壊した。

解説

第三の經の「堯の再誅」と「荘王の太子に応ず」の說です。堯が舜に天下を譲ろうとしたとき、反対した鯀と共工を誅し、孔子は、舜の賢さを見抜くことより、諫める者を誅してでも譲り通したことが難しいと評します。儒家が聖人とする堯を、決断を貫いた君主として韓非の論理に引き寄せている点が特徴です。楚の荘王の茅門の法の話では、太子の車を罰した廷理を、太子が誅せと泣きついても、王は法を守った社稷の臣だとかばいます。別伝は雨の日の話として語られ、次の単位で王が廷理の爵を上げる結末に続きます。身内や上の立場の人の違反にこそ規則を適用できるかが、組織の規律の本当の試金石になるという教えです。

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