韓非子 / 觀行第二十四
有賁、育之彊而無法術,不得長勝。故勢有不可得,事有不可成。故烏獲輕千鈞而重其身,非其身重於千鈞也,勢不便也。
新字:有賁、育之彊而無法術,不得長勝。故勢有不可得,事有不可成。故烏獲軽千鈞而重其身,非其身重於千鈞也,勢不便也。
書き下し
賁・育の彊有りて法術無ければ、長く勝つことを得ず。故に勢には得べからざるもの有り、事には成すべからざるもの有り。故に烏獲は千鈞を軽しとして其の身を重しとす、其の身の千鈞より重きに非ざるなり、勢便ならざればなり。
現代語訳
孟賁や夏育のような勇士の強さがあっても、法と術がなければ、いつまでも勝ち続けることはできない。だから、勢いには得られないものがあり、事には成し遂げられないものがある。それゆえ力士の烏獲は、千鈞の重さを軽々と持ち上げながら、自分の体は重いと言って持ち上げられない。自分の体が千鈞より重いわけではない。持ち上げる体勢が都合よくないからである。
解説
孟賁・夏育は古代の勇士、烏獲は秦の武王に仕えたと伝わる力士で、いずれも韓非が力の象徴としてよく挙げる人物です。どんな怪力でも、自分で自分の体を持ち上げることはできません。体が千鈞より重いからではなく、そういう体勢が取れないからです。韓非はここで、個人の力には構造的な限界があり、それを超えるには法と術という仕組みが必要だと説きます。「勢」は位置や立場から生まれる力のことで、どれほど優れた人でも、置かれた位置が悪ければ力を発揮できません。自分の評価を自分で上げられないのも同じで、優秀な人ほど、自分を持ち上げる仕組みを外に作っておく必要があります。
関連する章句
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『長短経』論士〔慎子曰く「騰蛇は霧に遊び、飛龍は雲に乗る。雲罷み霧霽るれば、蚯蚓と同じ。則ち其の乗ずる所を失えばなり」と。韓子曰く「千鈞も船を得れば則ち浮き、錙銖も船を失えば則ち沈む。千鈞の軽くして錙銖の重きに非ず、勢いの有ると勢いの無きとのみ。故に勢いに得可からざる有り、事に成す可からざる有り。烏獲は千鈞を軽んじて其の身を重しとす。其の身の軽くして千鈞より重きに非ず、勢い便ならざればなり。離婁は百歩に易くして眉睫に難し。百歩の近くして眉睫の遠きに非ず、道の可ならざればなり」と。〕
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『韓非子』觀行第二十四時に満虚有り、事に利害有り、物に生死有り。人主、三者の為に喜怒の色を発すれば、則ち金石の士も心を離す。聖賢の樸深し。故に明主は人を観て、人をして己を観しめず。堯の独り成すこと能はず、烏獲の自ら挙ぐること能はず、賁・育の自ら勝つこと能はざるに明らかにして、法術を以てすれば、則ち観行の道畢はる。
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『韓非子』觀行第二十四故に堯の智有ると雖も、而も衆人の助け無ければ、大功立たず。烏獲の勁有るも、而も人の助けを得ざれば、自ら舉ぐる能わず。
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『韓非子』觀行第二十四故に明主は烏獲を窮むるに、其の自ら舉ぐる能わざるを以てせず。離朱を困むるに、其の自ら見る能わざるを以てせず。可勢に因りて、易道を求む。
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『韓非子』六反第四十六其の言を聴きて其の当を求め、其の身に任じて其の功を責むれば、則ち無術不肖の者窮す。夫れ力士を得んと欲して其の自ら言ふを聴けば、庸人と烏獲と雖も別つべからざるなり。之に授くるに鼎爼を以てすれば、則ち罷健效る。故に官職なる者は、能士の鼎爼なり、之に任ずるに事を以てして愚智分かる。
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『韓非子』孤憤第十一法術の士は五不勝の勢を操り、歳数を以てして又見ゆることを得ず。当塗の人は五勝の資に乗じて、旦暮独り前に説く。故に法術の士は奚れの道にか進むことを得ん、而して人主は奚れの時にか悟ることを得んや。故に資必ず勝たずして勢両存せず、法術の士焉んぞ危からざることを得んや。